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  素直に溶かして


 
 2月14日。バレンタインデー。製菓会社の陰謀渦巻くチョコレートの日。世間は浮き足立つ人間とそれを恨めしげに見る人間といった具合に二分される。それは日本であればどこでも当てはまるわけで、倉持の通う青道高校も例に漏れず。本日14日、学校内には浮かれた空気と澱んだ空気の両方が漂っている。分類としては後者になる倉持は、ふわふわとした空気を纏っている生徒を見ながら、何とも言えない気持ちになっていた。

 バレンタインで例の分類の前者になれる人間とは、一般的に恋人がいる人間、好きな人がいる人間とされる。しかし義理チョコ、友チョコ、その他諸々の○○チョコが行き来する昨今はそれに当てはまらない人間も勿論いるので、ザックリ言ってしまえば世間一般で言う『リア充』である人間は前者であった。つまり、後者は『非リア充』である。
 倉持は、周りが認知しているスペックから言えば『非リア充』だ。寮暮しで朝から晩まで野球漬けの生活を送っているし、高校生らしく放課後遊んだりすることがほとんどない。そもそも普段の学校生活でも元ヤンが全面に出ている容姿、言動のせいで野球部以外との交友関係がほぼすべてと言っていいほど絶たれている。特に女子との交友関係はひどい。皆無だ。倉持は野球方面ではリア充であるが、男子高校生としては灰色の生活を送っている非リア充だった。
 ここで同じ寮暮し野球部で同じクラスの、同じく友達のいない『非リア充』の男のような整った顔でもあれば『彼女持ちのリア充』にでも近づけるのだろうが、残念ながら倉持には大して関わりのない女子にモてるようなプラス要素は持っていなかった。

 しかし。
 これはあくまでも『周りに認知されたスペック』上の話であって、倉持には『周りに認知されていないスペック』では前者となりうる要素を持っていた。

 倉持には、恋人がいる。

 先にも述べたが、倉持にはマネージャー以外の女子と交友関係が全くない。それがなくても女子にモてるようなスペックもない。なのに恋人がいるなどおかしな話なのだが、これはひっくり返っても変わることのない真実だった。
 この真実は、種明かしをすれば実に単純な事実だ。その恋人とは、倉持の限られた交友関係から出た人物、つまり野球部の人間であり、友達のいない所謂ぼっちである倉持が学校生活において行動を共にしている男なのである。もう一度言う。女ではなく男である。
 そう、倉持の恋人とは、先程倉持と同じく友達のいない非リア充としてあげた御幸一也その人であった。周りに知られないようにしているのは相手を考えれば当然のことだろう。
 一年の頃から何かと一緒に過ごすことの多かった御幸との間に恋人という関係が加わったのは昨年の秋のことだ。それまでにすったもんだ、とにかく色々あったのだが、そこは割愛しよう。とにかく、倉持は恋人がいる。倉持は前者になれる要素をしっかりと持っていた。
 なのにも関わらず、何故今年のバレンタインも倉持は後者なのか。それは至って簡単な理由であった。

 恋人が、御幸一也だからである。

 御幸がチョコレートをわざわざ用意するようなタイプでないことは、倉持が一番よくわかっていた。去年のバレンタインの御幸を思い返すと、この行事に微塵も興味がないことは明白だった。そもそも、御幸には恋人であっても男同士でチョコレートのやりとりをする発想がなさそうである。御幸からチョコレートを貰うなど夢のまた夢であるということは、比較的スムーズに倉持の中に現実として落ちた。
 勿論倉持から渡すという手もあったと言えばあった。だが、結局は用意しなかった。というか、出来なかった。大体、寮暮しで近くにコンビニくらいしかない状況で、チョコレートをどうこう出来るはずがない。寮生御用達のコンビニで、この時期にチョコレートを買えるはずなんかなかった。他の部員に見つかったら大惨事である。更に言えば御幸はチョコレートが苦手だと言っていたし、他のものを用意して渡したとしても物凄い勢いでからかわれそうで嫌だった。あの憎たらしい笑みが頭に浮かんで思わず苦い顔をしてしまったのは記憶に新しい。
 そうやって何だかんだ考えて、結局何もせずに今日に至る。倉持は御幸にバレンタインのアピールをすることもしなかった。だからこそ、後者にいる。

