note

  ナイトスピーカー @


「くらもち、」

 少し舌っ足らずな、あまい声が俺を呼ぶ。
 琥珀色の瞳に目を奪われたあの夜が、これまで培ってきた関係をすべてぶち壊すのは簡単だった。




3年目の1月

 青道高校で過ごす三度目の夏を終えれば、季節はあっという間に冬になった。自主練や後輩の指導の為に時折グラウンドに顔を出してはいるし、体を動かしていない訳ではないが、やはり味気ない日々であるのは事実で、紛れもない本音だ。どこかぼんやりと過ごしていたら、自分を取り巻く空気はすっかり張り詰めた冷たいものになっていた。1月になり、センター試験は目前に迫っている。
 周りが忙しなくなる一方、野球部での功績を買われて大学の推薦を勝ち取った俺は、12月の半ばには受験生としての忙しさも緊張感も失っていた。大学でも野球が出来る───その喜びは大きいものだったが、周りの同輩たちを見ているとはしゃぐことも出来なくて、浮ついた気持ちを吐き出すようにバットを振った。

 夜、部屋を出て、軽くランニングをしてからバットを振る。そんな日課に御幸は加わったのは、12月ももうすぐ終わりという時期だった。
 一年の頃から同じクラスで一軍入りが他の奴らに比べて早かった俺と御幸は、何かとセット扱いされることが多かった。お互いに友達と呼べるものが少なかったせいもあるだろうそれは、二年の秋にそれぞれ主将と副主将になってから更に顕著なものとなった。部を引退した後、三年だけで割り振られた寮の部屋こそ別になったものの、そのセット扱いはいまだに消えない。御幸もうんざりしているだろうに何も言わないものだから、俺も段々めんどくさくなってセット扱いを黙認している。
 さて、そんな御幸も俺と同じく、いやむしろ俺よりも早く大学の推薦を貰っており、受験生らしくなく暇を持て余していたらしい。夏の活躍ぶりを考えて、てっきりプロに進むものだと思っていた御幸だが、ちゃっかり無利子の奨学金まで借りて大学に進学すると言うのだから驚きだ。
 初めて御幸の進路を聞いた時、俺が思わずこぼした何故、という言葉に、御幸は「まだ早いだろ」と、それだけを返してきた。ペンを走らせながら言う御幸の目は伏せられていて、何を考えその道を選んだのかをあえて言葉にしなかったのがえらく御幸らしいと思った。その無愛想な返事は俺の中にすとんと落ちてきて、そうか、と一言で返したのを覚えている。
 そんな御幸と練習をし始めるようになったのは、クリスマスを終えた次の夜だったと思う。二度とやりたくないと心の底から思っていた冬合宿を今年は手伝う立場になって、手伝うだけの合宿はそれはそれでどこか物足りなさを感じたりして。後輩達が屍になりつつある時間に、もうちょっと体を動かしとくか、と靴を履いた。それで外へ出てみたら丁度隣の部屋からガチャリとドアを開ける音が聞こえてきて、振り返ったらバットを持った御幸がいたというわけだ。
 あ、という間抜けな声が被って、お互いに固まったのは割と記憶に新しい。それからぼそぼそと「……よう」「これから?」「まあな」「俺も」なんて言葉を交わして、どちらかが言い出した訳でもないのに、連れ立って寮を出た。俺も御幸も進路が確定してしばらく経っていたし、お互いに個人練に励んでいたはずなのに、その時間が被ったのはその夜が初めてだった。

 その日からは今まで見かけなかったのが嘘のように、夜になる度に御幸と練習に出るようになった。やるメニューに多少違いはあれど練習時間自体は変わらないから、一緒に走りに出て、ストレッチをしたりバット振ったりして、最後は二人でどうでもいい話とか、野球の話をしながら寮に戻るというのがテンプレになるまでに時間はかからなかったように思う。
 正直、周りから見たら引退前と何が違うんだと言いたくなるような日課だと思うが、俺からすればあの頃とは180度違う時間を過ごしていた。そしてそれはおそらく御幸も同じだろう。その証拠に、俺と御幸の間には引退前にはなかった不自然な距離が空いているし、寒いことを言えば心と心の間には一年の4月、出会った頃よりめんどくさい分厚い壁がそびえ立っているように感じる。あの夜、目が合った瞬間に固まったのはそれのせいだ。分厚い壁は、9月の終わりから俺たちの間で動く兆しを見せない。


 きっと、部を引退して、今まで日常であったものが心からも身体からもすっぽ抜けて、頭がおかしくなっていたんだと思う。そうじゃなければ、『あれ』を説明することが出来ない。
 ───それで説明できないなんて、困る。



