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  ナイトスピーカー A


3年目の3月

 卒業まで二週間をきった。今年は大雪になることもなく、2月末には雪は溶けきっていて、比較的過ごしやすい冬だったな、とぼんやりと思う。忘れもしない9月から流れるように月日は経ち、俺と御幸の間に壁を作ったきっかけでもあった『卒業』に、もう数歩で足を踏み入れてしまうところまで俺はきている。その事実は日が、時間が、一つ過ぎるごとに大きな重しとなって俺にのしかかっていた。
 帰省の時、あとは外に出られないような天気の日以外、ほぼ毎日のように続けられていた御幸との日課も、すぐに数えられるくらいの回数で終わりが来る。どうしたものか、そのことに俺は焦りと寂しさに似た何かを感じていた。
 さて、そんな死ぬほど似合わないアンニュイな気持ちを気遣われることもなく、今日も日課の時間がやってくる。特にこの時間と決めていた訳ではないのに、御幸と一緒に練習に出るようになってからある程度固定されたこの時間は、この日まで変えられることはなかった。
 いつも通り靴を履き、自室を出る。そうしたら隣の部屋からドアが開く音が────

「……あ?」

 しん、と静まり返った廊下に、間抜けな俺の声が落とされる。いつも俺が部屋を出るのとほぼ同時くらいに隣の部屋から出てくるはずの御幸が、今日はいなかった。
 あれ、と思う。今日は朝の食堂で喋ったきりだが、その時俺は普通に御幸と会話をしたし、御幸も別段変わった様子はなかった。体調が悪いだとか、俺がアイツを怒らせただとか、そういったことはなかったはずだ。
 何かあったのだろうか。そう思うものの、俺は御幸の部屋に足を向けることが出来ない。秋からアイツの部屋に行くことは避けていたし、何より約束をしていたわけでもないこの自主練に来ないことをわざわざ部屋まで聞きに行くのは不自然な気がした。やるかやらないかなんて元々自由だ。気になりはするけれど、部屋まで行くのはまるで俺が御幸と一緒にいたいようで少し、いやかなり気まずい。
 今日は御幸なりの事情があるのだろう。そう思い込むことにして、俺はいつもの通り寮を出て走り出した。



 次の日の夜、またいつも通りの日課が再開されると思っていた俺は、その考えが甘いものだったと思い知らされることとなる。御幸が自主練に来なくなったのだ。
 そんな日が3日、4日と続き、俺はいよいよ何かしでかしたか、と自分の行動を省みるようになっていた。しかし何度考えてみても心当たりは一切なくて、首を捻る。御幸とは日中寮内で会っているし、会話もしているのだ。御幸の様子は至って普通だった。もし御幸が怒っているのならば、今までの経験上露骨に態度に出ることはわかっている。"きまり"の距離だって、俺との練習だって今に始まったことではないだけに、前触れのないこの静けさが謎だった。いくら考えても答えは見えてこなくて、俺は唸るばかりである。
 御幸本人に聞けばいい話ではある、それはわかっている。軽いノリで、「そういえば最近夜来なくなったな」と声を掛ければそれで終わりなのだろう。だけどどうにもそれが出来ない。御幸の返事が予測出来なくて、それを少し恐ろしく感じている自分がいる。

 もし、アイツが俺のことを嫌いになっていたとしたら、それで来なくなっていたとしたら───

 そこまで考えてハッとした。御幸に嫌われたから何だと言うのだ。元々好かれていたわけでもないし、つるんでいたのだって腐れ縁、何となく、色々な立場上仕方なくのはずだ。なのに、何で今俺は、御幸に嫌われることにぞっとしたのだろう。
 脳裏に過ぎったのはあの忘れもしない夜だった。あの時遠ざけたはずの答えが、卒業間近の今になって急速に近づいてきている気がした。 

「何なんだよ……」

 それは、御幸に向けたものだったのか、自分に向けたものだったのか。呟いた自分でもわからなくて、俺は一つ舌打ちを落とした。



 俺の日課から御幸がいなくなって6日が経った。いよいよ明後日は卒業式の予行というところまで俺はきてしまっている。退寮の準備も始まっているというのに、近づきすぎた高校生活との別れに逆に実感がわかなかった。
 もうさすがに慣れてきた夜の静寂とともに、今日もいつも通り走り込みと素振りをする。まだ冷たい空気を肌で感じながら、俺は御幸のいない隣を見て、卒業までこのままなんだろうな、と漠然と感じていた。9月から当たり障りのない関係を続けていたつもりだったが、所詮は壁越しのやりとりだ。目の前の分厚い壁をどうすることも出来ないからには、心が晴れることも、前のように御幸の顔を見ることも出来ないのはわかっていた。自分でも呆れるくらい御幸のことを考えているというのに、ぐるぐる考えるばかりで一向に踏み出さなかったツケがこの静けさなのかもしれない。俺はそんなことを考え始めていた。
 半年前の、忘れられないあの夜のことを思い出す。あの時、何故俺は御幸にキスをしてしまったのだろう。あの夜考えることを放棄した疑問が、今になって頭に浮かぶ。俺は、御幸をどうしたかったのか。どうなって欲しかったのか。どうして、何故、なんで。寮に帰る道すがら、考える。
 御幸が泣きそうな顔をした時、何を思った?御幸があまい声と、あまい瞳を、自分に向けているとわかった時、どうしたいと思った?
 俺は、御幸を────……

