※牛→及。高校三年生になる少し前の時期。

Bitter,bitter


それは偶然だった。
設備の点検という名目で部活が中止になり、牛島はいつもより時間を早めてロードワークを行っていた。太陽は沈み、西の端に少しだけ橙を混ぜ込んだような紫が残っているのを残して、じわじわと空は黒く染まっていく。ちかちかと星が小さく瞬いていた。
ルートの一部になっている公園に差しかかったところで、ベンチに人影があることに気付いた。3月とはいえまだ寒い。夜に飲み込まれようとしている時間帯、当然のごとく辺りに人は見当たらない。牛島は眉を顰める。今にも切れかけようとしているか弱い外灯の下、どこかで見たようなブレザーが目に入ったからだ。
足を止めていたのを一歩二歩と進めて、ベンチの正面まで近付く。俯いた顔は癖のついた茶髪に隠されて見えないが、体格、制服からいって思い当たる人物は一人しかいない。そういえば、この近くに有名な整形外科があった。牛島の脳はさして働くこともなく、ただ一つの答えを見つけ出す。

「及川」

しんと冷える公園に牛島の低い声が僅かに響いた。それに反応して、ベンチに腰かけていた人物がゆっくりと顔を上げる。
取り繕うこともなく、整った顔に不機嫌さを露わにして及川は牛島を見上げた。関わるな、声をかけるな、とでも言い出しそうで、まるで手負いの猫のようだと牛島は思う。

「なに」

短くそれだけ呟いた及川が、立ち上がろうとしてよろめいた。倒れそうになる体を支えてやれば、小さく呻く声が聞こえる。先日行われた青城の練習試合で及川が途中退場したというのは噂に聞いていて、足を怪我でもしたのだろうと牛島は結論付けた。

「無理をするな、座っておけ。ここからどうやって帰る? 親御さんは迎えに来るのか?」

問いかけた牛島の、体を支えていた手をパシンと音をたてて振り払い、ほっといてよ、と及川は口にする。空の端に残っていた夕焼けの名残は完全に群青色に塗り込められて、頼りない外灯だけが及川の表情を伝えていた。万人に美しいと形容される顔に今はただ敵意だけを浮かべて、大きな瞳は牛島を睨みつけている。試合に負けたときでも、こんな顔はしていなかった。
手負いの猫だとついさっき自分が思ったことを反芻して、牛島は片眉を上げてみせる。

「捻挫か? しっかり完治させないと、癖になるぞ」

スポーツをやっている者ならば誰でも分かっていることを述べると、及川の眉間に刻まれていた皺が深くなった。薄い唇の端が少しだけ持ち上げられ、拒絶の言葉が紡がれる。

「ウシワカちゃんには、関係ないでしょ」

ぴくり、と牛島のこめかみが動いたのに及川は気付かないまま、ゆっくりとベンチに腰をおろした。
ウシワカちゃん。地声よりもほんの僅かに高い音で呼ばれた。牛島がそう呼ばれるのを嫌っていることを知っていてわざと口にされた名は、及川が仲間を呼ぶときのような甘さも信頼も何もかもを捨て去って、ただただ牛島の苛立ちを燻らせるだけだった。及川に好かれていないのは分かっていた。四月から新しく後輩も入って来る、新体制チームの準備期間であるこの時期に怪我をし、機嫌が悪かったというのも重なったのだろう。
及川の声が耳に蘇る。挑発するような、耳障りな音。コートでチームメイトを呼ぶ声は、あんなに柔らかくて甘やかだというのに。
牛島に見つめられているということに気付き、及川が再び言葉を紡ごうとした。薄くて形の良い唇が“ウシワカちゃん”と紡ぐよりも、牛島の手がその口を覆うのが早かった。
及川の動きが止まる。大きくて、皮膚のかたい、手の甲の厚い牛島の掌が、己の口を塞いでいるという現実を理解出来ずに瞬きを繰り返す及川を見て、牛島は唇の端に笑みを浮かべる。
滑稽だと思った。薄く開いていた唇は閉じられ、呼吸をするのも躊躇われるのか必要最低限の空気だけが及川の鼻から出て牛島の手に触れる。

「妙な呼び方をするな」

そう伝えると、及川は薄茶の双眸を細めて牛島を睨みつけた。
呼び方の問題ではなく、他の者を呼ぶ時には含まれている親愛だとか信頼だとかが、自分には向けられていないことが気に食わなかったのだけれど、それは上手く言葉に出来なかった。これではまるで、及川のチームメイトに嫉妬しているみたいではないかと思ったからだ。
及川の美しい顔が嫌悪に歪んでいる。嫌なら噛みつくなりなんなりすればいいものを、及川はそれさえも嫌だというように少しも唇を開かなかった。牛島の手のひらには、及川の少しだけかさついた唇が触れている。



実際には数分にも満たない時間だったろうが、体感的には数時間にも感じられた。着信を告げる電子音が冷えた空気を切り裂いて響いたことから、牛島は及川の口を塞いでいた手を離す。及川がのろのろと制服のポケットからスマホを取り出すのを見ながら、牛島は己の右手を着ていたジャージで拭った。柔らかい感触と、僅かに湿った感覚が、手のひらに残っている。
スマホを耳にあてた及川が、岩ちゃん、と小さく声に出した。電話の相手は岩泉なのだろう。牛島と会話していたときよりも穏やかになった声音。“岩ちゃん”と言うそれには“ウシワカちゃん”と呼んだときとは違って、十分な甘さが含まれていた。



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70話を読んだら書きたくなった。牛島くんは永遠の片想い枠だと思ってます。

2013.07.27.
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