3年目の9月

 残暑も落ち着いた9月下旬。よく晴れていて星まで見えるくらいの夜だというのに、俺はといえば御幸と一緒にゲームに負けて、コンビニに買い出しに出ている真っ最中である。所謂、罰ゲームだ。
 何故普段ゲームで負けなしの俺がこんなことになっているかというと、今回勝負したゲームがトランプという何ともアナログなゲームだった為だ。運も大きく左右するこのゲームをやろうと言い出したのは二年の誰だったか。とにかく、久しぶりに引っ張り出してきたそのカードでのゲームは思いの外盛り上がりを見せ、最後は結構な人数でやっていたと記憶している。
 罰ゲームという言葉が飛び出したのは中盤、言い出したのは他でもない俺だった。その時すでにいくつかのゲームを終え、どれもそこそこの順位だった俺は簡単に言えば調子に乗っていたのだ。今俺は一時間ほど前の自分を猛烈に殴りたい。
 最下位と下から二番目の順位だった奴がコンビニに買い出し、というありきたりな内容の罰ゲームは、面白そうだとすんなり同輩たちに了承をもらえた。それからたまたま部屋に顔を出した御幸を無理矢理引き入れて再びスタートしたトランプは、わざわざ勝敗を記録するなどして、なかなか本格的な勝負になっていたと思う。たかがトランプ、されどトランプである。最後の大富豪を終えた頃には、部屋は妙な熱気に包まれていた。
 しかしそんな熱気とは対照に、ゲームを終えた俺は沈んだ空気を纏っていた。まさかこんなことになるなんて、罰ゲームを提案した時は予想だにしていなかったのだ。そんな俺の耳に容赦なく「集計終わったぞ」という白洲の声が入ってきて、思わず一つ溜め息を吐く。のろのろと順位を見てみれば、終盤これはやばいと若干顔を引き攣らせていた俺は当然の如く下から二番目の位置に収まっていて、ついでに言えばアナログデジタル問わずゲーム類が壊滅的な御幸が最下位だった。元々最下位要員として引き入れられた御幸だったが、こちらは本当に予想を裏切らない成果を見せてくれたらしい。本人もやっぱりな、という少しげんなりとした、諦めが八割滲んだ顔をしていた。

「っちゅーわけで、罰ゲームは御幸と倉持や!」

 いつも俺に負けているからか、妙に笑顔なゾノが高らかにそう言い放って、それがスタートの合図だったかのように色んな方向から買い出しのリクエストが飛んできた。プリン、紙パックのジュース、パン、ポテチ、コンビニのチキン、その他諸々以下省略。御幸と手分けしてちぎったノートの切れ端にメモをしてから、俺達は早くしろとばかりに部屋から追い出された。それが30分前の出来事である。

「あークソッ、重い!誰だよ2リットルのコーラとオレンジ2つずつ頼んだ奴!頼みすぎだろうが!」
「しょうがねぇよ、罰ゲームなんだからさぁ。大体言い出しっぺ倉持じゃん」
「あ?軽い方持って何言ってんだゲームオンチ。しょうがねぇならこっち持てよ」
「何言ってんの倉持……そんなの嫌に決まってんじゃん。寮まで頑張って、よーいちクン
「てっめぇ…」

 ガサゴソとコンビニの商品がいっぱいに詰め込まれたビニールをさげながら、二人で夜の道を歩く。コンビニを出て少し歩けば人通りもなくなって、住宅街は夜の静けさに包まれていた。御幸と何でもない言葉を投げ合いながら空を見上げれば月が爛々と輝いていて、あーそういやお月見の季節だな、なんて思う。
 団子食べてぇな、と花より団子ならぬ月より団子な考えを巡らせていれば、ふいに夜の闇で冷えた風が首を掠めていった。その冷たさに俺は思わずぶるりと身体を震わせる。ついこの間までは生温い、蒸し暑さしか感じない風しか運んでこなかったというのに、もうすっかり秋の色を濃くした夜は、ジャージ一枚を羽織っただけの身体には少し肌寒かった。それは御幸も一緒だったのか、さむ、と一言呟くのが横から聞こえてくる。