 恋人がいるってのに、何でこんな虚しい気持ちにならねーといけねぇんだ。
 ふわふわとした楽しげな空気を纏うクラスメイトを見る倉持の心情はこういったところだ。用意しなかった自分も自分なだけに、御幸にばかり当たることが出来ないのはわかっているのだが、それでも容赦なく襲ってくるバレンタインの浮かれた雰囲気に倉持は複雑な気持ちになる。
 正直に言えば、御幸からチョコレートを貰いたかった。相手が御幸一也でも、恋愛には多少の夢を見てしまうし、理想を抱いてしまう。バレンタインに恋人からチョコレートを貰うと、どんな気持ちになるのだろう。青春真っ盛りな倉持は、それが気になった。興味があった。

「お前今日溜め息ばっかだな」

 本日何回目かの女子からの呼び出しを受けていた御幸がいつの間にか戻ってきていたようだ。倉持の目の前で呆れ顔をしている。
 この溜め息、お前のせいでもあるんだけどな。
 そんな言葉を手元のミルクティーと一緒に飲み込んで倉持は御幸を睨む。

「うるせぇ。さっさと昼飯食え、時間なくなんぞ」
「なんだよ、いつにも増して怖ぇな」

 御幸はそんなことを言いつつ平然とした顔で昼食のパンにかぶりつく。さっきまで女子に呼び出されていたというのに、バレンタインであることを欠片も匂わせない御幸の様子に、やはり興味がないのだと倉持は知る。
 バレンタインデーであってもいつもと何ら変わりない御幸との時間。目の前に座る恋人は朝から女子に呼び出され、チョコレートと一緒に淡い想いを何度も贈られているというのに、倉持はそんな時間を御幸と一秒たりとも過ごしていないのだから割に合わない。御幸がモてるのは今更なのでどうでもいいが、今日という日に教室に独りぼっちにされるのは割と精神にくるものがあった。
 やっぱ来年は、どんなにからかわれても俺から渡すかな。
 からかわれるのは癪だが、一日我慢すればホワイトデーのお返しが期待出来るわけである。今日のような虚しい思いをするより数倍マシなはずだと倉持は考える。
 眉間に皺を寄せながら来年の計画を練る倉持と、そんな倉持を大して気にする様子もなく、パンを食べ終えスコアブックを捲りはじめる御幸。バレンタインデーの昼休みは、滞りなく過ぎていった。



 結局学校にいる間、御幸は呼び出されては戻りを繰り返し、倉持は今年も呼び出されることなくいつも通りの時間を過ごした。夕方の練習を終えた後、毎年恒例のマネージャー陣の手作りチョコを貰ったおかげで今年も何とか0個は回避したが、倉持の虚しい気持ちがそれで消える訳ではない。沢村が大量の義理チョコと、義理チョコに紛れて1つ、本命チョコらしきものを貰っていることを確認したせいで、虚しさに荒んだ気持ちも加わった。沢村でさえ想いのこもったチョコを貰っているというのに、何故恋人持ちである自分はこんな気分にならなければいけないのか。理不尽な怒りを爆発させた倉持の技は、ここ最近で一番キレていたと後の沢村は言う。



 さて、何だかんだいつものように過ごしている内に時刻は夜になった。あと数時間で憂鬱なバレンタインデーも終わりである。沢村不在の自室で、倉持は今日のことはさっさと忘れてやろうとゲームのコントローラーを握っていた。憂さ晴らしは格闘ゲームに限る。
 しかしバレンタインはまだ倉持を開放する気はないらしく、さぁやるぞ、と倉持がメニュー画面を見据えてコントローラーを構えたタイミングでコンコン、と部屋の扉がノックされた。
 タイミングの悪さに舌打ちをしつつ短く返事を返せば、ガチャリと扉が開く。扉の隙間から顔を覗かせたのは御幸で、まあ声も掛けずにこの部屋に入ってくるのなんてコイツくらいだよな、と倉持は顔を顰めた。もういい加減今日のことは忘れたいのに、何故この恋人はこのタイミングで部屋を訪ねてくるのか。倉持はコントローラーを手にしたまま、顔だけ御幸の方へ向ける。さっさと用事を済ませてご退場いただこう。倉持の魂胆はそんなところだ。

