静ちゃんに、殴られた。静ちゃんに殴られるのなんかお互い嫌いあってた頃は当たり前のことだったし、初めて殴られたわけでもないのだからそんな深く考えることでもない。けど俺は、俺を殴っていたときの静ちゃんの顔が、目が、いつまでも頭のどこかでひっかかっていた。けれど暴力をふるい終わったあとのあの態度の変わり様も何かひっかかっていた。さっきまで本当に俺を殴っていた人間なのだろうか、と疑いたくなるほどの豹変ぶり。
嫌な、予感がしていた。
初めて殴られてから5日後、ずっと感じていた嫌な予感は見事に的中することとなる。
その日は一日中雨でじめじめした空気が池袋に漂っていた。新宿も雨が降っていて俺も朝から気が滅入っていたぐらい、なんだか嫌な日だった。その日、仕事を終えた俺は池袋にある静ちゃんの家に向かった。合鍵で家に入ると、まだ静ちゃんは仕事を終えていないようで帰ってきていなかった。時計を見ると、まだ午後六時で静ちゃんはいつ帰ってくるだろうかと考えながらソファでテレビを見ていた。しばらくすると玄関でガチャガチャと音がして、玄関の戸が閉まる音がした。俺は玄関に飛んでいって、
「静ちゃんお帰り!今日はずいぶん遅かったね?どうし、」
そう言おうとして口をポカンと開いた。静ちゃんはいつものバーテン服の上から下までびしょ濡れで、髪の毛の先から雨のしずくがぽたぽたと落ち、玄関を汚していた。
「静ちゃん…傘は…」
「ーあのくそ野郎っ…雨ん中鬼ごっこさせやがって粕が…!」
俺の質問に一切答えず、静ちゃんは独り言のようにつぶやいた。取り立てる客となにかあったのだろうか、どうやら今日の愚痴を静ちゃんはつぶやいている。静ちゃんはつぶやきながら周りのドアや靴箱を殴ったり蹴ったりしていた。
(静ちゃん、ものには当たらないのに)
違和感を感じた。静ちゃんは周りのものには当たらない。俺との喧嘩の時も使った道路標識は元の位置に戻してるし、いらいらしてもめったに静ちゃんは周りのものに当たることはないのに。正直、怖かった。
けどこんな雨でびしょびしょののままでは風邪を引くだろうと思い、俺は洗面所からタオルからを取った。
「何があったか知らないけどさ、とりあえず中入れば?風邪引くよ」
俺はほんとはなんだか怖かったけど、そう言って笑いながら静ちゃんの頭にタオルをかけた。…けど。
「…臨也か…?」
タオルを頭にかけたことでほとんど顔が見えなかったけど、俺の名前を呼んでこっちを見た静ちゃんの目は明らかにいつもとは違った。…違う。いつもと違う。この目は…
「臨也、てめえ来てたのか…」
ぞくりと背筋が震えた。静ちゃんの目が声が周りの空気が、違う。いつもの静ちゃんのはずなのに、いつもの静ちゃんと全然違う。怖くて怖くて仕方がない。俺は無意識に後ずさった。その後ずさった俺を静ちゃんは俺の胸ぐらをつかんで無理矢理引き寄せた。
そして俺の耳元に口を寄せて、いつもの静ちゃんじゃない声色で言った。
「なあ臨也…?ヤらせろ」
そう言うと貪るように静ちゃんは俺に口づけた。
「んっ…ふっ…はあっ…」
息すら出来ないような激しいキスに俺はついていくのに精一杯で、溢れた唾液が口の端からこぼれた。
静ちゃんは壁に俺を押し付けて逃げられないように、俺の足を割ってひざを入れ込んだ。
「ふっ…んーっんーっ!んんっ」
「うるせえ」
息が苦しくなって必死に静ちゃんの胸に手を当てて、静ちゃんを引き離そうとしたが静ちゃんはもちろんびくともしない。
本気で窒息する、と思いだした頃にやっと静ちゃんは離してくれた。
俺は急に酸素が肺に入ってきたことによってごほごほと咳き込み、その場へ座り込んだ。肩で大きく息を吸いながら静ちゃんを見上げると、あの目で静ちゃんは俺を見ていた。静ちゃんは呼吸が落ち着いた俺を無理矢理立ち上がらせ、言った。
「臨也、てめえ咳き込むぐらい俺とのキスが嫌なのかよ?」
「ちがうっあんな長いキス、息が続かないに決まってるじゃん!」
「口答えすんじゃねえよ!」
そう言いながら静ちゃんは俺を殴った。ガッと鈍い音がして俺は廊下に倒れ込む。頬が熱を持ちはじめて腫れている気がする。痛い。
静ちゃんは廊下に倒れた俺を担いで寝室に向かった。そして俺をベッドに放り投げ、
「悪い子に優しくする必要はないよな?」
そう言って静ちゃんはにやり、と薄く笑った。