小学三年生の頃だっただろうか。全校集会で貧血をおこして倒れたことがあった。校長先生の話の最中、気持ち悪くて立っていられなくなって、わたしはその場にしゃがみ込んでしまったのだ。周りにいたクラスメイトの心配する声、その声に呼応するようにきょろきょろし始める他学年の児童達。恥ずかしいなんて思う余裕もなかったけど、先生におぶられて体育館を後にする瞬間、こっち見ないでと強く思ったことは覚えている。
そのまま保健室へと連れて行かれてベットに寝かされた。保健室の先生にわたしの症状を伝えていた担任の先生の声は気がつくと聞こえなくなっていて、変わりに初老の保健室の先生がカーテンを引き、顔を覗かせた。「貧血ね」、先生が微笑みながらわたしの頭を撫でると、不思議と気持ちが楽になっていった。まほうみたいだ。気持ち悪い以外のことを考える余裕も生まれたけれど、安心したらまぶたが重たくなってきた。「寝てなさい、集会終わったら起こしてあげるから」。その声が合図だったかのように、わたしは深い眠りへと誘われていった―――。




(………夢?)


目の前に広がる天井に問いかけても、もちろん答えは返ってこない。本当に今のは夢だったのか。大体わたしは今眠っていたのか、ずっと起きていたのか。それすらも曖昧だ。保健室で休むなんてめったにないからふわふわとした気分が抜けない。寝ぼけているのかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない。それでもさっきまで見ていた夢―――ただの回想かもしれないけれど、それは不思議なくらい鮮明に頭の中に残っている。まるで上塗りしたかのように。


あの後のこともしっかり覚えている。先生に起こされる前に、廊下にだんだんと広がってくる喧騒で目を覚ました。寝てたんだ、と思ったのと同時に名前ちゃん?という声が耳に入ってきて、わたしが答えるよりも先に大丈夫?びっくりしたよ!と次々と言葉が投げかけられてくる。驚いて体を起こすと、わたしが寝ているベッドの周りにはクラスメイト達がいた。その中には普段話さない男子もいて、なんだか恥ずかしくなってベッドに戻りたくなった。「お、さっきより顔色良くなったな」、最後に顔を覗かせた担任の先生を見て漸く気付いた。みんな、先生について来ただけ。それでも、わたしは嬉しかった。言葉はなくてもわたしを見舞ってくれたクラスメイト達が。「大丈夫なら教室戻ろうぜ」、普段全く話さないクラスのムードメーカーの男子の発言に連鎖したように、みんな口々に教室へ戻ろうと誘ってくる。そのとき感じた心に灯がともるような温かさが、この出来事を特別な思い出にしてくれているのだと思う。もうずっと感じていない感覚。もしかしたら、この
先もう感じることのない感覚。


今更そんなことを思い出すのは、何かを期待していたからなのかもしれない。


(今何時…)


スカートのポケットに入れてある携帯を取り出す。13時2分。昼休みが半分過ぎたところ。


(教室戻らないと…)


そう思ったのと同時に腹部に鈍い痛みが走った。思わず洩れた痛っ、という小さな悲鳴がどこか嘘っぽく感じる。
最近、腹痛に悩まされている。朝は吐き気も催す。原因はわかっている。でも、認めたら動けなくなってしまうから。


(…いやだなぁ)


そう思っていても、今日は保健室に来てしまった。得意な英語の授業、一回くらい休んだって大丈夫。そう言い聞かせた。教室に入る前の先生を捕まえて保健室で休む旨を伝えたけれど、先生は淡々とわかった大事にな、と返してそれだけ。何かを期待していた訳じゃないのにショックだったのは、きっと体調が優れないからだ。そう自分を納得させ保健室まで行き先生の許可を得てベッドに潜り込んだら、安堵と同時に不安も浮かんできた。保健室に行きたくないのは教室に戻るのが辛いから。同じ理由で学校も休めない。今まであった自分の居場所が、わたしがいない間になくなってしまってるんじゃないか。他の人に話したら馬鹿げていると一蹴されてしまう話だろうけど、わたしは本気でそう思っている。それくらい、あの空間の中でのわたしの存在は曖昧だ。
教室に戻るのが怖い。教室に戻ったときの視線が怖い。今は休憩時間だから、戻っても不自然じゃない。一番戻りやすい時間でしょ。そう自分に言い聞かせても体は起き上がることを拒否している。この場所から離れたくない。ぐずぐず葛藤を続けている時だった。


ドアの開く音がした。隠れているわけでもないのに体が強張る。誰だろう。体調の悪い生徒だろうか。それとも、先生?先生だったら、嫌だなぁ。そろそろ教室戻りなさいって言われるだろうな。そう考えたら、心なしかさっきより腹痛が酷くなった気がする。わたしはなんて弱いんだろう。情けなくならなかったわけじゃないけど、だんだんこちらに近付いてくる気配から逃げるように再び布団に潜り込んだのは反射だった。同時にわたしの寝ているベッド付近で足音が止まる。休みにきた生徒がカーテンが閉まっているベッドに近付く訳がない。やっぱり先生かぁ。心の中で溜め息をつく。遠慮がちに引かれるカーテンの音を聞きながら、名前を呼ばれる事を覚悟した。


「苗字?」


その声は保健室の先生の声じゃなかった。予想よりも遥かに低い声。女じゃない、男の声だ。この声には聞き覚えがあった。毎日聞いている声。授業の始まりと終わりに号令を掛ける声。気のせいかもしれない。そう思いながらゆっくりと布団から這い出す。布団の外の空気は肌に冷たい。


