※数年後設定。


パシン、という乾いた音がした。その数秒後に、叩かれた左頬がじわりと熱を伴って痛みを訴え始める。綺麗に舗装された歩道にヒール特有の高い音が響いて遠ざかって行くのを聞きながら、昨夜見た夢の内容を唐突に思い出した。チョコレートの川で溺れる夢だった。



Revelation of Chocolate




小さな音を立てて、ローテーブルの上にグラスが置かれた。冷えたミネラルウォーターがいっぱいに入ったそれを見て、さらに視線を上げると見慣れた後輩の顔が視界に入る。
いかにも寝るばかりですと言わんばかりの寝間着姿で、黄瀬は大げさに眉を顰めてみせた。

「これで、何回目っスか」

その後にはおまけとばかりに大きな溜息も付いてくる。
冷たい水を喉に流し込みながら、森山は黄瀬の問いに答えようと素直にカウントを始めていた。バレンタインデーの前日、森山の誕生日である13日に交際していた女性に別れを告げられた回数を。
黙っていればそこそこにモテるのだから、と周りに散々言われた結果、大学生になるのとほぼ時を同じくして彼女が出来た。その彼女とは二年近く付き合って、そしてちょうど迎えた二回目の森山の誕生日に振られたのだったっけ。
一番交際期間が長かったのがそのときの女の子で、後はどのタイミングに付き合っても必ず誕生日に別れるという悲惨な結末を迎えている。

「なんだか、しっくりこなかったんだ」

上品なストライプの入ったネクタイを緩めながらそう言うと、黄瀬は困ったような顔をした。聞き分けのない子供を見る母親のような、捨てられた子猫を見つけた少年のような、複雑な表情だ。

「しっくりこなかった、って……。去年も、三年前も、そう言ってたじゃないスか」

二年前は確か彼女はいなかったな。そう考えてぼんやりしている森山に視線を遣って、黄瀬は再び溜息を吐いた。
テーブルを挟んで森山の正面に座ると、どうしたもんスかねぇ、と頬杖をついてテーブルを見つめた。オレンジを溶かした蜂蜜色の瞳に睫毛の影が落ちて、色を濃くしている。
煩わしそうに、黄瀬が顔にかかっていた髪を耳にかけた。学生時代よりも伸びた髪に、学生の時はあまり見ることの無かった仕草に、森山は夢の内容を少し思い出した。
チョコレートの溶けてどろりとした液体が口に入って来て、息が苦しくなって溺れてしまうと思っていたところに手が差し出されたのだ。白い、綺麗な手だったけれど、女ではなくて男のものだった。その手をとって、チョコレートの中から抜け出した森山に向かって、彼は何と言ったのだったか。顔も見たはずなのだけれど、ぼんやりとしてまだ思い出せない。

「森山先輩?」

そう、今の黄瀬と同じような、語尾に甘さを含んだ声で森山を救いあげてくれた人は問いかけた。
いつまでそうしているつもりなの? 答えはもう分かっているはず。ちゃんとした言葉にはされなかったけれど、そういうニュアンスを持った問いかけに森山は神妙に頷いたのではなかったか。
グラス一杯のミネラルウォーターですっきり潤った喉とは反対に、甘いものを食べたいと脳が要求し始める。時刻は2月13日の23時50分になったところだ。

「チョコレートが食べたい」

突然にそう言った森山に、黄瀬は困ったなぁというわざとらしい表情を浮かべて立ち上がるとキッチンへと向かう。戸棚を開けている後輩の後ろ姿を見ながら、森山は完全に思い出した。夢の中、森山をチョコレートの川から救い出してくれた男が黄瀬に瓜二つだったことを。その人は黄瀬自身であると言ってもいいほどに似ていたが、彼の助言を考えてみるに森山が都合よく造り出したものに違いなかった。
彼女と過ごしている時よりも、黄瀬といる方が落ち着くと感じるようになったのはいつからだったろうか。振られるたびに黄瀬に泣き付いて、二つも年下の後輩に世話を焼いてもらうのが癖になっているのではないのか。末っ子の彼の加減の分かっていない甘やかし方が心地の良いもので、ずるずるとそれに縋っている理由は何なのか。

「こないだお土産でもらったやつなんスけど。本場のだから、美味しいっスよ」

びっくりするくらい美味しいから独り占めしようと思ってたんスけど。誕生日に振られた先輩には、一つおまけしてあげる。他の人には内緒っスからね。
一口サイズの愛らしい形をしたチョコレートが二つ乗った皿が、軽い冗談と共に森山に差し出される。黄瀬はティーパックで紅茶も淹れてくれた。
壁にかかった時計の長針が、11と12の間に移動する。紅茶に息を吹きかけてから一口飲むと、長針は12にゆっくりと近付いていた。
森山は徐にチョコレートを一つ摘んで、口に放り込んだ。舌の上で一度転がしてから、歯を立てる。時計がちょうど、午前0時を告げた。

「バレンタインだな」

そう言った森山に、眠そうにあくびを噛み殺していた黄瀬はゆっくりと首を傾げた。何かを思い付いたように、楽しげに口を開く。

「これ、俺が森山先輩にチョコ渡したことになるッスね」

そうやって悪戯っぽく笑うから、余計に性質が悪いと森山は思うのだ。黄瀬が悪意なくこんなことをやるのも、森山が女と長続きしない理由なのだと八つ当たりしたくなる。
ホワイトデー、楽しみにしときますから。
あぁ、本当に性質が悪い。森山がさっき気付いた気持ちの奥底も知らない無邪気な顔で、笑ってくれるものだから。
だから森山は決意したのだ。あと一カ月。一カ月で可愛い後輩の気持ちをこちらに向けてみせようと。
口内に残ったカカオの風味を楽しみながら、皿に載っているもう一つのチョコレートへと手を伸ばす。来年はその手が甘いお菓子ではなく恋人の手に触れていることを想像しながら、森山は小さな愛を飲み込んだのだった。




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森山先輩の誕生日を祝おうと思って書き始めたのに誕生日どっかに飛んでった。



2014.02.13.
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