抗鬱剤 | ナノ


▼ black and gray



「どうなさったのです」

 1日の運行を終えたノボリが事務室に戻ると、駅員たちが寄り集まっていた。ノボリの声に振り向いたカズマサが困り顔で口を開く。

「お疲れさまです、ボス。捨てられていたポケモンなのですが、野生に帰そうとしても戻ってきてしまって」

 カズマサと同じように困った顔の駅員たちの視線を辿ると、床に座っているゲンガーを発見した。
 バトルサブウェイの特性上、ギアステーションに捨てられていくポケモンは多い。生まれもった素養がなければ、バトルサブウェイを勝ち抜くことは難しいからだ。トレーナーが望む能力を持たないポケモンは、ことごとく野生に戻されるか捨てられていく。このゲンガーもそのうちの1匹であるのだろう。
 ノボリはしかし、ゲンガーのにたにた笑いを見ながら首を傾げた。
 捨てられたポケモンのような、悲壮な表情ではないのだ。野生が迷いこんだのかとも思ったが、ゲンガーは普通野生には存在しない。その線は薄いだろう。
 厚みのないゲンガーの笑い顔が、クダリの笑顔に重なったのは気のせいだろうか。

「気絶させるか眠らせて、どこか安全な場所に置いて来るのが良いのでは?ここにいてもこのゲンガーに良いことは何も…」
「ノボリさん、スーパーシングルの点検が終わりました」

 ふいに掛けられたその声に振り返ったノボリは、がぁんと頭を殴られたような衝撃によろめいた。そこにはヘマタイトがいたのである。ヘマタイトの黒いひとみを目にした瞬間、ノボリはパニックに陥った。
 足元が崩れ落ちるような感覚。かちかちと、腕時計の秒針が進むごとに恐慌状態にひきずりこまれるような、そんな感覚。
 どうかしましたか、とヘマタイトが問う。ノボリは恐慌を何とか押さえ込み、震える声で大丈夫ですと答えた。
 パニックを悟られてはいけない。ノボリが勝手にヘマタイトに対して苦手意識を持っているだけなのだ。彼女に罪はないのに、気付かれたらきっと罪悪感を与えてしまう。悟られてはならない。

「報告書、を、見せにいらしたのですか」
「……はい」

 ヘマタイトはゆったりと瞬いた。ノボリの動悸が激しくなる。努めてゆっくりと呼吸しながら、ノボリはヘマタイトから報告書を受け取った。手袋をしたノボリの指先が、自身の唇に忙しなく触れる。
 いつもなら他の整備士が報告書を渡しに来る筈だが、今日はたまたまなのかヘマタイトが来ることになったようだった。報告書の見慣れない丸文字に、紙を持つ手が震える。

「ゲンガーですか」

 ほわんと、空気に溶けるような声だった。ヘマタイトは再びゆったり瞬いて、駅員たちが囲んだゲンガーを見た。

「せや、珍しいやろ?イッシュでゴースト言うたら、デスカーンやらブルンゲルやらやし」
「初めて見ますね。郷里でもフワライドだとかヨノワールの方が主流でした」

 クラウドに手招かれて、ヘマタイトが駅員たちの輪に入っていく。ノボリはそこから離れるように、いそいそと自分のデスクに着いた。胃に内容物があまりないせいか、吐き気はまだ軽い。胃液を吐き戻してしまわないうちに、ヘマタイトに書類を渡してしまわなくてはならなかった。書類にこれといった不備がないのを確認して、ノボリは力の入らない指でペンを握った。

「なんだかクダリさんに似ていますね」
「似てへんやろ。ヘマタイト、自分目ぇ悪うなっとるんと違うか?眼鏡買うたろか」
「似てますし、視力は両目とも1.0ですから結構です」

 ヘマタイトとクラウドの会話を聞きながら、ノボリはペン先で自らの名前を書く。くらりと、世界が歪んだような気がした。


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