 パチリ。一つ瞬きをして、俺は自分の部屋のドアを開けかけた状態で固まった。今、何か、答えのようなものが、ほんの一瞬だけ、見えた気がしたのだ。

 そんな時だった。せっかく見えかけた何かをぶち壊すように、部屋に置いたままだったスマホが軽快な音楽を鳴らし始めた。
 何だかとんでもないデジャヴを感じながら、俺はタイミングを見計らったように音楽を鳴らし始めたスマホに眉を顰める。思考を邪魔されたからではない。まあそれも理由の一つではあるが、それよりもその着信音が示す電話の相手が、俺を掻き乱す件の男だったからだ。
 鳴り続けるその曲は、二年の頃、御幸が自身のヒッティングマーチをわざわざ俺のスマホに入れ、勝手に着信音に設定したものだった。俺の許可を得ずに勝手にスマホを弄りやがったアイツが、あの腹が立つ程綺麗な顔で「これが鳴ったら絶対に出ろよ」なんて悪戯っぽく笑っていたのが脳裏を過ぎる。結局寮暮らし、同じクラスというのと、携帯を使うことに積極的ではない御幸が相手だったこともあり、電話が来たのは数えられる程度だったのだが。よりにもよって何故このタイミングで鳴るのだろう。
 せっかく見えかけた答えはすでに引っ込んでいて、俺は思わず机の上に置かれたスマホを睨む。まだヒッティングマーチは鳴り続けていて、俺が出るまで止まるつもりがないように感じられた。ここで俺はようやく、そうだった、御幸一也という男はそういう奴だった、と思い出す。
 このままじゃ埒があかない。そう思った俺は盛大な溜め息を一つ吐いて、履いたままだった靴を乱雑に脱ぎ捨てる。その勢いのまま、スマホを掴み取って通話ボタンをタップした。

『……倉持?』

 少しのノイズの後に聞こえてきた声は、おずおずと確認するような色をしていて、そのことに思わず顔をしかめた。アイツらしくなく遠慮をしているような声色に、ざわりと心が騒ぎ始める。あの夜のようだと、頭の片隅でそう思った。御幸はといえば、俺の名前を呼んだきり黙り込んでいて、俺はどうしたもんかと視線を巡らせる。

「…この番号にかけて俺以外に誰が出るんだよ。お前、誰にかけたか確認してねーの?」

 仕方がなく、日中に御幸と話すような調子で返事を返した。沈黙が少々気まずかったのと、電話越しでもわかるくらいらしくない御幸の様子に、あの夜を思い出して少し怖くなったからだった。
 いつもの調子で言葉を返した俺に拍子抜けしたのか、少しびっくりしたような声で御幸が、え、いや、そういう訳じゃねーけど…などと言っているのが聞こえる。少し待てば、つーかそれ馬鹿にしてる?と昼間と同じ御幸の声が聞こえてきて、ちょっとほっとした。
 お前その辺無頓着だからな、と言えば、さすがに確認はするっつーの、といつもと同じテンポで返事が返ってきた。この調子なら話せそうだ。そう判断した俺は、珍しく御幸の方から電話をかけてきた理由を問う。

「で?何か用か」
『んー、別に、何か用があるってわけじゃないんだけど』

 落ち着いた御幸の声がスピーカーから聞こえてくる。わざわざいつもしない電話をかけてきてるのに特に用がないってなんだよ、と思いつつ、俺はこの時間に久しぶりに聞く御幸の声にぼんやりとよかった、などと感じていた。何せ6日、御幸と練習の時間に会っていなかったのだ。
 そう、端的に言ってしまえば、馬鹿な俺は油断していた。学習しない馬鹿とか、最悪すぎて笑えてくる。

『…本当に、あとちょっとで卒業なんだなって思ったら電話したくなった』

 御幸が口にした卒業、という言葉にギクリとした。一度は落ち着いたはずの胸騒ぎがひどくなっていくのを感じる。よかった、は即座に撤回しようと思った。やっぱり夜はろくなことがないらしい。
 卒業という言葉はあの夜のきっかけだった。御幸がわざわざ言葉にしたということは、つまりそういうことなのだろう。せっかくついさっき、一人で考え始めることが出来そうだったあの夜のことが他でもない御幸によって無理矢理引っ張り出される。
 どくどくと心臓が不穏な速さで脈打つ。まだ、そのことを御幸と話す覚悟なんて、俺にはまったく出来ていないというのに。願っても時間が止まるなんてことは起きなくて、俺はごくりと喉を鳴らした。

「……電話ってお前、まだ寮にいるんだから直接話に来いよ」
『電話がいいんですー。寒いから外出たくねぇし』

 必死になって絞り出した声で、直接、なんて思ってもいない馬鹿なことを返せば、御幸も御幸で間抜けなことを言ってくる。頭に浮かんだのは口を尖らせている御幸のアホっぽい姿で、さっきの言葉との温度差がひどくて思わず眉間を押さえた。うまく状況を整理ができてない頭が、まだ、もうちょっと待ってくれと訴えてくる。
 しかし現実というのは非情なもので、タイムリミットだとばかりに、せっかくいつもの調子で続いていた会話がそこでピタリと止まってしまった。

『……倉持、あのさ、』

 静かな、御幸の声が俺を呼ぶ。その先に何が待っているのかなんてわかりきっていて、俺は身を固くした。
 もう、今週末には卒業式が控えている。確かに俺達には時間がなかった。これは、俺が足踏みをしているうちに、御幸はもう決めてしまったということだ。ぐっと、スマホを持つ手に力が入る。

『覚えてねーかもしんねぇけど、9月の、罰ゲームでコンビニ行った時のことなんだけどさ』

 忘れるはず、ないだろ。
 御幸の前置きに舌打ちをしたくなる。そんなこと、御幸だってわかっているだろうに。なんで"きまり"を守っていたんだ、なんで二人きりになることを避けていたんだ。そんなの、あの夜が忘れられないから、ただそれだけだろう。
 暴れ回る心を抑えつけて、俺は唇を噛んだ。御幸の言葉を邪魔する権利など、自分にはないことをわかっていたからだ。
 次は、何だ。走った後みたいに跳ねる心臓とともに、スピーカーの向こうにいる御幸の表情も、考えも、何もわからないまま、俺はただ御幸を待つ。

『俺、嬉しかったよ』

 柔らかい声がそう言った。
 嬉しかった?何が?何を?
 御幸の言葉が、俺を絶句させる。

『倉持のこと、好きになれてよかった』
「…………は、」

 更なる爆弾を投下され、俺は今度こそ声を洩らした。掠れていて、震えている、何とも情けない声。
 だが、どうしたってそうなるだろう。今、この男は何と言った?本当に、この電話の向こうにいるのは御幸一也か?どうしても今聞こえてきた言葉が信じられなくて、頭の中どころか視界もぐるぐると回り出す。悪い夢でも見ているようだった。

