※歯科医森山×患者黄瀬。

待合室の扉を開けた途端に、特有の匂いと耳に障る甲高い音がする。周囲にも聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに鼓動は大きく早くなって、手のひらには異常なくらいの汗が滲んだ。
歯医者が苦手だった。トラウマになるような出来事があったわけではないけれど、小さい頃からずっと歯医者だけがどうしようもないくらい嫌いなのだ。



黄瀬さん、と名を呼ばれる。歯科助手の女性が診療室へのドアを開いて、黄瀬を待っている。ごくり、と唾を飲み込んで立ち上がった黄瀬の足は僅かに震えているし、今にも目の前が真っ暗になって倒れてしまいそうだった。むしろ倒れてしまいたい。
そんな黄瀬の願いも虚しく、固くて大きな椅子へと誘導される。鈍色に光る器具が近くにあるのが恐ろしい。服を汚さないように紙エプロンを付けられてしまえばもう、まな板の上の鯉のような、死刑執行前の囚人のような、そんな気分だった。
先生、と歯科助手が黄瀬の傍から離れる。すぐに現れたのは、マスクをした歯科医だ。胸元の名札には『森山』と印字されている。口元は隠れているが、若くて、涼しげな目元が印象的だ。端正な顔立ちなのだろうと想像する事は容易い。

「ちょっと口の中を見せてくださいね」

薄い手袋を両手に着けながら言う森山の声など、黄瀬の耳には聞こえていなかった。
すごくこわい。でも年が近そうな歯科医の前でそんなこと言えない。だけれどとてもこわい。
体の横で強く握りしめた手のひらには、切り揃えられた爪が思いっきり食い込んでいる。

「黄瀬さん?」

何度か呼ばれたのかもしれない。一際強く名を呼ばれた声にハッとすると、心配そうに黄瀬の顔を覗きこむ薄墨色の双眸と目が合った。
すみません、と慌てる黄瀬を見て、森山は着けたばかりの手袋を外し、清潔なタオルを手に取る。失礼、と声をかけられると黄瀬の額に浮かんでいる汗は優しく拭われた。

「恐いですか?」

穏やかな声でそう問いかけられると、不思議と心臓が落ち着きを取り戻したような気がする。ゆるりと細められた森山の目を見て、少しの逡巡の後、黄瀬はおずおずと頷いた。
森山は目元に笑みを浮かべたまま、再び手袋を着けた指で黄瀬の唇へと触れた。心臓は自然な状態に戻って、強く握り締めていた拳も弛緩している。まるで魔法でも使われているみたいに、指で唇を撫でられると自然と口が開いた。

「すぐに終わりますから、少しだけ我慢してくださいね」

落ち着いた優しい声が黄瀬の耳に入り込んで、そのまま流れるように胸の辺りにまで辿り着く。トクン、と心臓が動いた。さっきまでとは違う種類の鼓動を感じたことを不思議に思いながら、黄瀬はライトの眩しさにゆっくりと瞳を閉じる。
周りの甲高い音も、歯医者独特の匂いも、もう気にならなかった。


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苦手な歯医者に行った記念でした。

6/29〜10/22(2013)
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