最初、その可能性に思い当たった時は、さすがに否定したかった。まさかそんなこと有り得るのか。俺はそんなに心の狭い男だったか。驚いたと同時に、その感情を自覚した瞬間に、ぬるま湯に溶け切らないスティックのコーヒーみたいな、どろっとした黒くて苦くて酸っぱいものが喉まで迫り上げてくるものだから。どうやら認めざるを得ない。顔をしかめた。
「明日ねー、リコと映画見に行くんだよねえ」
俺はどうやら、女にまで嫉妬しているらしい。
俺のベッドでごろごろしながら、語尾に音符が付きそうなくらいの上機嫌ボイスでそう伝えてくれた愛しの彼女に、俺の機嫌は反比例していく。相手は何の因果かライバル校の監督だ。先日それが判明して以来、会話に相田リコの名前が上がることが格段に増えた。
にこにこ笑いながら女友達との予定を嬉しそうに語る彼女はそりゃあもう目に入れても痛くないくらいに可愛いのだが。なんというか、本当に嬉しそうにそいつの名前を呼ぶものだから、悔しいというか、つまらないというか、ムカつくというか……。自分がそんなことを考えていることも、情けないというか。相手が男子だったら未だしも、ただの女友達だ。嫉妬なんて、意味が無いことぐらいわかっている。
わかったところで意味が無いのだ。
「ずっと見たかったんだよー、前作もリコと2人で見に行ったの」
2人で、ねえ。ふーん。へえー。ていうか、おまえも気付けよ。
「……名前ー」
「うん? えっ!?」
ナチュラルに返事をしてすぐ、名前で呼ばれたことに気付いた名字が顔を真っ赤にした。何その反応。可愛いからやめろ。
「明日映画見に行くぞ」
突然名前で呼んだのは、そいつが名字のことを名前で呼んでいるのかと思ったら酷くつまらなかったからだ。この行動の原因になった独占欲こそつまらないものだけど。
「あ、あした?」
「明日」
「明日は、だってリコと……」
困惑している名字を見て、また黒い何かが喉を焼いた。
あー、くだんね。
「……わり、なんでもねえ」
「み、みやじ? どうしたの」
「どうもしねえよ」
「ほんと? なんか、怒ってない?」
「怒ってねーから、気にすんな」
はあ、とため息を吐き出すと、名字が困ったような、怯えるような表情になる。違う、違うだろ。そんな表情をさせたかったわけじゃないのに。俺の変な独占欲で傷付けてどうする。顔を見られないように彼女から視線を離して、意味も無くケータイを開いた。
「……宮地ー」
「あ?」
思わず返事が素っ気なくなったことを少し後悔して、「なんだ?」と付け加えた。しかし、名字からの反応は無い。なんなんだ、と思いながら少し名字の方に振り返るも、名字は立てた膝に顔を埋めて、微動だにしない。
「宮地ー」
「だから、なんだよ」
「……みやじー」
「おま、う、わっ!?」
「ううう、みやじー……!」
横から半ば飛び付くように抱き付かれて、慌てて手をついて彼女を支えた。ぐずぐずと俺の名前を呼びながら胸に顔を埋められて、困惑する。なにこいつ、誘ってる? どうすればいいかわからずにとりあえず柔らかい髪をそっと撫でた。名字は涙声でひたすらみやじ、みやじ、と俺の名前を連呼している。
「な、なんだよ意味わかんねえよ」
「だって宮地が冷たい……!」
「はあ……?」
「つまんないって顔してる……」
「べ、つにんな顔してねーよ、なんなんだよ」
「みやじ、きらいになっちゃやだ……」
ぐりぐりと額を押し付けながらやだあ、と駄々をこねる子供みたいにぐずる彼女に、どうしようもない愛しさが込み上げてくる。あー、なんなんだこの可愛い生物。嫌いになれるわけねえだろふざけんな。とりあえず彼女を腕の中に閉じ込めて、背中を撫でてあやす。このままじゃ彼女じゃなくて娘だな。
「みやじー、すきだよー、わかれたくないよー」
「……あははー、別れるわけねえだろ轢くぞー?」
「ほんとー?」
「ほんとほんと」
髪に、喉に、鼻に、何度もキスをしながら彼女の目もとに溜まった不安を拭う。こちらを見て、良かったあなんて言いながらへにゃりと笑う顔が、間抜けで愛しくて、視線を合わせてから、目を塞いで、唇を塞いだ。甘い味がする。黒いどろどろの代わりに、甘ったるい何かが身体中を焦がした。