伝七の物欲しそうな表情を見るのが、名前は好きだった。
 兵太夫一人を猫可愛がりした時。喜八郎の髪を梳いてやった時。今だってそう。
 名前が「黒門くん、」と声をかけてみれば、なにか言いたげな瞳で名前の表情を伺い、そうしてふいと視線をそらす。 
「黒門くん……?」
 白々しい口調で、伝七の顔を覗き込む。 
「わ……苗字先輩、近いです」 
「そう? 黒門くんの顔がよく見えるけど、駄目かしら」 
「そんなことはないですけど……」 「なら問題ないわよね」 
「あ………えっ……と」
 上目遣いでちょいと小首をかしげてみれば、伝七は顔を赤らめた。
 かーわいい。
 ふっくらとした頬を指でつつきたくなったが、その様子を笑顔で眺めるだけに留めておく。
「苗字先輩?」 
「なあに、黒門くん」 
「どこか具合が悪かったりしませんか?」 
「私はいたって健康よ」 
「そう、ですか……」 
「黒門くんこそ、いつもと様子が違うみたい。そわそわしてるけど、どうしたの?」
 黒門くん、をうんと強調して言った。小さな後輩をこうやっていじめることが、どうしようもなく楽しい。
「僕は別に、」 
「そう? ならいいの。あっ、そうだ。後で兵太夫に伝えておいてほしいことがあるんだけど……」
 名前がそう言った時だ。 
「………名前」
 無意識だろうか。伝七がポツリと呟く。
「え?」
 わざとらしいなあと内心苦笑を浮かべつつ、名前は大袈裟な反応をしてみせた。
 「名前?」 
「その、あの……兵太夫は兵太夫なのに…………………う……あっ、やっぱなんでもないです! ごめんなさい!」
 もにょもにょとうつむきがちに話すその姿が微笑ましい。
 予想していた通りの反応だ。
「もしかして、羨ましいんだ」
 名前は、切れ長の目を細めた。 伝七は、ウッと言葉に詰まった。 事実、羨ましかったのだ。
 同じ委員会に所属する皆は名前呼びをされているのに、自分だけは違う。
名前と先輩後輩の関係になって、半年と少し。共に過ごしてきた時間の差だと考えようとしたこともあった。しかし、同級生の笹山兵太夫ですら、兵ちゃんと呼ばれているのだ。
 自分だけが仲間はずれをされているかのようだと、人知れず伝七は悩んでいた。
 いつもの勢いはどこへやら。すっかり黙りこんでしまった伝七を見て、名前は笑みを深めた。 
「あら、図星? ふーん、羨ましかったんだ。へえ……。黒門くんもけっこう可愛いところあるじゃない」 
「別にそんなんじゃ……!」 
人を小馬鹿にするような名前の表情を見て、伝七は咄嗟に言い返していた。
 たとえそれが事実であり、相手が先輩であったとしても、他人から馬鹿にされ見下されるというのは、伝七にとって許し難いことだ。
 頭を撫でようとのばされた名前の手を、振り払う。
 パチンと乾いた音に続いて、名前の瞳が暗い色を湛えた。表情こそ変わらないものの、伝七を見据えるその目付きは鋭い。 しまった、と後悔したところでもう遅い。 
「黒門くん、」 
「あ……苗字先輩」
 すみませんと謝罪する声は、尻すぼみになった。
「あら、どうして謝るの? 黒門くんは嫌だったんでしょう。私に触れられるのが。悪いことしちゃったわね、ごめんなさい」 
「そ、そんなことありません……」 
「ふうん。じゃあ、触ってほしい? 撫でて、触って、たっぷり可愛がってあげる。名前も呼んであげようか? 黒門くん」 
「それは……その………あの………」
 伝七の返答ははっきりしない。
「素直じゃないなあ。ねえ、伝七くん。」 伝七の肩が跳ねる。 
「期待したくせに」
 名前の瞳は、捕食者のそれである。




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