『…じゃ、それ言いたかっただけだから。おやすみ』
「はっ?ちょ、待てよ、みゆ、」

 ブツリ。唐突に、これ以上話すことはないとばかりに通話が打ち切られた。混乱している俺が取り繕う暇もなく、言うだけ言って勝手にシャットダウンされた事実に、俺は呆然とする。通話が切れたスマホはすでにホーム画面に戻っていて、まるで何もなかったかのようだ。
 御幸は何て言った。あの夜のことを嬉しかったって、嬉しかったなんだ、何を指してる。咄嗟に頭に浮かんだのはキスのことで、そんなまさか、と俺は真っ黒になったスマホの画面に視線を落とした。
 好き、と。好きになれてよかったと、アイツは言っていた。なんで、ともう考え飽きた問いがまた浮上してくる。しかしそれに構うよりも俺は、もう終わったことのように言われた御幸の言葉に、勝手に打ち切られた会話に、ふつふつと怒りが湧いてきていた。
 なんで、なんて、そんなの本人に聞いてやればいい。俺は脱ぎ捨てたままだった靴を履き、部屋を飛び出した。行く先は、勿論隣の部屋だ。

「おい御幸!!」
「うわっ!?えっ、なに!?」

 ノックもせずに壊さんばかりの勢いで扉を開ければ、中にいた御幸と同室のノリが飛び上がった。ノリには悪いが今の俺にはそれを気遣う余裕がなくて、部屋に入って早々、先程まで電話の向こうにいた相手を探す。しかしぐるりと部屋を見回しても御幸の姿はどこにもなくて、じわりと焦りが滲むのを感じた。

「なんだ倉持か……びっくりするじゃん」
「…ッノリ!御幸は!?」
「えっ?御幸?御幸なら多分30分くらい前に出ていったきり見てないけど…?」

 不満そうに眉を寄せるノリに向かって御幸の居場所を問えば、返ってきた答えは頭の片隅で危惧していたものだった。あの野郎、こうなることをわかって手を打ってやがった。他の部屋、食堂、室内練習場、寮内を隅から隅まで見ても御幸はいなくて、思わず舌打ちをする。何が寒いから外に出たくねえだ、ふざけんな。
 グラウンドの方を探しに行こうと走り出す傍ら、掴んだままだったスマホの通話履歴から御幸を選択をする。ワンコール、ツーコール。わかってはいたことだが、いくら待っても出る様子のないそれに苛つきを隠せない。だが呼び出し音が続いているということは、御幸は携帯の電源を切っていないということだ。そこだけが僅かな希望だった。
 出ないことを確認しては切り、またかける。それを繰り返した。通話履歴が御幸で埋まっていく。これを見たアイツが、少しでも電話に出ることを考え始めればいい。そう思いながら走って御幸の姿を探した。

 グラウンドをスコアボードから用具倉庫、ブルペンまですべて見て回ったが、結果的に御幸を見つけることは出来なかった。寮の方にも、グラウンドにもいないとなれば、探せる場所は限られてくる。今は夜だ、学校はセキュリティ云々で入れる場所が限られているだろう。それを考えれば、あの御幸が安易にそちらに行くようには思えなかった。そうなると残されるのは必然的に学外で、俺は顔を顰める。
 外になると更に探しにくくなるのはわかりきっていて、俺は大きく息を吐いた。端から端まで走ったせいでさすがに息が切れている。それでも諦める気はなくて、学外に向かう道を睨みつけた。
 少し息を整える為に歩く。その間にもう一度、御幸に電話をかけた。これが繋がれば、少しくらいどこにいるかヒントが得られるはずだ。そう思って今までで一番長く待った。
 出ろ、御幸。出ないと一生根に持ってやるからな。
 そんな俺の怨念にも似た思いが天に通じたのか、ずっと呼び出し音のままだったスマホのスピーカーから、プツ、と何かに繋がる音が聞こえた。

『………………』
「切ったらコロス」

 何も言わないスピーカーに、我ながらどうかと思うくらいドスのきいた声を出した。それくらいに必死だったのだ。脅すだけ脅して、俺は電話の向こうにいるだろう男の反応を待つ。

『……………物騒だなぁ』

 沈黙の後、キィ、という耳障りの悪い金属音と共に、苦笑いを滲ませた御幸の声がスピーカーから聞こえてくる。御幸の声を聞いて、神様は多少は俺に味方してくれているようだと冗談抜きで思った。このチャンスを逃してたまるかと、俺は御幸に言葉を投げる。

「お前、今どこにいる」
『さぁ、どこでしょう』

 ああ言えばこう言う男はのらりくらりと返事を返してきた。真剣に聞いただけにその返しにひくりと口元が引き攣る。冷静になろうと思ったが、気が短い方である俺には難しかったらしい。この調子のまま問い詰めても御幸が答えることはないだろうということが直感でわかってしまっただけに、俺は苛つきを隠せなくなっていった。正直、切羽詰っているのだ。

「……だから、それを教えろっつってんだよ」
『なんで?倉持には関係ねぇじゃん』
「あ?ふざけんなよ御幸、てめぇいい加減に…」
『やだ』
「…はあ?」

 イライラしたまま言葉をぶつければ、スピーカーから駄々をこねる子どものような声が聞こえてきて、俺は苛立ちが一瞬どこかに吹っ飛んだのを感じた。御幸のことを大人っぽいなどと思ったことは一度としてないが、こんな子どもっぽい言い方をするような奴だとも思っていなかったから驚いた。恐らくアホ面を晒しているだろう俺は次に投げる言葉をすっかり忘れてしまって、その間にも電話の向こうにいる相手は言葉を繋げてくる。
 