「大分秋っぽくなってきたな」
「あー…もうすぐ10月だしな」
「そりゃさみいわけだわ」
「早ぇなぁ……夏が終わって、もう1ヶ月経つのかよ」

 御幸の言葉を聞いて脳裏に浮かんだのは、夏の球場の記憶だった。真夏の刺すような日差し、バットにボールが当たる金属音、鳴り止まぬ歓声、ミットにボールが収まる感触、それを投げた時の鼓動と、それから。勝利を決めてキャッチャーマスクを外した御幸の、表情。もうあの時間は戻らないのだと、何故だか今更実感する。御幸もあの眩しい時間に思いを馳せているのか、どこかぼんやりと目の前を見つめている。夏が恋しい、なんて言ったら盛大に笑われそうだが、それ以外に言葉が思いつかなかった。我ながらきめぇな、なんて顔を歪ませていると、先程まで静かだった御幸が急に唸り出して、何事かとそちらに視線を投げる。

「あ゛〜〜…野球してぇ…」
「してるだろうが」
「ちげぇよ。個人練じゃなくて野球がしてぇの」
「……んなことわかってるっつの。わざと言わないようにしてたのに何で言うんだよお前」

 部を引退したほとんどの同輩が思っては飲み込んでいるだろう本音を、ぽろりと御幸が口にする。思わず舌打ちをしたのは俺も同じことを思っていて、それを言わないよう意識していたからだ。言葉の力は恐ろしい。一度言ってしまったらその気持ちはより強いものとなる。だから言葉にするのを避けていたというのに、それをいとも簡単に口に出す御幸はやはりどこまでいっても御幸だと、呆れと共に感心を覚える。
 曲がりなりにも受験生である俺らは、今まで野球を優先させていた時間を勉学に充てなければならない。勿論俺を含め、進学先でも野球を続けるつもりの奴はトレーニングを続けているが、代替わりした今、そうずかずかと後輩たちのいるグラウンドには入ってはいけないのが現状だ。引退試合がまだ控えているとはいえ、チームで、青道高校野球部という居心地の良いあの場所で野球が出来ないというのは、なかなかフラストレーションが溜まるものだった。去年の、一昨年の先輩たちの気持ちが今になってようやくわかる。

「……秋大も神宮もねーし、卒業まであっという間なんだろうな」

 思わずぽつりと、御幸につられたように言葉をこぼす。
 去年の今頃はまだ副主将になってから時間も経ってなく、部の最高学年としてどうしていくべきなのか模索していた。新チームの課題も沢山見えてきていたし、常に手探りで、毎日必死だった。
 卒業。口に出してからじわりと胸に謂れのない虚しさが広がる。青道に入学した時は、三年をひどく長いものに感じていたが、今振り返れば実にあっという間だった。亮さんたちを見送ったあの3月。それが今度は俺たちに迫っているという事実が、重くのしかかる。まだ9月だ、感慨に耽るのは早すぎると笑われるのを承知で、俺はもう一度卒業か、と呟いた。今こうしている時間も、後半年で失われてしまうのだと思うと、不思議なくらい、どうしようもなく寂しかった。
 そこでふと、先程まで言葉を交わしていた相手がいやに静かなことに気づいた。てっきりセンチメンタルになっている俺を馬鹿にしてくるものだと思っていただけに、その静けさに眉を顰める。隣を歩いている男の表情を伺う為に顔を横に向けたが、お目当ての人物は視界に入らなくて、不審に思って振り返る。

「…?おい、みゆ……」

 名前を最後まで呼ぶことは叶わなかった。振り返った先、少し後ろにいた御幸を見て、俺は文字通り固まってしまったからだ。
 錯覚だと言われたらそれまでだ。でも、それでも、俺には視線の先で立ち尽くしている御幸が、今にも泣き出しそうに見えた。
 強い意思を形にしたような大きな瞳は、泣くのを堪らえるように細められていて、いつだって不敵な、勝気な笑みを浮かべている口元は、歪んで上手く笑えていない。誤魔化すような笑みを浮かべているつもりなのかもしれないが、俺にはそうは見えなかった。

 なんで、そんな顔してんだよ。らしくねぇだろ。

 もう二年半も共に過ごしているというのに、御幸のこの表情は初めて見るものだった。だからだろうか。何か言いたいのに、声が枯れたみたいに、言いたいことが音にならない。水槽に入れられた魚のように、意味もなく口は開けたり閉じたりを繰り返すばかりで、そんな自分をどうにも歯痒く感じる。それでも俺は、御幸のその表情をどうにかしたかった。
 ただただ、頼むから泣くな、と、思った。お前が泣いたら、俺の中の何かが崩れる。
 その"何か"が何なのかまったく検討もつかないのに、本気でそう思った。口が使い物にならなくなっている代わりなのか、今まで俺を支えていた自慢の足が一歩、二歩と御幸に近づく。目の前まできて尚、泣きそうに歪められている御幸の顔を見て、どうしてだろう、ひどく胸が苦しくなった。
 泣くな、泣くなよ。御幸の瞳は決して、涙がこぼれ落ちそうなほど潤んでいるわけではないのに、頭はそればかりを繰り返す。泣き崩れそうなその顔をやめてほしくて、いつもの憎たらしい顔で笑ってほしくて、荷物もなく暇を持て余していた方の手で、御幸の空いている手を掴む。
 