「何か用かよ」
「あ、うん、すぐ終わる。あのさ、倉持、」

 何かを躊躇するように視線をずらした御幸に倉持は首を傾げる。御幸らしからぬ態度に心がざわついた。思わず今日の日付を思い浮かべてしまったのは最早しょうがないことだろう。
 もしや、いやまさか、そんなことあるのか?ぐるぐるといつにも増してよく巡る思考は段々と期待へと傾いていく。倉持はごくりと喉を鳴らした。視線を下に向けていた御幸がこちらを見て、自然と目が合う。形のいい唇が、ゆっくりと開いた。

「これ、貰ったんだけどいる?」
「は?」

 さっきまでのらしからぬ様子はどこへやら、いつものへらりとした笑みを浮かべた御幸は、深い緑色の包装紙に包まれた小ぶりの箱を倉持に向かって差し出してきた。その箱と中身自体は恐らく倉持が求めていたものだが、御幸の口から聞こえてきた言葉がよろしくない。倉持の聞き間違いでなければ、目の前の男は貰ったんだけど、とのたまったのだ。それを何故倉持の方へ差し出すのか。倉持の頭にははてなマークが飛ぶ。

「いや俺チョコ苦手だからさ、沢山貰って困ってんだよね」
「あ゛あ゛?」

 倉持の表情から考えを読み取ったのだろう御幸によって、先程の言葉は倉持の聞き間違いではなかったことが証明された。更にはこの態度である。口元がひくりと引き攣るのを感じながら、倉持は御幸を鋭く睨みつけた。しかし御幸の表情は変わらない。

「だからあげる」
「いやいらねーよボケ。自慢か?自慢しに来たなら帰れ。帰って死ね」
「ハッハッハ、その様子を見るにやっぱり倉持クンは貰ってないんだな。よし、恵んでやろう」

 扉の前に立っていた御幸が片足だけ部屋に乗り上げ、倉持の近くへ箱を置く。恵むも何も、倉持が望んでいないのだからその行為は最早押し付けである。さっさと部屋に上げた足を靴へと戻し、部屋を出ていこうとする御幸に、慌てて倉持はコントローラーを放って立ち上がった。このまま箱を置いていかれるなんてたまったもんじゃない。

「だからいらねーっつの!つーかくれた子に悪いだろうが!おい!置いてくな!」

 御幸の方に突き返した箱は、御幸に贈られたものであって間違っても倉持が持っていていいものではない。自分は恋人に貰えていないことだとか、その恋人である御幸に貰えていないことを馬鹿にされたことだとか、言いたいことは山程あったが、まずはこの箱を御幸に返さなければ話など到底出来ない。
 すでに部屋を半分出ている御幸は、倉持の方をチラリと見てそれから箱へと視線を移す。倉持が箱を突き出した格好のまま固まっていると、目の前で御幸はにっこりと、それはそれはいい笑顔を浮かべた。