『くらもちには、ぜったい、教えない』

 殊更ゆっくりと、噛み締めるように、それでもまだ駄々っ子のような色をのせた声がそう言ったかと思えば、またもやブツリと通話を打ち切られた。ハッとしても時すでに遅しで、スマホから御幸の声が聞こえてくることはない。本日二度目の通話があっけなく終わって、俺は一旦引っ込んだはずの苛つきが奥の方から怒りに変わってまた湧き上がってくるのを感じる。
 何度も何度も、勝手に、言いたいことだけ言いやがって。こっちの話を聞こうともしない御幸の態度に、俺は完全に頭にきていた。

「……絶ッ対、見つけてやるぞ…この、クソメガネ……!!」

 誰も聞いていないのをいいことに、地を這うような声で吐き捨てる。元より諦めるつもりなどなかったが、改めて絶対に御幸を見つけてやると決意した。ここからは完全に意地と意地の戦いだ。体力は引退後もキープ出来るようにしてきたつもりだ。何時間だって探してやる。もし逃げ出したら全速力で捕まえてやる。幸い足には自信がある。すぅ、と大きく息を吸って、俺は学外に飛び出した。


 学校の外となると、探す範囲はぐんと広がる。それでも俺達はまだ高校生で、いくら御幸がデカかろうと補導されてしまう可能性は十分にあるわけで。進学前の今、補導だとか外泊だとか、今後の野球生活に影響しそうなことをあの野球バカがするなんて考えられなかった。そもそも夏の活躍でメディア露出が多かった御幸は、恐らく世間に顔を知られている。駅前なんて人通りの多いところでふらふらしていたら、誰かしらに目撃されてしまうはずだ。
 そうなると、住宅街がある一帯が御幸のいる範囲となる可能性が高かった。住宅街となると道が入り組んでいたりするから見つけにくいだろうが、そんなこと今は関係ない。走るだけ走って御幸を見つけてやるつもりで俺は足を動かした。
 いつも買い出しに行く時に通る道を走る。左右の道に目を向けながら、御幸の姿を探した。9月のあの夜にも足を運んだコンビニにも入って、店内にいないか見て回る。普段なら目も向けない横道にも入って、アイツを探した。


 御幸の姿はまだ見えない。
 20分程御幸を探し回って、笑えるくらい必死な自分に、俺ははたと、何でこんなことになっているんだ、と走る速度をゆるめた。今更すぎるその気づきに、御幸の電話によって打ち切られた思考が、あの時一瞬見えた答えがジリジリと近づく気配がする。
 一回目の電話の時、御幸が言っていた言葉がもう一度聞こえてくる。嬉しかった、好きになれてよかった、アイツは確かにそう言った。言われた時はその言葉の意味を考えて飲み込むのに必死でそれどころではなかったが、冷静に考えると色々なものが見えてくる。馬鹿でもわかることだ。今は3月、俺と御幸の間に壁が出来てしまったあの夜は9月の下旬だった。御幸が先程吐き出したあの言葉は思いつきで言ったものではない、ずっと抱えていた言葉なのだということは、今考えれば容易に想像出来た。
 思えば9月のあの夜から俺は自分のことに必死で、御幸に対して『何故』をぶつけるばかりでアイツがどう考えているのかなんて少しも想像しようとしなかった。見ただけではわからないことも多くある。自分で相手の気持ちを、考えを想像することは相手に歩み寄る一歩なのだと、わかっていたつもりだったのに。見るだけではわからなかった御幸の心から俺は目を背けて、子どものようになんで、と拗ねることしかしてこなかった。"きまり"の距離は御幸をひどく遠くに感じさせて、俺は知らず知らずのうちに自分から御幸に背を向けていたのかもしれない。そこまで考えて、本当に救いようがない自分に舌打ちを一つした。
 御幸のあの言葉がいつから抱えていたものなのか俺にはわからないが、もし9月より前からだとしたら、あの夜は御幸にとってひどく残酷なものだっただろう。なにしろあの夜、最初に仕掛けたのは俺だった。あの夜、御幸は何を思っていたのか。翌日、どんな気持ちで俺に声をかけたのか。何故、"きまり"を作ったのか。俺がもし御幸の立場なら、きっと笑顔を作ることは出来なかっただろう。そう思い至って、俺は9月から見てきた御幸の表情を思い返した。
 普通、だった。少なくとも、俺が見ていたところでは。それでも御幸の告白をふまえて考えてみれば、それは決して無邪気なものではなかったはずだ。引退前は、もっと無防備なアイツの表情を見ていた気がする。壁は俺が思っていた以上に分厚いものだということを今になって知って、俺は歯を軋ませた。
 9月からの御幸を思い返して、最後に浮かんだのはあの夜の泣きそうな顔だった。今も御幸があんな顔をしているような気がして、心臓が鈍く音を立てる。
 御幸の泣き顔は見たくなかった。生意気そうな顔で、勝ち気に笑うアイツの方が、何倍もいい。恐らく今日俺から逃げ切ったらすべてをなかったことにして、俺から離れていくつもりだろう御幸に、焦燥感が増した。離れていく御幸の姿を想像して、思わず拳に力が入る。
 嫌だ。そんなの、絶対に許さねぇ。
 そうだ、俺は御幸が自分の手の届かない場所まで離れていくのが嫌なのだと、そこでやっと気づく。泣きたい気持ちを下手くそに隠して、不器用に笑うアイツを一人にしたくない。前のように、からかうように笑って、無邪気に俺を呼んで、それで。
 …………………それで?

