きっかけは単純だった。彼が手を滑らせて落としたシャーペンを、たまたま近くにいた私が拾ったこと。正確に言うと、拾ったシャーペンを持ち主の笠松くんに渡すときに少し、本当にほんの少しだけ指先が触れてしまったこと。
彼が女性を極端に苦手としていることは知っていた。しかし、不意討ちだったのだ。

「わ、わりっ……」

古い表現を引用させていただくと、真っ赤になった彼に、私のハートは見事に撃ち抜かれたわけだった。


「かーさまーつくんっ!」

「う、わっ!」

「えへへ、おはよー」

お、おまえなあ! なんて真っ赤になりながら叫ぶ彼は可愛い。非常に可愛い。彼は周りにどうやら怖いだの近付き難いだのそんなイメージを持たれているようだが、蓋を開けてみればこの愛くるしさである。思わず顔が弛む。
誤解を生みそうなので先に言っておくと、何も私は抱き付いたりタックルしに行ったわけではない。後ろからぽんと肩を叩いて挨拶しただけだ。それだけでこの反応、多分抱き付いたりなんてしたら失神するんじゃないだろうか。そんなところも可愛らしい。

「いきなり話し掛けたり、その、さ、触ったりとか止めろって言ってんだろ……!」

「だって笠松くんが見えたら1秒でも早く喋りたいんだもん」

「ばっ、そういうこと言うなよ普通に!」

笠松くんたら照れ屋さんだなあもう! えへへ、と締まりの無い顔で笑うと、笠松くんはぎゅっと眉を寄せて「っとに……」とぼやいた。勿論顔は赤いままだ。
ぶっちゃけ、それなりに会話出来るようになったのはかなり進歩だと思う。最初の頃なんてろくに喋れなかった。毎日毎日話し掛ければそりゃ慣れるだろう、と思うけど、逆に言うと毎日毎日話し掛けてやっとこの段階だ。いや、そこが可愛いんだけども。
教室に入ると、笠松くんから離れて仲の良い友人の元へ行く。教室でもずっと一緒にいるのは、さすがに迷惑だろう。「おはよー」「おはよう名前」友人はにやにやしながら私を迎え入れた。えっなに。

「なにあんた、笠松と付き合ってんの?」

「ええ、違う違う」苦笑いしながらぱたぱたと手を振る。「そんなんじゃないよ」
確かに私は笠松くんが好きだ。大好きだ。しかしそれが恋愛感情なのかはいまいちわからないし、なんか違う気がする。私は彼と付き合いたいわけではない。それに、笠松くんと私なんて、言ってみれば私が一方的に付き纏ってるだけの関係だ。友達と堂々と謀ることすら憚られる。

「のわりには随分仲が良いみたいだけど?」

「仲が良いっていうか、私が勝手に懐いてるだけだもん」

「ふうん、まあいいけど」

あんたたち、噂になってるわよ。呆れたような顔でさらりと言われて、固まった。

噂? うわさ?

その言葉の意味がすぐには理解出来なかった。うわさ。噂になってる。って、つまり私と笠松くんが付き合ってるんじゃないかとか、そういうこと、が、私の知らないところで囁かれているのか。

不満とか不服とかより先に、やってしまった、という後悔が胸中を支配した。これ、さすがに迷惑だよね。だって私が一方的に声掛けたりしてるだけなのに、こんな噂、笠松くんからしたらたまったものじゃないはずだ。私だったら嫌だ、そんなの。

「と、とにかく、そういうんじゃないよ」

「なんだ、つまんない」

つまんない、とか、そういう問題じゃない。ぐるぐるとお腹に何かが渦巻いている。困ったことになった。


先行ってるねー、と言った友人に軽く手を振って、クリアファイルの中を確認する。次は移動教室なのだが、前回配布されたプリントが何処にあるんだかわからなくなってしまった。いつもは前の授業が終わり次第プリントを探して用意しておく癖を付けているから、直前になって慌てて探すということは少ない。しかし、今日に限って、笠松くんのことでもやもやしていたためか、休憩時間中に探しておくのを忘れたのだ。
突然、がらがらーとドアが開けられる音がして、反射的に顔を上げた。「あ」2人の声がユニゾンする。