「俺、監督に呼ばれてるから。あ、ちなみにそれ返品不可な
「ハァ!?あっ、ちょ、てめっ、待ちやがれ!マジでどうすんだこれ!!」

 バタン。倉持の叫びも虚しく扉は閉まった。
 どうするんだ、これ。
 もう一度同じ言葉を繰り返して、倉持は顔を歪ませる。御幸は返品不可なんて言っていたが、倉持には返品以外の選択肢がなかった。
 今日はバレンタインデーだ。これは御幸が、御幸に想いを寄せる女子から貰ったものだ。再三言うようだが、倉持が持っていていいものではない。
 大体、今日という日に人から貰ったものを倉持に、自分の恋人に押し付けるなんて、御幸は一体何を考えているのだろう。倉持は舌打ちをし、手の中にある箱を見つめる。
 この箱を渡した子は一体どんな気持ちだったのだろう。もし告白も兼ねていたのなら相当な勇気を出したはずだ。いくら御幸と言えど、そんなものを人に押し付けたりするなんて。はっきりとはしない、それでも確かな違和感が倉持の心に渦巻く。
 御幸はとっくに部屋の外で、監督のところに行っている以上追いかけて詰め寄るわけにもいかない。今すぐにどうにか出来るわけじゃないことを察した倉持は、とりあえずは箱を机の上に置き、異様な存在感を放つそれからそっと目を逸らした。返すのはまた明日すればいい。そう考えを切り替えて、倉持は放り出していたコントローラーを再び手にする。
 ちょっとでも期待した自分が馬鹿だった。倉持は数分前の自分に向けて溜め息を一つ吐く。今度こそバレンタインの苦い思いを忘れるべく、倉持は目の前の画面を見据えた。




 翌日15日。バレンタインデーを乗り越えた学校は、ようやくいつも通りの空気を取り戻していた。しかし倉持はと言えば、バレンタインを終えた今日も澱んだ空気を纏って学校に登校している。

 結論から言おう。倉持は件の箱を、まだ御幸に返せていない。

 結局昨夜、ゲームに集中出来ないまま時間だけが無駄に過ぎ、仕方がなくもやもやとした気持ちを抱えたまま倉持は布団に潜った。しかし朝起きても気分は晴れず、やはり頭に浮かぶのは御幸に押し付けられた深緑の箱のことばかりで。
 何故虚しいバレンタインをこの箱のせいで翌日まで引きずらなければならないのか。もうこれ以上あのイベントのことは考えたくない。さっさと御幸に返してしまおう。
 倉持はそう考えて、朝練前から登校に至るまでの間、タイミングを見計らっては御幸に箱を返そうとした。だが、これがうまいことかわされている。箱の話を振ろうとしたらするりと話を変えられ、逃げられ、いつもなら一緒になる登校も今日は一人にされる始末。おかげで今もなお、箱は倉持の手元にあった。
 登校する倉持の鞄はいつもの中身に箱が増えた程度だというのにひどく重い。肩にずっしりくる鞄はまるで鉛でも入っているかのようだ。倉持は鞄に負けず劣らず重い溜め息を吐き出した。
 放課後になる前にこの箱を返してしまいたいところだが、返しているところを御幸にこれを贈った女子に見られてしまったら大事だ。傷つけることになってしまう。それを考えると返す場所を選ばなければならないし、そうなるとまた御幸にかわされる可能性が高い。一体どうすればいいのか。何だって自分は人のチョコについてこんなに悩まなければならないのか。出来れば自分宛てのチョコについて悩みたかった。倉持は下駄箱を前に項垂れる。

 そんな時だった。

「ねぇ聞いた?御幸くんの話」

 下駄箱の近くで立ち話をしているらしい女子の声が倉持の耳に届いた。聞こえてきたのは今現在倉持の頭を悩ませている男の名前で、倉持は思わず聞き耳を立てる。

「あーあれでしょ、今年もチョコ全部断ったってやつ」
「そうそれ!」
「すごいよね、全部とかさ。フツーしないよ」
「あれかな、やっぱり彼女いるのかな。ほら、他校とかにさぁ…」
「えーやだ、それちょっとショックなんだけど!」

 彼女じゃなくて彼氏ならいるけどな。
 そんなツッコミを心の中で入れつつ、倉持は女子の会話から去年のバレンタインを思い出す。そういえば去年もチョコを断っていたような、と思い至り、そこでチョコが苦手って知ったんだっけか、と一人頷く。
 そうか、今年も断ったのか。そういやそれっぽいもの持ってなかったもんな、と倉持は昨日の御幸を思い出して、それからとんでもないことに気づいて固まった。
 今年もチョコを断った。しかも全部。全部なら、今自分の鞄に入っているあの箱は何なのだ?御幸は昨日の夜なんと言った。『沢山貰って困っている』と。『だからあげる』と、そう御幸は言わなかったか。
 倉持は弾かれたように中途半端に履いていた上靴に無理矢理足を詰め込んで、教室とは逆方向に向かった。