『くらもち、』

 頭に響いたのはキスをする前に聞いたあの胸やけしそうなあまい声だった。出来れば、もう一度。あのあまい御幸を見ることが出来ればいい。そう思った。
 名前はまだわからない、ぼんやりとした気持ちに、真っ暗闇だった心の中に見えてきた答えに、パッと顔を上げる。
 御幸に、会わなければ。アイツとちゃんと話をしよう。不格好でも構わない。俺の、思っていることを伝えなければならない。

 しかし、そう思いはしても御幸のいる場所などいまだに検討もつかなくて、俺はガシガシと頭を掻いた。住宅街がある一帯、といっても当たり前だが広い。絶対に見つけてやる、と走っていたが、もっと範囲を絞ることが出来れば探しやすくなることは明白だった。俺は何か、御幸がいそうな場所のヒントがどこかになかったか、頭をフル回転させる。

「…………あ、」

 決して出来のいい訳ではない頭が、先程の通話で一番最初に聞こえてきた音に行き着く。あの時スピーカーから真っ先に聞こえてきたのは御幸の声ではない、錆びかかった金属が擦れ合うような、少し耳障りな音だった。どこか聞き覚えのあるようなそれに、思い出せ、と唸る。
 考えて考えて、ふと、キィ、というどこかぎこちなく鳴るその音に、自分がまだ幼かった頃の記憶が頭を過ぎった。
 ブランコ。
 そうだ、あの音は、ブランコをこいだ時に聞こえる音に似ている。この辺りでブランコがある場所といえば、学校の裏手の方にある公園くらいしか思いつかなくて、俺は弾かれたように走り出した。まだ正解かもわからないそれに、必死にしがみつく。
 ───御幸。
 御幸、みゆき。
 踏ん張って、ぐんっと走る速度を上げる。チーター様なめんなよ。諦めることを知らないバカな後輩投手のお墨付きだ。ぜったい、見つけてやる。
 まだ冷たい夜の空気に肺を締め付けられながら、俺は夜の住宅街をひたすらに駆けた。 



 駅のある方向から学校の裏手の方に行くのは少し距離があって、さすがに全速力で走っていれば息も切れる。それでも俺は走って走って、目的の公園を目先に捉えてから更に速度を上げてそこに飛び込んだ。入口に入ってすぐのところにある古びたブランコにそいつはぽつんと座っていて、思わずぐっと息が詰まる。
 こんなに、探させやがって。こんなに寒くて寂しいところに、一人でいやがって。
 公園にいたことにほっとしたのも束の間、じわじわと忘れかけていた怒りがまた奥の方から顔を出してくる。足を動かす速度はそのままに、わざと砂を蹴って御幸に近づいた。

「…っ…見つけたぞテメェ…」
「………倉持」

 息が切れていて格好つかなかったが、中学の頃ヤンチャしていた全盛期並みの低い声が出た。かくれんぼの後に鬼ごっこをするのはごめんで、御幸がこれ以上逃げたりしないように正面に立って睨みつける。しかし、俺の行動に反して御幸は特に逃げようとする素振りは見せず、緩慢な動きで首を傾けた。

「見つかっちゃったか」

 進行形で睨みつけているはずの男が、そのことに気づいていないかのようにへらりと笑った。特に驚いた様子のない御幸の目に、まったくもって似合わない諦めが滲んでいるのが見て取れて、俺は思わず舌打ちをする。あの夜みたいに不器用にそれを隠そうとしているこの男が、予想通り勝手に結論を出していることに気がついて苛立ちが募った。

「まさか本当に来るとは思ってなかったわ」
「…お前が勝手に喋って勝手に満足して勝手に電話切るからだろうがボケ」

 イライラしたまま吐き出せば、御幸は一瞬きょとんとした後にあー、と気の抜けた声を漏らす。コイツ、なんで俺がこんなところまで探しにきて、なんで怒ってるのかまったくわかってねぇな。自分もついさっきその理由に気づいた癖に、それを棚に上げてそう思った。まだ俺の思いを伝えていないのだから、そりゃあ御幸が理解出来ていないのも当然のことではあるのだが。変なところで聡いコイツが、俺がここにきた理由を考えることを放棄している気がしてならなかった。
 視線の先の御幸は、うーん、と困ったように小さく唸って、小さいベンチに似合わない大きな体を縮こませて視線を地面に落としている。

「…そんなに嫌だった?」

 ぽつりと御幸が呟いた。嫌だった?が何を、どれを指しているのかよくわからなくて、俺は御幸を見下ろしながら首を捻る。

「何がだよ」
「あの時のこと、掘り返されるの」

 御幸が9月のあの夜を指していることはすぐにわかった。確かに9月末から俺も、恐らく御幸も、あの夜のことを口に出すのを躊躇していたし、避けていた。あの時の話をするのが何よりも怖かったのは紛れもない事実だ。
 でも、それも今となっては過去の話だ。とっくに俺の中からそんな恐怖はなくなっていて、ここまで馬鹿みたいに走った理由も、全部ではないにしろそれなりに自分の中で決着はついている。
 それらは、御幸に伝えるべきことだった。しかし俺は、喉元まで出かかったそれを押し込めて、御幸の次の言葉を待つ。伝えるのは、コイツがどう思ってるかを聞いてからでも遅くない。

「俺さ」

 何も言わない俺に、御幸は静かに話し出す。その表情は俯いている為わからない。あの夜目を奪われた瞳も、長めの前髪に隠れていた。それを、ただ見つめる。静かな、色のない御幸の声に耳を傾ける。

「もうすぐ卒業だし、このまま微妙な感じで倉持と離れるのは嫌だったんだよ。だから、倉持だって嫌だろうけど、あの時のこと言ったんだぜ」

 もう俺の顔、見たくなくなっただろ?
 淡々と、まるで他人のことを話しているかのように御幸は語って、最後はそう締めた。その内容は俺からしたら心外でしかなくて、眉間に皺が寄るのがわかる。
 つまりなんだ、微妙な関係のまま離れるくらいなら、すっぱり嫌われて、なかったことにして離れた方がマシってことか。御幸の言い分からはそうとしか読み取れなくて、自分勝手なその言い分に整理していたはずの自分の言葉が吹っ飛んだのを感じた。

「……誰が嫌だっつったよ」
「え?」

 そう低く呟けば、御幸は怪訝そうな顔でこちらを向いた。さっきまで淡々と話していたはずの御幸の瞳には僅かな動揺がうかがえて、目を細める。
 吐き出した言葉に、嘘はない。
 ぶっちゃけ自分でもどうかと思うが、あの時のことを嫌だと思ったことは一度もなかったことに、俺は今、否定の言葉を吐き出してから気づいたのだ。なんでキスしてしまったんだ、と考えるばかりで嫌悪感とか、そういったものが頭から綺麗に抜け落ちていたことを他でもない御幸に気付かされて、思わず乾いた笑いがこぼれそうになる。
 しかし今は馬鹿な自分を笑うよりも先にすることがあった。とりあえず御幸の間違った認識を変える為に、どこかへ吹っ飛んでしまった言葉をかき集める。

