伊月
「庭には二羽鶏がいる」
「ふうん」
「しかし必ず歯科には鹿しかいない」
「ふうん」
「……今何回『しか』って言ったでしょう」
「んー?」
「名字さあ、俺の話全然聞いてないだろ」
はあ、とため息を吐きながらぼーっとこちらを眺めている名字の額をぺしんとはたく。名字は「いたい」と呟いて腕に顔を埋めてしまった。
「ハッ、『いてっ』と呟いてしまう……キタコレ」
「伊月くーん」
「……何?」
「んー……なんでもない」
「眠いのか?」
名字がもぞもぞと頷く。昨日は俺たちにしては珍しく遅くまで電話していたから、多分それが原因だろう。名字いわく、「授業中爆睡しちゃって眠くないから」だそうで。
電話はそんなに頻繁にしないし、名字が眠くなるのが早すぎる(名字は毎回9時半を過ぎると眠いを連呼しだす)ため、あまり長時間はできないのが基本。だから10時から日付が変わるまで通話を続けるのなんて、むしろ初めてのことだった。
確かに、珍しく長い時間喋れたのは嬉しかった。が、唯一直接会話できる学校で喋れないなら本末転倒である。
あの後も起きてたのかな、だったら休み時間くらい寝かせておいた方がいいんだろうか。
そんなことを考えて悶々しながら、名字の柔らかい髪に指を通して弄ぶ。するりと手からすり抜けて落ちてしまう感覚が楽しい。女子ってなんでこんな髪細くて長いのにさらっさらしてるんだろう。
「、くすぐったい」
「あ、ごめん」
慌てて手を離すと、今度は名字があ、と声を漏らした。むくりと顔を上げて、少し名残惜しそうな顔でこちらを見上げるから、思わずたじろぐ。ど、どうしたの。
「……触ってて」
「えっ」
「伊月くんの手、好き」
言ってから、少し顔を赤くしてまた顔を腕にぽすんと戻してしまう。……何この可愛い生物。
顔が緩むのを我慢しきれなくてにやにやしながら可愛い彼女の頭をゆるゆる撫でる。今の俺気持ち悪いな。誤魔化すみたいに「手だけ?」と聞いてみると、名字のくぐもった声が腕と机の隙間から聞こえてきた。
「声、も」
「声?」
「安心して、眠くなる。からねー……いっつも伊月くんと電話してると、寝ちゃうんだよね」
「……そうだったの?」
「ん。勿体ない気もする、けど……伊月くんの声聞きながら寝るの、気持ち良くて、すごい幸せなんですよ」
毎回大層幸せそうに寝落ちしてくれると思ったら、そんな理由が。(……ていうか、言いながら照れてるのばればれだし)俺の彼女かわいいなー。真っ赤になった耳を撫でてみると、名字は「ひょうっ!」とよくわからない声を上げながら勢い良く顔も上げる。うわあ、顔赤い。
「いいい伊月くんどうしました」
「俊」
「はい!?」
「俊って呼んでよ」
「え、えええ」
「いや?」
いや、じゃないけど……ごにょごにょと誤魔化しながら名字が俯いてしまう。「名字ー」出来る限り優しく声をかけてみると、名字は決まり悪そうにこちらを向いて、すぐに斜め下に目を逸らしながら、
「しゅ、俊……」
「なーに?」
「うわああん!」
「えー、なんだよそれ」
耐えきれないとでも言いたげに、がたんっと椅子を引いて手で顔を覆ってうずくまる。けらけら笑いながらその様子を見ていると、名字がぼそりと「もう伊月くん嫌いだ」とか言い出した。いや、それは困る。
「俺も名字の声好きなんだよ」
「う、うー、恥ずかしい……!」
「なあ、もう一回」
「無理!! 死んじゃう!!」
机に乗り出して、うずくまった彼女の上からおーいと声をかけてみる。名字はうずくまったまま、ぼそぼそとあーだのうーだの言ってる。
「……声だけですか」
「なわけないだろ。全部好き」
「う、あ……なんでそう、さらっと、言っちゃうの」
「本当のことだろ」
名字が恐る恐るといった風に顔を上げて、ぱちんと目が合う。透き通った黒い瞳に俺が写ってて、俺の目にも今彼女の顔が写ってんのかなあと考えて、少し嬉しくなった。今この場所に俺と名字しかいないみたいな感覚に襲われて、鷲の眼だなんて呼ばれた俺がこんなんでいいのかと内心こっそり苦笑した。
名字は困ったような顔で、視線を少し揺らしたり、意味のない声を漏らしたりして。しばらくして、ようやく意を決したようにか細い声で俺の名前を呼ぶ。
「しゅ、ん」
「ん?」
「……私、も、全部好き、です」
「……」
「ぎゃああ恥ずかし、んむっ!」
また顔を伏せようとする名字の顎を掴んで、勢いのままにキスする。目の前で放心してる彼女の唇を撫でた。ああ、もう、かわいすぎんだろ馬鹿! 抱き締めたいけど机が邪魔なので首元に顔を埋めて我慢。あ、いい匂いがする。
「好き、名前、ほんと好き」
ほとんど無意識に言い終わると同時に、突然歓声が沸き起こった。驚いて顔を上げると、これ以上無いくらいの笑顔の日向がいて、
「おっまえら……見せ付けてくれんなよダァホ!」
「お、おう……」
そういえばここ教室だったわ、と思い出すのと同時に、名字が羞恥のあまり椅子から雪崩落ちるようにして教室の床にしゃがみこんだ。……今日の練習は3倍メニュー確定のようだ。
(sucralose)