 倉持が向かったのは、校内でも利用する生徒が少ない西階段だ。倉持は階段の中程で鞄をおろし、その中から件の箱を取り出した。そしてそっと深緑の包装紙に手を伸ばす。勝手に開けてしまうことに罪悪感を感じるが、どうしても先程の女子の会話が頭にちらついてかなわない。慎重に包装紙を剥がして、箱に手をかける。倉持はどくどくと脈打つ心臓を押し込めて箱を開けた。そして箱の中にあったものを見て、これでもかというほど目を丸くする。
 そこにはトリュフがちょこんと6つ、行儀よく並んでいた。しかもそれは明らかに手作りのもので、それがわかってしまった倉持は箱を手にしたまま動けない。包装紙で丁寧に包まれていたから、倉持はてっきり買ったものだと思っていたが、箱の中に鎮座するそれは綺麗に丸められてはいるものの、見れば手作りとわかるものだった。倉持の頭の中に、昨夜の御幸の言葉と、先程の女子の言葉が響く。
 昨今の手作りの贈り物が怖いということは、倉持とて少しぐらいは知っている。言い方は悪くなるが、誰とも知れない他人が作った、何が入っているかもわからないような食べ物を、御幸が人に寄越すはずがないということは少し考えればすぐにわかることだった。実際、倉持もすぐにその考えに至って、だからこそ、バクバクと心臓が跳ねている。
 『沢山貰った』は嘘で、『全部断った』がホント。
 受け取っていないものを受け取ったと嘘を吐いて、それが見抜かれないようにわざとふざけた言葉で倉持にこれを渡して、倉持がこれを返そうとする度にかわして、朝から今の今まで逃げて。御幸の言葉と行動と、目の前のチョコが繋がっていく。

「あのクソキャッチャーめ……!」

 全部を知った倉持は、込み上げるどうしようもない気持ちを悪態にして吐き出す。ぶわりと湧き上がった熱はすぐに倉持の顔を染めていった。
 どうして昨日の自分は、去年御幸がチョコを断っていたことをすぐに思い出さなかったのか。馬鹿野郎、と昨日の自分を叱りつけたくなる。
 しかし倉持には自己嫌悪に浸っている暇はなかった。今は御幸に、あのひねくれた男に、このチョコのことを言わねばならない。倉持は箱に蓋をして、再び鞄へと仕舞う。その手つきは慎重そのものだったが、箱を見る目はすわっていた。
 今すぐにこれを御幸の前に突き出してしまいたい衝動を必死に抑え、倉持は考える。のらりくらりとかわされることを考えると、御幸を問い詰めるのは時間のある昼休みが良いように思えた。
 決戦は昼休み。
 そう決めた倉持は、ようやく鞄を手にして教室へと向かったのだった。




 待ち望みすぎると、時の流れは遅く感じられるものである。
 いつもより長い午前中を過ごした倉持は、ようやく鳴った昼休みのチャイムを耳に、静かに深呼吸をした。いつもなら昼食を持って御幸の席に行くところだが、今日はそうはいかない。倉持は例の箱を手に、ざわつく教室の中御幸の席へと向かう。

「御幸」
「うん?」

 いつもより鋭い声を不思議に思ったのか、御幸がきょとりと倉持を見上げる。どうした?と問うてくる御幸は油断しきっていて、今がチャンスと感じた倉持はたたみ掛けることにした。

「昨日はバレンタインだったな」
「……うん、そうだな」
「お前、今年もチョコ全部断ったらしいじゃねぇか」
「え、なんでそれ、」

 バレンタインという単語に警戒の色を示した御幸だったが、次の倉持の言葉にその警戒を崩された。
 なんでそれ知ってんの、と言葉を続ける御幸の声は動揺を隠せていない。この情報を倉持に知られるのは、御幸にとって予想外だったらしい。珍しく動揺した様子の御幸に、倉持の口角は自然と上がる。やられてばかりは倉持の性に合わないのだ。

「これ、どういうことか説明してくれるよな?」

 御幸の目の前に件の箱を置いて、倉持は射抜くような目で御幸を見た。御幸はといえば、倉持の視線と開けられた形跡のある箱に朝とは状況が違うことに気づいたらしい。御幸は倉持の方を見ながらも、僅かに椅子を引いて倉持と距離を取った。