「誰があん時のこと嫌だって言ったんだよ。俺がそう言ってるのを聞いたのか?どこで?言ってみろバカ御幸」

 もう一度、間違いなく伝わるように否定の言葉を口にすると、次に御幸はわかりやすく動揺を見せた。大きく目を見開いたかと思えば、意味もなく口を開閉する。冷たい夜の空間に、白くなった息が舞う。
 御幸は言葉を探すように少し視線を彷徨わせると、また何もない地面を見るように目を伏せた。

「……だって男と、…しかも俺と、キス、とか。嫌だろ、普通」

 所謂世の中の"普通"を口にした御幸に、それに俺が当てはまるとは限らねぇだろ、と思う。それを言おうと口を開けば、遮るように御幸がそれに、と言葉を続けた。何かに耐えるように伏せられた瞳が、こちらを見ることはない。大人しく御幸の言葉を待っていれば、ぐっと、ブランコの鎖を握る御幸の手に、力が篭るのがわかった。

「……それに、好き、とか。気持ち悪いじゃん」

 震える唇から吐き出されたそれは、きっと口にするつもりはなかった言葉なのだろう。それきり御幸は黙り込んで、俺達の間には冷たい沈黙が訪れた。御幸が口にしたその言葉の意味を今度こそしっかりと捉えた俺は、その重さを、滲んだ苦しさをまざまざと思い知らされる。
 御幸がここまで話すとは正直思っていなくて、少しばかり怖くなった。でも俺は、どんなにかっこ悪くても、どんなに言葉がめちゃくちゃでも、御幸に自分の思いを伝えるためにここまで走ってきたのだ。まだこの気持ちの名前がわからなくても、伝えられることはあるはずだ。ここに来る前に決めた覚悟と共に、ごくりと一度、喉を鳴らす。 

「御幸、俺は」
「……っ倉持はさ、」

 緊張しながらも踏み出したそれは、それまでの空気に似合わないどこか明るい声に遮られた。何事かと思えば先程まで伏せられていた御幸の顔がこちらに向けられていて、続けるつもりだった言葉を思わず飲み込む。見下ろした先にある顔に浮かんでいるのは見覚えのある掴めない雰囲気の笑みで、嫌なタイミングで四散した先程までの空気と御幸の表情に眉を顰める。これ、あれだ。何かを隠そうとしている、カオ。

「倉持は、優しいから。いいんだよ、そういうの。気ぃ使わなくても、俺大丈夫だし」
「……は?」

 ペラペラと喋る御幸は沈んだ、さっきまでの頼りなさなどなくて、幻を見ているかのような気持ちで数度瞬きをする。御幸が喋っている内容も、俺からすれば何言ってんだコイツ、のオンパレードで、上手く言葉が出てこなかった。短く音をこぼせば、大丈夫だし、と言い切った御幸はにこりと笑った。

 待て、ちょっと待てよ。また俺の話を聞かないつもりなのか、コイツは。

 そう理解した途端、ぶわりと焦りがぶり返した。今の御幸は、先程までの御幸ではない。このままだと上手いことかわされて会話が終わるのは目に見えていて、じわりと汗が滲む。

「てめ、ちょっと待てよ」
「だから、もういいんだって。そういう同情?優しさ?別にいらねぇから」
「違っ…御幸、聞け、」
「つーかさ、倉持先に帰っててよ。俺もうちょっとここにいたいし。大丈夫、ちゃんと帰るからさ」
「ッおい御幸、俺の話を…っ」

 こっちの話を聞く気のない御幸は、笑顔のまま、いいからと大丈夫を繰り返す。いくら言っても耳を傾ける様子のない御幸に焦って、ブランコの鎖を持つ御幸の手を上から掴んだ。9月以来、ずっと守っていた"きまり"を初めて破った瞬間だった。ガチャン、と鎖が音を立てる。その音を聞いて御幸の身体が強ばった、ように感じた。
 先程まで綺麗な弧を描いていた口元は少しずつ歪んで、それでも笑おうと口角を上げようとする御幸に心臓が音を立てる。あの夜に見たような、不器用な笑みだった。

「……頼むよ、倉持。今は、聞きたくない」

 俺の視線から逃れるように顔を背けた御幸は、はっきりと言った。
 それは紛れもない拒絶で、俺達の間にそびえ立つ壁の存在を俺に思い出させる。壁は高く、分厚い。きっとこの壁はどんなに叩いても壊れないし、どんなに叫んでも声が届かないくらいのものなのだろう。御幸の表情を見ると、どうしても、そう思えてしまう。
 しかし、そうわかっていても、諦めの気持ちをどこかに置いてきてしまった俺は壁に背を向けることができなくて。ぐっと、御幸の手を握る左手に力を込めた。ドキリとするぐらい冷たいその手に、走ったせいで熱くなった自分の体温を分けるように。

「御幸、」
「帰って、倉持」
「御幸、ちょっとは俺の話聞け!」
「……やだ」

 顔を背けたままの御幸を、真っ直ぐ見据える。こっちを見ろ、御幸。そんな思いを込めて言葉を紡げば、ここに来る前に電話越しに聞いた、あの子どものような声が聞こえてきた。視線の先で、御幸が唇を噛む。