「笠松く……ん」

テンションが上がって、すぐに降下した。駄目だ。噂になっているというのに、これ以上べたべたしていたら「はいそうです」って言ってるようなものじゃないか。いきなり意気消沈した私に、不思議そうな顔をする笠松くんを見て見ぬふりをしながらクリアファイルに視線を戻した。プリント、どこだ。

「、名字」

「え、うん? な、なに?」

話し掛けないぞーと意気込んでいたところに名前を呼ばれたことと、笠松くんから声を掛けてくれたってこと両方に驚いて、思わず吃った。笠松くんはまた眉をぎゅって寄せながら、「これ」と1枚のプリントを見せてくれた。

「あっ」

「おまえ、森山に貸してただろ」

「そ、う、だっけ……」

貸したような気がする。忘れてた。そりゃ探しても無いわけだ。ありがとう、と言ってプリントを受け取る。手が触れないようにと、無意識に意識してしまう。これじゃ私が笠松くんを避けてるみたいだ。いや、避けてるようなものなのか。

「助かったよー、じゃ、あの、先行くね」

「名字」

「……っ、なに」

顔を合わせずに通り過ぎようとして、名前を呼ばれる。嬉しいはずなのに、それを押さえ込もうとして思わず怒るような声になってしまった。まずい、と思って、笠松くんの表情を窺う。多分初めてちゃんと向き合ったのに、笠松くんは、少し悲しそうな顔で、こちらを見ていた。

「なんかあったのかよ」

「なにも……何も無いよ」

「嘘だろ」

「本当だもん!」

「噂か?」

意図せずに肩が跳ねてしまう。ああ、この人そういえば、バスケ部のキャプテンなんだっけ。聡いわけだ。
同時に、知ってたんだ、と思う。気付かないまま75日経ってくれれば良かったのに。そう思ってしまう私はずるいんだろう。そうしたら、笠松くんは、私のこと嫌いにならないかなって。少なくとも今までどおりでいられたかなって。
とんだエゴだ。最低だ、と思った。嫌われても仕方ない。
「別に気にしてねえから、おまえが気に病むことじゃないだろ」

「そんな、……そんなこと言ったって、迷惑でしょ」

「だから、気にしてねえって」

「でも!」

「だー、もう、わかれよ!」

ぐ、と腕を引かれて、体制を崩す。私の手からばさばさと教科書やプリントが落ちた。え、と思ったときには、肩を押されて、背中と壁がぶつかる激しい音がして、両腕を掴まれて、そのまま壁に縫い付けられて、あっさりと閉じ込められた。思わずその犯人を見上げる。赤い顔で、眉を寄せて、こちらを見下ろしている顔は、可愛いなんて言えないような。正真正銘、男の人の顔、で。
どくどく心臓が脈打って、身体中が熱くなる。その熱に思考回路が働くことを止めて、何も考えられない。

「頼むから」

「え、あ」

「そろそろ気付け」

擦れた声に混ざる吐息が、押さえられた手をくすぐる。笠松くんの唇がそっと、手首、に、触れて。熱の籠もった目が、揺れる。揺れて、私の視線を、絡め取る。喉が渇く。切なそうに歪んだ表情に、身震いしそうだ。こんなに綺麗な人を、私は知らない。

「い、っ……」

「っ、わりい」

きつく握られた手に思わず声を上げると、ぱっと手が離される。気まずそうに視線が揺れて、笠松くんは「忘れんなよ」とだけ言って、教室を出て行ってしまった。
ずるずると座り込む。手首をこっそりと口元に当てる。熱くて涙が出そうだった。

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