「あー……ごめん、倉持。話の続きしたいところなんだけどさ、俺ちょっと監督に呼ばれてるんだよね」
「あ?嘘つけ、昼は職員で会議があるから用があっても会えないって言ってただろうが」
「あれっそうだっけ…?」

 ハハハ、と薄っぺらい笑いをこぼす御幸に、倉持は眉間の皺を深くした。御幸の体は椅子から半分はみ出ている状態で、倉持からどうにかして逃げようとしたことがありありとわかる。

「そうだよ。テメェ今逃げようと……あっ!?てめっ、待ちやがれクソ眼鏡!!!」

 逃げようとしたことを責めようとした倉持に隙を感じたのか、御幸が教室の外へと駆け出した。学校生活では基本的にのんびりとしている御幸らしからぬ俊敏さに、倉持は一拍反応が遅れる。慌ててチョコを手に御幸の背中を追いかければ、御幸が何とも憎たらしい顔で倉持を振り返った。

「この状況で待つわけないだろバーカ!」
「ふっざけんな!待てや御幸コラァ!」

 倉持は青筋を立て、先輩の伊佐敷よろしく吠える。
 昼休みが始まって5分。御幸と倉持の鬼ごっこが始まった。


 昼休みに入った廊下は人でごった返している。その中を危なっかしく人を避け、駆け抜ける男が二人。後ろを振り返らず、ただひたすら校内を逃げ回る男と、怒鳴り声に等しい音量で逃げる男の名前を呼びながら追いかける男。
 追いかける方──倉持は、階段を駆け下りた先、人気の少ない廊下を力強く、しかしそれを感じさせないほど軽やかに蹴りつけた。獲物を捉えた野球部の韋駄天は恐ろしく速く駆け、数メートル、数歩、あと少しと着実に逃げる方──御幸を追い詰めていく。

 捕まえた。
 普段から人のいない資料室に差し掛かったところで勝利を確信した倉持は、迷わず御幸へと手を伸ばした。その腕を掴み、自分の方へと引き寄せる。

「ッは、捕まえたぞ御幸ィ…!」

 ドスのきいた声を投げつけた倉持を、御幸は嘘だろ、とでも言いたげな顔をして振り向いた。自分を睨みつける倉持をみとめた御幸は大きく見開いた目を徐々に鋭くし、ぜーぜー言っている息のことも忘れて舌打ちをする。

「追いついてんじゃねぇよ」
「はぁ!?逃げといてどの口が言ってんだテメェ!」
「だから追いかけてくんなって言ってんの!馬鹿チーター!」
「チーター舐めんな、逃げられたら追うが基本だボケ!」

 今度は逃がしてなるものかとばかりに、倉持が御幸の腕を強く掴む。じりじりと互いを睨みつける二人の間に、冬の冷えた空気が流れていく。昼休みの喧騒から切り離されたこの場の静けさが、少しずつ二人の我慢の糸を焼いていくのがわかった。

 先に糸が切れたのは、倉持の方だ。

「御幸」
「やだ」
「何も言ってねぇ内から拒否してんじゃねぇ!」
「だって何聞かれるかわかってるもん」

 もん、とか可愛くねぇんだよ。拗ねたように視線を逸らす御幸に倉持は口元を歪に引き攣らせる。往生際の悪い御幸を目の前に、倉持の苛つきが募っていく。

「わかってるなら話は早ぇな、このチョコのこと説明しろ」
「やだ」
「おい、御幸」
「嫌だって言ってんだろ」
「嫌じゃねぇ。これお前のだろ。責任持って話せ」
「だから昨日貰ったって言ったじゃん」
「お前チョコ全部断ったんだろ!断ったんならこれ何なんだよ!」
「知らねーよ」
「知らねぇってなんだよテメェな…!」

 そっぽを向いてひたすら否定を続ける御幸に、倉持の我慢は限界に近づいていた。コイツ、一発何かしらお見舞いしてやらねぇと吐かねぇんじゃねぇの。倉持の頭に物騒な選択肢が浮かぶ。
 勿論実行する気はなかったが、どうにも冷静になりきれなくて倉持はがしがしと頭を掻く。それ以外の方法を考えようと倉持が御幸の顔から視線を逸らすと、御幸の拳が固く握られているのが視界に入った。
 それを見た倉持は、目の前の男が意地っ張りで素直じゃないのは今に始まったことではないことを思い出した。付き合うまでの過程を思い返し、長い長い溜め息をつく。そうだ、ここらで自分が素直にならなければ、事は動かないのだ。

「…………俺、正直お前からのチョコ欲しかったんだけど」
「───え、」

 これを白状するのはなかなかに恥ずかしく、倉持は御幸の顔から視線を逸らしたまま呟いた。御幸の驚いた声に顔が熱くなるのを感じるが、言ってしまったものはどうしようもない。倉持はやけくそになって口を開く。

「お前、去年のバレンタイン興味なさそうだったし、まあ貰えるわけねーとは思ってたけどよ。もしチョコ貰えたら、って何回も考えちまったし、ぶっちゃけ昨日お前が俺の部屋に来た時もちょっと期待したし……。でもお前が『貰ったヤツ』とかほざくからがっかりしたんだよ、これでも」

 そこまで白状した倉持は「だから、」と続けて、俯かせていた顔をあげた。

「これ、お前からだったらすっげぇ嬉しいんだけど。…………違うの?」

 箱を御幸に向け、真っ赤な顔で倉持は言った。倉持が口を尖らせて御幸の方を見れば、御幸は倉持の言葉が処理しきれてない様子でパチパチと瞬きを繰り返す。それから遅れて、じわじわと顔を朱に染めていった。

「なぁ、御幸」

 これほんとに、俺にじゃねーの?
 倉持は御幸の腕を掴んでいた手をするりと滑らせ、固く握られているその拳を優しく包んだ。言い方は疑問形だが、その言葉は確信を持ったもので。ダメ押しをした倉持を、御幸は悔しげに口を引き結んで睨む。

「………ッそーだよ…!お前にだよ、この足オバケ!」

 結んでいた口元をほどいて、御幸はぶっきらぼうにそう言い捨てた。その顔は先程より赤く、悔しさが滲んでいる瞳は心なしか潤んでいる。御幸の口から飛び出た肯定の言葉と予想以上の反応に、詰め寄ったはずの倉持も次の言葉が出てこない。こんな可愛い反応をしてくれるなんて思っていなかったのだ。
 そんな半ば呆然としている倉持の手を振り払い、御幸
はきっと倉持を睨みつける。

「人にチョコとか初めて作ったし、そもそも柄じゃねーし、言えるわけないだろ……!」
「…みゆ、」
「喋んな鈍感野郎!」

 御幸に手を伸ばしかけた倉持にそう怒鳴って、御幸はとうとうその場にうずくまってしまった。逆ギレに等しい御幸の態度だが、不思議と怒りは湧いてこない。倉持はどんなに抑えようしても上がってしまう口角と戦いながら、御幸の前にしゃがみこんだ。

「おい、御幸」
「…ッ倉持なんか知らねぇ!あっち行け!」
「いやだ。なぁ、御幸。これ本当に俺になんだよな?」
「だから言っただろ…!つーか言う前に察しろよ馬鹿!馬鹿もち!」
「無茶言うなっつーの」

 二人して廊下の隅に座り込んで、騒がしく言葉を交わす。御幸は必死だったが、倉持は嬉しい気持ちを隠せていない声で返事を返した。その顔は心底楽しそうで、幸せそうだ。

「御幸」
「……………何だよ」
「顔見せろ」
「やだ」

 顔を覗き込もうとする倉持の気配を察したのか、御幸がうずくまったまま顔を僅かに逸らす。その姿に、倉持はあの独特の甲高い笑い声ではなく、低い声でくつくつと笑いをこぼした。

「御幸」

 倉持が柔らかく御幸を呼ぶ。発してから倉持自身も驚いてしまうような声に御幸が反応しないわけがなく、腕から少しばかり顔をあげた御幸がいまだに鋭い瞳で倉持を見上げてくる。