「……やだよ、倉持、…帰って」

 弱く幼い、けれど確かに御幸の声。わかりやすく、泣きそうに震えるその声に、ぷつんと何かが切れる音がした。

「……ッ…!」

 ブランコに座ったままだった御幸の胸倉を掴んで、引き上げると同時に自分の身を屈めた。ぶつかる直前に少しばかり勢いを削いでそれを重ねる。冬の冷たさを残す空気に長いこと晒されていた唇はかさついていて、それでもぬるい体温を俺に伝えてくるのが心地よかった。
 パッと真正面を見れば、一向に俺の方を見ようとしなかった琥珀色が雫を湛えて俺を写しているのが見えて。その瞳に浮かぶのは動揺と、困惑と、少しばかりの怒りと、それから。泣きそうに歪められた瞳に、あの夜と同じあまい何かがどろりと滲んでいく。それに目を眇めて口づけを深くすれば、苦しそうに歪んでいた御幸の瞳が徐々に細められていくのがわかった。
 こじ開けた唇の奥にある舌が触れ合うと、御幸の琥珀はゆらゆらと揺れた。時折唇の隙間から溢れる声に煽られ、熱が燻る。いつの間にか御幸の左手は縋るように俺の上着を掴んでいて、それが堪らなく、……ああ、そうだ。たまらなく、愛おしい。
 そうか、これが。
 あの時見えかけた答えと、ここに来る前に気づいた気持ちに名前がついて、俺は御幸の胸倉を掴んでいた手から力を抜いた。するりとそのまま御幸の頬に手を滑らせれば、ピクリと御幸が震えて目を瞬かせる。あまやかすように唇を啄むと、御幸はまたその琥珀色を揺らめかせ、俺を見つめた。決して瞳を閉じようとしないことに目の前の男の性格が見え隠れしていて、笑いがこぼれそうになる。
 ああ、気づいてしまえばこんなにも簡単なことなのに。
 心を占めるその感情が、後から後から溢れてきて息が止まりそうだった。俺にとって何よりも難しかったこの答えに、コイツは先に気づいて口にしていたなんて。情けなくて、何より悔しすぎて、悪態を吐きたくなった。悔しさを隠すようにほんの少し目を伏せる。最初と同じ、また触れるだけのキスをして、俺はようやく御幸から離れた。

「………………」

 先程とは違う色の沈黙に、うまい具合に冷静になった頭でどうしたものか、と考える。キスをしたのはほぼ衝動と勢いで、その後のことなどまったくと言っていいほど考えていなかったのだ。行き当たりばったりで行動してばかりだな、などと思いながら手を離してからピクリとも動かない御幸のつむじを見下ろす。
 今、どんな顔をしているのだろう。
 一度そう思うと、好奇心というか、興味というか、とにかく御幸の様子が気になった。色々とぶちかました手前、ここで遠慮をする必要は今更どこにもなくて、俺は自分の感情に従うことに決める。またもや顔を俯かせている御幸の表情を伺うために俺は身を屈めた。
 ……屈めたのだが。
 覗き込んだ先、嫌悪や怒りが滲んだ顔でも、悲しみに歪んだ顔でもない、ポカンとした御幸の顔を見た俺は、まさかこんな表情をしているだなんて1ミリも思っていなかっただけに、御幸と同じように固まってしまった。

「…………くらもち、」

 俺が固まってから数秒後。御幸がふらふらとした頼りない声で俺を呼んだ。

「……なんだよ」
「…人生二度目のキスも好きな人に奪われるとか、俺明日死ぬのかな」
「はぁ?」

 呼びかけになんとか返事を返せば、間抜け面をした御幸がこれまた間抜けなことを言い出した。それにつられて俺も間抜けな声を出してしまう。
 いや、何言ってんだコイツ。だいぶ恥ずかしいこと言ってるけど大丈夫か?つーかこれ、二度目じゃねーし。あの夜、一体何回キスしたと思ってんだよ。
 そんなツッコミが頭を過ぎるも言葉にはならなくて、予想外すぎる御幸の反応に瞬きをすることしか出来ない。公園についた時には想像もしていなかった気の抜けた雰囲気に、今まで張り詰めていたものが完全に切れて、どっと疲れを感じる。何なんだよこれ。文句が言いたくても言えなくて、俺は御幸の目の前にしゃがみこんだ。
 完全に混乱しきっている御幸を見て、よくよく考えれば、いや、よく考えなくとも、さっきの俺は相当なことをやらかしてるな、と今更恥ずかしくなってきた。『だいぶ恥ずかしい』のは俺の方だ。あの夜は触れ合うだけのキスだったのに、今夜のはなんつーか、童貞にしては背伸びしすぎだと思う。突然のことだったし、その前までは言い合いをしていたのだ。そりゃ御幸もこの反応になるわ、とじわじわとせり上がってくる熱を誤魔化すようにがしがしと頭を掻く。

「死ぬわけねーだろ、ばか」

 恥ずかしすぎて若干拗ねたような声になったが、それでも御幸に言葉を放った。首の後ろに手をやったままチラリと御幸を見れば、御幸はいまだにポカンとした顔で、それでも今度はその目でしっかりと俺を捉えていた。

「そんなこと言ったら俺も死ぬことになるだろうが」
「…………え、」

 じんわりと汗が滲む手のひらを感じながらそう言えば、御幸は目を真ん丸にして再び固まった。きっと今、必死で俺の言葉の意味を処理しているのだろう御幸は、今まで見たことがないぐらい混乱していて少し面白い。

「えっ、ちょっと待って、……は?今倉持、何て?」
「だから、お前の理論でいくと俺も死ぬっつってんの」
「は…?……いやいやいや、え、マジで待って…」

 ついさっきまで石のように固まっていた御幸は、額に手をあて、待って、と繰り返し呟く。いつも飄々としている御幸のこの様子はなかなか見ていて楽しいものだったが、あまりにも言葉の消化が遅くて遠回しに言ったこちらが段々いたたまれなくなってきた。
 オイ、いつものよく回る頭はどこに置いてきたんだ。そんなことを思いながら少し落ち着いたはずの羞恥心がこちらに帰ってくるのを感じて、眉間に皺が寄る。非常に嬉しくない。

「それって、くらもち、その、え、え?つまり、どういうこと…?」

 もうお手上げらしい。顔が熱くなっていくのを感じながら御幸を待っていれば、俺の言葉を上手く飲み込めなかったらしい御幸が、泣きそうになりながらこちらを見つめてきた。あの夜と今日キスをする前に見た、何かを耐えているようなものではない、言うなれば素の状態で情けない、泣きそうな表情をする御幸に、先程名のついた感情が湧き上がる。
 ああ、もう、本当に、コイツは。