「今福君…?」
「悪い、寝てた?」
「…ううん、大丈夫…」


本当に今福君だった。驚いて、言葉が続かない。どうしてここにいるの?とか、体調悪いの?とか、お弁当はもう食べたの?とか疑問はたくさん浮かぶけど、はっきりと形に出来ない。だって、わたし、今福君と会話したことないのに。彼がここにいる理由が思い当たらない。でも今福君はそうすることが当たり前のようにわたしの傍までやってきた。


「体調どうだ?」
「………」
「あ、もしかしてまだ気持ち悪い?」


ゆっくり首を振る。そっか、と呟いた今福君の表情が少し和らいだような気がした。それにつられたかのように、体を支配していた緊張が解れる。口からは自然と言葉が零れた。


「お昼……」
「え、あぁ。とっくに食い終わったよ」
「…休憩時間、予習しなくていいの?」
「あー…次古典だろ?俺得意科目だから大丈夫。それよりも苗字の方が心配でさ、なんか今日朝から体調悪かったみたいだし……」
「え」
「俺今朝のホームルームで安藤先生からの伝言みんなに伝えただろ?そのとき見えた苗字の顔色、あんまりよくなかったから。英語の時間いないの見て、やっぱり体調悪かったんだと思って」
「………」
「苗字、うちのクラス…って言い方もおかしいけど、そこに新しく入ってきた唯一の女子だし、やっぱりそういうのって俺にはわからない大変なこととかもあるのかな、って思って。余計なお世話かもしれないけど、なにか困ってることがあったら学級委員長の俺に………」


そこまで言うと、今福君は固まってしまった。どうしたの?と言葉がでる前に、頬に生暖かい感覚。え、と思ったのとそれが何か理解したのはほとんど同時だった。涙だ。


「え、ちょっ、苗字?!」


ぽろぽろととめどなく溢れ出る涙に一番驚いているのはわたし自身だった。涙なんてしばらく流していない。特に、このクラスになってからは。誰かと戦っているわけでもないのに、泣いたら負けだだと思っていた。でも……ああ、わたしは自分が思ってた以上に限界だったのかもしれない。辛い気持ちを無視して来たつもりだったけど、今福君にそれをこじ開けられてしまったようだ。たった数ヶ月間のことなのに、何年も耐えてきた気さえする。その耐えてきた期間、今福君はわたしをそんな風に思っていてくれていたなんて。全然知らなかった。わたしは彼に対して学級委員長という認識しか持っていなかったというのに。


二年生になって、クラスが変わった。たまたま一年の最後のテストの成績が良かったからだろう、わたしは一組―――別名トップクラスに放り込まれた。元々入試の時点で賢かった人達だ、メンバーがごっそり入れ替わる訳がない。現に二年生になってからの新顔はわたしの他には男子が二人いただけだった。きっともう一人女子がいたら違ったんだろう。そんなこと考えたって、この事実は変わらない。だけどこのクラスに足を踏み入れた瞬間から居心地が悪かった。馴染めない、そう直感した。このクラスになって約3ヶ月、別にいじめられてるわけでも、悪口を言われているわけでもない。それでも居心地の悪さは未だに消えない。加えて勉強のストレスが常にわたしを襲ってくる。先生の問い掛けに答えられて当たり前、そんな空間で間違った答えを言ってしまったら。考えただけで立っていられなくなる。もう二度と学校にいけなくなるかもしれない。そんな強迫観念がわたしを縛り付け、毎日取り憑かれたように予習をするようになった。はじめの頃はこれは何のための勉強?と思い手
が止まることもあった。でも最近は疑問に思うことすらなくなった。腹痛に悩まされるようになったのは、多分その頃から。
そんなわたしのこと、誰も知らないと思ってた。いてもいなくても変わらない、空気みたいな存在だと思ってた。でも、今福君はそんなわたしを気に掛けてくれていた。保健室で休んだだけなのに、もう数分もしたら教室に戻ってくるのに、わざわざここまで来てくれた。どうしよう、涙が更に溢れてくる。止まらない。



「…まだ気分悪いのか?」


いつの間にか落ち着きを取り戻した今福君は、遠慮がちにわたしの顔をのぞき込んでくる。さっき和らいだと思った表情は、心配そうな面持ちに戻っていた。そんな今福君と目が合った瞬間、じんわりと心の中が温かくなっていくのを感じた。なんだか懐かしい、この感覚。


「ううん、大丈夫…」


なんとか絞り出した声は自分の声が元々どんな音だったのかわからないくらいの鼻声で、とても弱々しい。でも、それが今のわたしの本物の声だと思った。去勢も剥がれ、赤裸のわたしの姿。そんなみっともない姿をさらけ出してしまって恥ずかしいと思う反面、ほっとしている自分もいた。もう今までみたいに気を張らなくていい。だって、わたしを心配してくれる人がこんなに近くにいた。それだけで十分だ。わたしはまだ、がんばれる。


「今福君、ありがとう」


さっきよりはっきりとした言葉となって出てきた御礼に、今福君の表情が再び和らぐ。本当はもっと上手に伝えたいのに、今のわたしにはこれが精一杯だ。でも、いいか。これからたくさん返していけばいいのだから。だってまだ3ヶ月しかたってない。まだまだ時間はたくさんある。とりあえず今は早く泣きやんで、これ以上今福君に心配掛けないようにしなきゃ。そう思った瞬間、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。


「「あ」」


重なった声に顔を見合わせる。数秒の沈黙のあと、吹き出したタイミングは綺麗にふたり同時だった。



×

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -