「臨也、」
そう言った俺の声も相当かすれていたが、臨也の声はもっと小さくて今にも消えてしまいそうで。
「な、で、静ちゃんが」
聞き取るのが困難なくらい小さい声で臨也は心底驚いたように言う。臨也は傍目から見ても分かるぐらい痩せていた。黒のTシャツがいつもならぴったりなのに、今の臨也はそれよりワンサイズ大きいものを着ているのかと疑ってしまうくらい、細い体。
俺なんかが触れてしまえば簡単に壊れてしまいそうで。けれど俺は無意識に手を伸ばしていた。俺の指が触れるか触れないかの距離まで迫ったそのとき。臨也はびくりと大きく体を揺らした。その顔は明らかに怯えた顔をしていた。
俺に触られるのが怖いのか。ズキンと胸が傷んだ。随分自分勝手だな、と自分でも思う。傷つけたのは自分なのに。臨也をここまで怯えさせたのは自分なのに。けれど臨也に拒否されると苦しくなる。自分はなんて身勝手なのだろう。
「…俺は、新羅に呼ばれて、」
「…新羅か…」
臨也は複雑そうに小さく笑った。それがあまりにも痛々すぎて俺は唇を噛んだ。臨也はその笑顔のままこちらに向いて言った。
「静ちゃん、久しぶりだね」
「そうだな…」
「元気にしてた?」
薄く笑っていつものような会話をする臨也。けれど声が少し震えていて。
「ああ、まあな…臨也は?」
「俺?元気だったよ」
そんな見た目で元気だったわけがねえだろうが。抱き締めでもしたら今にも折れそうな痩せた体。元々細っこかった体は目も当てられないほど痩せていた。
もっと、唇を強く噛む。微かに血が滲んで口の中に血の味が広がる。だけどそんなことは気にせず俺は言った。
「臨也、言いたいことがあるんだ」
「なに?」
今までのこと全部謝らなくてはいけない。謝って済む問題ではないが、でも、それでも。
「今まで…本当に悪かった」
「…」
「たくさん臨也のことを傷つけた。泣かせた。苦しませた。もちろんこんな言葉ですまされるなんて思っちゃいない。けど、」
「静ちゃん」
「どうしても謝らなくちゃいけないと思って」
うつむきながら言った。
臨也の顔が見れなかった。最後の最後まで俺は臨也に真正面からぶつかれずにいる。俺自身がこんなにも臨也を弱らせた、という事実をきちんと見つめられずに目をそらす。
口では謝罪の言葉を言っているがやっていることは臨也から逃げているだけだ。最後の最後まで俺は弱い。愛してる人を守るなんて、そんな言葉を口にする権利すらないくらい俺は弱い。
今までのことを謝って、そしてDVを治すからまた側にいてくれ、と言いたかったのにいざ臨也を前にすると自分の罪の重さに愕然となる。ここまで臨也を追い詰めた俺がまた臨也のそばにいたい、なんて考えが甘すぎるんじゃないだろうか。
(やっぱり俺が臨也のそばにいるのは不可能だったんだよな)
心の中で呟いて立ち上がった。謝りたいという最低限の願いは叶ったし、第一ここに俺なんかが長居しては臨也もしんどいだろう。きっと俺がいたら臨也は辛い過去を思い出してまた苦しくなるはずだ。そうなる前に、と思って部屋から立ち去ろうとすると。
「っどこ、行くの静ちゃん!」
泣きそうな、声がした。思わず振り向くと臨也は眉間にしわを寄せて泣くのを必死に我慢しているような顔をしていた。
「どこって帰ろうと」
そう答えると臨也は何かに怯えるようにビクッと肩を震えさせた。そしてまだ歩くのも辛いであろう体でベッドから降りた。そのふらふらした動作に俺は思わず足を止めて叫んでいた。
「おい!まだ安静にしてねえとー…」
「静ちゃんは卑怯だ!!」
俺の言葉を遮り、いきなり大きな声を出した臨也に俺はその場に固まる。臨也はおぼつかない足取りで俺の方までやってきて俺の前に立った。その体は明らかに無理をしていると分かるくらい震えていた。でも涙に濡れたその目はどこかを見据えるようにしっかりとしていて。
「静ちゃんは謝って自分が去ればそれでいいと思ってるだろ!?俺の気持ちなんか知りもしないくせに!」
「臨也…?」
「前もそうだった!勝手にさよならって言ってほんとにさよならして!今だってまた俺の前から消えようとする!」
俺は臨也の言っている意味が分からずきょとんとして尋ねる。
「だってそうしなきゃ俺は臨也をもっと傷つけてしまうし、」
「それはただの静ちゃんの自己満足だろ!?俺の気持ちなんかまったく無視してさ!」
一方的に傷つけていたのは間違いなく俺だ。なのになぜ臨也はこんなことを言うのだろう。
「静ちゃんは自分から別れを告げてこれで臨也を守れた、って思っているかもしれないけどそれはただの自己満足だ!」
「じゃあ、」
じゃあどうすれば、と言った。そばにいても臨也を傷つけることしか出来ない俺に他に臨也を守る術があったのか、と。
「別れるしか手段がなかった?例えその手段しかなくても俺はそれだけは嫌だ!守る守らないじゃなくて"俺が嫌"なんだ!」
臨也は苦しそうに言葉を紡ぐ。俺は口を開いた。
「ー一つ聞きたかったんだけどよ。臨也はなぜ自分から別れなかった?」
聞いてみる。一番気になっていたことだ。それを聞くと臨也はふっと息を吐いた。
「静ちゃんのそばを離れたくなかったんだ」
自嘲気味に笑って臨也は言った。
「そばにいたら前みたいに優しい静ちゃんが戻ってきてくれるかもしれない。そうしたらちょっと前までみたいな幸せがまたくるかもしれない。ずっとそんなことを考えてたよ」
「嘘、だろ」
その臨也の言葉には驚くしかなかった。臨也がこんなことを思っていたなんて。俺は臨也のことを何も理解していなかった…?
「それにね。どれだけ暴力ふられても酷いこと言われても」
臨也は静かに笑った。
「それでも俺は静ちゃんを嫌いになんてなれない」
つ、と涙が頬を伝う。俺の涙が臨也の涙か分からないけどその涙は暖かくて。今まで冷たい涙しか流せなかった俺は心の内が震えた。
「ごめん…!臨也本当にごめんな…!!」
触れたら壊れてしまいそうな体を抱きしめた。腕にすっぽりおさまってしまう臨也の体は小刻みに震えていた。
失っていたものの暖かさは腕の中にあって。やっと手にした嬉しさに俺たちは泣いた。