「俺もお前が、御幸一也が好きってことだよ!察しろ鈍感野郎!」

 赤くなっているだろう顔で半ば叫ぶように告げる。ああ、恥ずかしい。遠回しに言葉にする前にさっさと言ってしまえばよかった。恥ずかしさを隠すように口元を手で覆って、俺の言葉を上手く飲み込んでくれなかった御幸をじっとりと見れば、目の前の男はつい先程まで泣きそうだった瞳をぱちりぱちりと瞬かせた。呆然。その言葉がピッタリな様子の御幸に、やっと理解したか、と溜め息を一つ落とす。

「うそだろ……」
「何を根拠に言ってんだよ」 
「…や、だ、だって倉持、そんな素振りなかったじゃん」
「……当たり前だろ、さっき気づいたんだからよ」

 慌てて言葉を続ける御幸に、そりゃそうだ、と若干気まずい気持ちのまま肯定をする。そんな素振りなんか見せられるはずがない。きっともうあの夜にはコイツのことが好きだったはずなのに、俺がそれに気づいたのはほんの数分前、なんやかんやで半年ほどかかっているのだ。情けなさと気まずさから少し顔を逸らして横目に御幸の方を伺えば、またもや御幸はポカンとした顔を晒していた。

「は…?何それ、ばかなの…?」
「うるせぇ」

 円満な結果だったんだから問題ないだろうが。
 アホ面のまま、心底呆れました、といった声音で言葉を吐き出した御幸に、ぶっきらぼうに返事を投げ返して立ち上がる。疲れきった身体を労るように軽く伸びをしていれば、御幸が所在なさげに自分のジャージをいじっていた手をふらりと動かして俺の上着の裾を掴んだ。視線で何だ、と問えば、御幸の喉が上下したのが見て取れて、緊張してんな、と頭の片隅で思う。

「俺、倉持のこと好きでいていいの?」

 何を言うかと思えばこれだ。御幸は不安そうに瞳を揺らめかせていて、俺はこれから先の道のりが長そうだということを瞬時に察した。壁を取っ払ってもまだまだ油断は出来なさそうな目の前の男に小さく息を吐いて、一瞬空を仰ぐ。この反応の責任は俺にもある分、余計にまずいな、と下から俺を見上げる琥珀に視線を戻した。

「当然だろ。つーかこの流れだと、普通付き合うとかするんじゃねーの?」
「………つきあう? 」

 きょとんと、知らない異国の言葉を聞いたかのような反応を見せた御幸は、舌っ足らずに俺が口にした言葉を繰り返した。この言葉を口にするのに俺も相当な勇気を出していた分、御幸のこの反応にはドキドキする。勿論不穏な方でだ。まさかコイツ、ここまでやっといて付き合う気はないとか言わねーだろうな。

「……嫌なのかよ」

 口を尖らせて御幸の方を伺えば、レンズの向こうにある丸い瞳がこちらを見て。それからもう一度、つきあう…と小さく呟く声が聞こえてきた。そわそわとしながら御幸の反応を待っていれば、少しばかり考える素振りを見せていた御幸がパチリとこちらを捉えた。目と目が合った次の瞬間、御幸は丸い瞳をゆるりと細める。

「嫌じゃねぇよ」 

 うれしい。
 そう続けた御幸に、今度はこちらがポカンとしてしまう。きっと俺は今、今日一番間抜けな顔をしているのだろう。
 でも、しょうがねぇだろ。そんな、嬉しそうな顔。初めて見たんだから。
 しばらくの間呆気にとられて御幸の顔をまじまじと見ていたせいか、少し怪訝そうに御幸が俺を呼んだ。それにやっとハッとして、慌てて口を開く。

「じゃあ、決まりな」

 いや、なんかもっと言い方があるだろ、俺。
 不格好でもいいとは思っていたが、さすがにこれはない、と頭を抱えそうになるのをすんでのところでやめる。代わりにどこまでも格好のつかない自分に口元を歪めていれば、視界の端で御幸がしっかり頷いているのがわかって。それを見た途端現金な頭は即座にまあいいか、と妥協を始めた。それに、もしかしなくても俺は相当ちょろいんじゃないか、なんて考えが頭を掠める。
 でもそれも長くは続かなくて、寒さからか、控えめなくしゃみをした御幸に一気に現実に引き戻された。そういえば俺達は公園にいるままで、更にいえば御幸は俺以上に長く外にいるのだということに気づく。これ以上ここにいる理由はなくて、俺は改めて御幸に向き直った。

「御幸」
「……ん?」
「帰るぞ」

 わざとらしく咳払いを一つ。その後に左手を御幸に向かって差し出した。この手の意味をきちんと汲み取ってくれるか不安は勿論あったけど、引っ込める気にもなれなくて、ドクドクと脈打つ心臓と共に御幸を待った。

「…………うん」

 御幸が柔らかく笑って、差し出した俺の手にブランコの鎖に繋がれたままだった御幸のそれが重なった。きちんと意味をわかってくれたらしい冷たい右手を、離すまいと強く握る。
 引き上げるように腕を引けばやっと御幸が立ち上がって、ようやく止めていた足を踏み出した。恐らくここにいた時間はそんなに長いものではなかったはずだが、ひどく長いこと足を動かしていなかったような感覚で、どこか足取りがふわふわとした。

「くらもち」

 あまい声で御幸が俺を呼ぶ。振り返った先にはとろけるような笑顔を浮かべた御幸がほかの誰でもない、俺のことを見つめていて、そのことに心が締めつけられた。歩くスピードを落として隣に並べば、御幸はふにゃりとその表情を柔らかくする。あの夜見た御幸より何倍もあまい今の御幸に、くらりと眩暈がした。
 壁も、"きまり"もない距離感が、ひどく心地よくて、むず痒い。きっとこれからもこんな感覚が続くのだろうと思うと、ガキみたいに顔がゆるんだ。
 あの夜離してしまった御幸の手をしっかりと握って、寮への道をゆっくり歩む。空を見上げれば、すべての始まりだった9月のあの日と同じ、晴れた夜空が俺達を見つめていた。
 今日は、二度目の始まりの夜だ。

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