用がないなら
私は、彼のことをずっと見ていた。
いかにも見ていますよという視線を送っていたわけではない。あなたのことなんて見てませんよという態度で、あなたが目当てであることを悟らせないように、私はいつもスタスタと、早足で駅構内を歩いていた。
最初は足が長いなと思い、目を奪われた。最初に彼を見た時は、あまりの衝撃で二度見した。あの常人離れしたスタイルを目の当たりにして、見とれない人間などいないだろう。次は、腰が細いと思った。その次は、骨格がしゅっとしていると思い、あと、いつも笑っていると思った。私は彼のことについて、目に見えるものばかりしか知らない。
「…」
今日も、私は見て見ぬふり。彼のことを気にしていない素振りをして、駅構内を歩いていた。本当はしっかり見ているけど。
ああ、今日も会えて良かった。運は絶好調。朝はそれだけで心躍り、一日頑張ろうと思える。夜に会えた時、どれだけ疲れが吹っ飛ぶことか。
そして、今日は帰りの電車。しかも、終電の一本前の時間帯に目撃することが出来た。今日も安眠できそうだなと思い、特に彼を見つめることもなく、私はその場を立ち去ろうとした。
その時だった。
「やあ」
誰かが突然、私の顔を覗き込んできた。
「…え」
それは、私がずっと見ていた人だった。突然の出来事に、私の思考は停止した。
「こんばんは」
「えっ?…あ、はい」
それは電車が来る前のことだった。彼が突然、私に挨拶をしてきたのだ。いつもそんなことはないし、当然、今日もこんなことは起こらないだろうと思っていた。
そうだ、彼は鉄道員だ。もしかすると、何か私がいけないことをしてしまって、それを注意しに来たのかもしれない。
「あの。私、何かマナー違反でも?」
「いけないことしたの?」
「い、いえ。していないつもりでしたが…」
「うん。きみは別に何もしてないよ」
「あ…そうですか」
良かった。私は何もしていなかった。それなら、どうして声をかけられたのだろう。
「あの、ご用件は…」
「ぼくに何か用かなと思って」
「えっ」
「違うの?」
「い、いえ。特に用があるというわけでは…」
「そう」
「用があったら声をかけますし、何も困っていませんよ。大丈夫です」
「そう。じゃあ、用が出来たら声かけてね」
「あ、はい…」
そう言って、彼は歩いていってしまった。何だったんだろう。いつも見ていたのを気付かれてしまったのだろうか。
いや、そんなことはない。そんなに熱烈な視線を送っていたわけではないし、万が一にも気付かれてはいないはずだ。私はまったく興味がないという顔をしていた。
それから、またいつもの日常に戻った。もう声をかけられることもないだろうと思った。残念だけど、遠くから見ているのが一番いいことだ。それがお互いの為。
しかし、数日後。
「やあ」
彼はまた、私の顔を覗き込んできた。
私の顔をじっと見つめて、興味津々そうな顔をしていた。
「…こんばんは」
「まだ、ぼくに用はないの?」
「…用は、ないです」
「そっか。じゃあね」
そう言って、彼はスタスタと歩いていってしまった。何だったんだろう。
私は彼のことは見ていたけど、特に用があるというわけでもなく、それは声をかけるには不十分なものだった。
それから、数日後のことだった。
「おはよう」
また、彼に声をかけられた。
「お、おはようございます。えっと、何でしょう…か」
「用がないなら、声かけちゃだめ?」
「いえ、そんなことは…」
「良かった。じゃあね」
それだけ言って、彼は仕事に戻っていった。今はいつもと違って人が多く、慌ただしい朝の時間帯だというのに。
彼と話せた日は、私はとにかく舞い上がる。それはいつも風呂や布団の中でだ。今日は朝だったので、この後の仕事が頑張れそうだと思った。しかし、それは叶わなかった。
困ったことに、朝の出来事を思い出しては舞い上がり、全く仕事に手がつかなかった。私はいつも終電近くに帰るけど、今日はいつもよりもっと遅くなってしまった。
「あ…」
いつもより仕事に手が付かず、上手く終わせられなかった。だから、ライモンシティの地下鉄に駆け込んだものの、残酷にも終電の扉は目の前で閉まってしまった。
がっくり項垂れていると、カツカツと音がした。誰かが近付いてくる。
「ごめんね」
そう言って謝ってきたのは、いつも見ている彼だった。
「いえ、そんな…謝らないでください。私が悪いんですから」
「きみの駆け込んでくる姿が見えたけど、ぼくはそのまま出発の合図を出したんだ。本当は一瞬でも止めることは出来たんだよ」
「え…。あ…いや、でも…時間を守るのは大事ですし」
そんなに正直に言うとは思わなかった。でも、私が時間に間に合わなかったのは事実だし、仕方ないと思う。
「タクシー代、出してあげる」
「えっ…いや、それはっ!」
「そしたら、次会う時、きみはぼくにお礼を言いに来てくれるでしょ?」
「え…」
何でだろう。ただの大盤振る舞いな人だと思った。でも、そうじゃない。
「そんなことしてもらわなくても、私から声をかけますから!」
「それ、ほんと?」
「ほんとです!」
「ほんとに、ほんと?」
「だって、用がなくても、声をかけていいんでしょう?」
「もちろん。大歓迎だよ」
彼は微笑んだ。いつもの無機質な笑いとは違って、柔らかく笑ったように見えた。
私は結局、彼からタクシー代を押し付けられ、受け取ってしまい、毎日返す返さないの押し問答となってしまった。改めてタクシー代を入れた封筒を押し付けても、彼は受け取ってくれない上に、また明日受け取るよ、などと言うものだから、毎日それの繰り返しになった。
だけど、それを理由に彼と話すことが出来て、私は毎日がもっと楽しく過ごせるようになった。代金を受け取ってもらえた後も、きっと、私は彼に話しかけるだろう。だって、もう出会ってしまったのだから。
用がなければ作ればいい。特に用がなくても、ただ話がしたいなら話しかければいいんだ。そう、彼は言っていた。