「何うなだれてるの」
こつん、と音がしたからのろのろと顔を上げた。御手洗だ。目の前に落とされた黄色いリング状の飴を見て、顔をしかめた。こいつは空気が読めないのか、読まないのか、わからない。多分後者なのだろうと思うと、腹が立った。そんな学年1位の男を睨むと、相手は呆れたようにわざとらしくため息を吐いた。
「名字?」
「……だったらなんだよ」
「やらかしたんだ」
何したの、と訊かれる。少し逡巡してから、誤解された、とだけ言った。御手洗はさっきより盛大にため息を吐いてから、少し間を置いて、絶妙なタイミングで「馬鹿だろ」とだけコメントした。バカだよ。いちいちわかってること言うなよ。
「おかしいと思ったんだよ、任那が『ちょっとしゃがんでくれませんか』とか言い出して、髪触って、いきなり」
「わかったわかった、……見られたの?」
「……、多分」
がたがた音を立てながら、御手洗が俺の前の席の椅子を引いて座った。
「まあ、仕方ないだろ」
「俺がこんだけ悩んでんのに仕方ないの一言かよ……」
「それ以上に何もないからな。宮地次第だけど」
俺次第? 言葉の意味がわからない。透明な包装を破って黄色い飴を口に入れながら、御手洗はそれ以上に何も言わなかった。観察するようにじっとこちらを見ている。居心地が悪くて眉根を寄せながら、「なんだよ、轢くぞ」と凄む。
「宮地は、何に悩んでんの?」
こいつは人の話を聞いていたんだろうかと考えてから、すぐに思い直した。
名字に見られたのが原因だろうか。しかし、名字に見られたからなんだ。俺の不本意とはいえ褒められない女癖は、全く知られていないというわけではない。むしろ、知られているからこそ任那みたいに言い寄ってくるやつがいるわけだ。名字が元々知らなかったと断言することすらできない。いつか気付かれるかも知れなかったことで、そのいつかが、昨日だった。それだけだ。
じゃあ、なんでこんなに悩んでいるのか。名字に会って、あれは違うと言いたかった。だとしても、何が違うと言うのか。
キスなんてされてもなんとも思わなかった。それだけで女子は喜ぶから、便利だと思っていた。初めて嫌だと、気持ち悪いとすら、思った。
思ったのだ。
確かに違った。
だけど、そんなもの。端から見れば同じだろう。名字はどう思っただろうか。嫌だと思ったのか、気持ち悪いと思ったのか。それは無いだろう。名字からすればあれはただのキスで、俺はただのセンパイで。名字からすれば? 俺からしてもそうだったはずだ。ただのキス、ただのコウハイ。そうじゃなくなったのはいつから?
「あーくっそ、意味わかんねえ……」
まただ。彼女のことに関して、意味がわからないという感想が漏れることは以前からあった。以前からあったし、依然として変わらない。
名字は俺の何なんだろう。わかっていたはず、わかっているはずなのに、見失った。
「それが、好きってことなんじゃないの?」
「…………あ、……はあ?」
俺に言われた言葉だと気付くのに3秒、その言葉の意味を理解するのに更に3秒かかった。
すき? なんだそれ。何度も何度も知らない女子から聞かされた言葉だが、その2文字は俺の鼓膜を他人事のように揺らす。まるで知らない2文字のようだ。
「名字に見られて嫌だった?」
「……まあ」
「名字に見られてなくても嫌だった?」
「、なんで」
「名字のこと、好き?」
「……」
好き? 知らない感情が土足で踏み込んでくる圧迫感。名字の顔を思い出そうとしたが、何故か上手く思い出せない。ポケットに入ったままの飴の包装がかさりと音を立てた。どくんと心臓が大きく脈打つ。血液を排出する。巡って、空回る。顔が熱い。合成着色料の黄緑色が、脳内に溢れる。あの時。あの時既に、ただの“後輩”では済まなくなっていた。
(一目惚れ、だったんだ)
変わったのはあの時。わからなかったのもあの頃から。あの日から彼女は、特別だったんだ。