「…………だらしねー顔」
「嬉しいんだからしょうがねぇだろ」

 拗ねたような声で悪態をつく御幸に、倉持は笑ってみせる。本当に、どうしようもなく嬉しかったのだ。貰えないと思っていた御幸からのチョコが手元にあって、目の前には可哀想になるぐらい、羞恥で真っ赤になっている可愛い恋人がいる。昨日の苦いバレンタインとは一転した状況に、倉持は機嫌よく目を細めた。

「ホワイトデー、期待しとけ」
「………倍返しじゃねーと来年は作らないからな」
「上等」

 やや投げやりな御幸の言葉に、倉持はにやりと笑って返す。腕に頭を預け、脱力した様子の御幸からはどうしてこうなったんだ、という疲労が伺えて倉持は薄く笑った。

「御幸、ありがとな」

 ぐしゃぐしゃと茶色の髪をかき混ぜるようにして御幸の頭を撫でる。普段頭を撫でられることなんてない御幸はこれに弱いようで、自然と眉間に寄っていた皺が減っていくのを倉持は満足げに見つめた。




「あー腹減ったー」
「昼飯食ってないからな」
「誰かさんのせいでな」
「うるさい。倉持が今にも俺に噛みついてきそうな怖ぇ顔してたから逃げたんだよ」
「おめーが回りくどいことするからだろうが」

 人のいない階段をゆったり上りながらダラダラと会話をする。昼食を食べずに教室を飛び出した二人は、やっと教室に戻ろうとしていた。すでに昼休みは半分ほど過ぎていて、ぐぅ、と空腹に耐えかねた倉持の腹が鳴る。御幸もその音につられたように「腹減ったなぁ」と呟いた。

「あ。そういや食うもんここにあるじゃねーか」
「は?」
「これ」

 何かを閃いた様子の倉持は、不思議そうな顔をしている御幸に向かってトリュフの入った箱を見せる。それを見た御幸は不思議そうな顔から一転、口元を歪め怪訝そうな顔を作った。

「待って、今食うの?」
「もう俺のもんなんだから、いつ食べようと勝手だろ」
「そりゃそうだけど……って、あ!」

 暗に今食べるのはやめろ、と伝えたつもりだった御幸の意思は汲み取られることなく、さっさと箱を開けた倉持の口にトリュフが一つ放り込まれた。ああ…と困ったように眉を寄せた御幸は、不安げに倉持の方を見た。

「ん、うまい」
「………本当に?」

 美味しいから口に出したというのに、それを疑うような御幸の発言に、倉持は首を傾げる。そういえば初めて作ったと言っていたし、チョコが苦手な御幸はいまいち味に自信が持てていないのかもしれない。そこまで考えて、倉持は自分より数段下にいる御幸の方を身体ごと振り返った。

「確かめてみろよ」

 いつもとは違う、下に見える御幸の胸ぐらを掴み、引き寄せる。倉持は驚いたように目を張る御幸を捉えながら、そのまま唇を重ねた。口内に残るチョコレートの味を御幸に移すように、御幸の唇を食らう。深く重なったそれにするりと舌を差し込み、御幸の咥内をくすぐった。チョコレートの味が、二人の唾液と混ざり合う。時間にしたら短いそれは、上の階から聞こえてきた昼食を終えたらしい生徒の楽しげな笑い声によって遮られた。
 離した唇を舌でなぞり、倉持は御幸の反応を伺う。どうだよ、と言わんばかりのその視線に、御幸は思わず抗議をしようとしていた口を閉じる。それからどこか呆れたように倉持を見つめ返した。

「…………甘い」

 舌を出し、苦々しく呟いた御幸に、倉持は一瞬きょとんとする。それから、徐々に目を眇めた。

「ヒャハハッ、最高だろ?」

 あの独特の声で、倉持は悪戯っぽく笑った。だからうまいっつっただろ、といたく楽しげに言う倉持を前に、御幸は盛大な溜め息を一つ吐く。それからふっきれたように、少し眉を下げ笑った。
 教室まで、あと少し。二人の一日遅れのバレンタインデーはもう少し続く。


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