「みゆき」

 ようやく音になったそれは、ひどく頼りのないものだった。掠れていて、小さくて、舌っ足らずで、それこそらしくないって、笑われるような。
 でも、御幸は笑わなかった。俺の手を振り払うこともしない。ただ、ゆっくりと目を伏せて、口角を少し持ち上げるようにして、笑おうとする。
 だからそれ、出来てねぇって。上手く笑えてねぇっつの。そう思うのに、俺はまた気持ちを上手く音に出来なくなって、ただ視線で御幸の一挙一動を追いかけるだけに終わる。思わず、御幸の手を掴んだ方の手に力が入った。それでも御幸は、目を伏せたままだ。
 どれくらいそうしていただろう。本当は思っているほど長い時間じゃなく、あっという間のものだったのかもしれない。それでも俺にとってはひどく長い静寂の後、ようやく御幸の口が動いた。

「……卒業、」

 グラウンドでの声量が嘘のように、小さい、小さい声が言う。さっき俺が呟いた言葉をひどく辛そうに言う御幸は、伏せていた目をやっとこちらに向けた。

「したくねーなぁ…」

 くしゃりと顔を歪めて言葉にされたそれは、先程の俺の声のようにひどく情けないものだった。歪な笑みのまま吐き出された、恐らく心の底から引っ張り出したのだろう御幸の本音に、俺の心臓は軋んだ音を立てる。
 一人で、勝手にそんな顔して、何を言うかと思えばそれかよ。コイツ、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど本当にばかなんだな。卒業、したくないって?そんなん、そんなのな、

「…俺もだよ、ボケ」

 ……当たり前だろうが。
 頼りなく背を丸めて、俯き気味になっているせいで自然と距離が近くなった御幸に、お前だけだと思ってんじゃねーぞ、という意味を込めてゴツ、と軽く額をぶつける。額と額を突き合わせた初めての距離で御幸の色素の薄い瞳を見つめて、あ、やっぱコイツ睫毛なげぇんだな、なんて場違いな考えが頭を掠めた。
 俺の返事に面食らったのか、御幸が視線の先で少し驚いたようにぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返す。けれどその瞳から涙が溢れる様子はなくて、よかった、とぼんやりと思った。へにゃりと目の前の表情から力が抜けるのを感じて、やっとぐらぐらと揺れていた心が凪ぐ。そこで俺はようやく安堵の息を吐き出した。

 そんな時だった。

「くらもち、」
 
 どろりとした、聞いたことのないあまい声が俺を呼んだ。一瞬誰の声だか判別できなくて、間を置いてからその声が御幸の声だと気づく。気づいた刹那、どくりと心臓が音を立てたのを俺は確かに聞いた。

 危険だ。
 それは直感だった。
 ついさっき、ようやく穏やかになったはずの頭が警鐘を鳴らし始める。せっかく先程回避したはずの"何か"が、俺の心の奥深くに、理不尽なほど近づいてきていることだけは辛うじてわかった。
 さっきの泣きそうな表情の比ではない。今の御幸は俺にとって完全に毒だ、危険な何かだ。俺は今すぐに、御幸から顔を遠ざけて、手を離して、いつもの通りのあの安全な距離に戻るべきだった。
 しかし愚かな俺は、らしくないこと続きで馬鹿になっていたらしい。気がつけば誰よりも速く駆けることが出来るはずの足は地面に縫い付けられていて、目の前の男から逃げる道はすでに絶たれたあとだった。長い睫毛が触れてしまいそうなほど近くにある御幸の瞳は、今まで見た事のない色を湛えていて、ぞわりと肌が粟立つ。

 欲しい、と。たべてしまいたいと、腹の底に住まう誰の声が聞こえる。

 そんな誰かの声にうるさい、黙れとどうしようもない苛つきと焦燥をぶつけていれば、それまでどこかぼんやりとしていた熱を灯した御幸の瞳が、目の前でご機嫌な猫のように細められたのが見て取れた。そのとろりと溶けだしそうなあまさを含んだ琥珀色の瞳は、他でもない俺を写していて。それに気付いてからは、もう、どうしようもなかった。
 くっと顔を傾けて、子どもの戯れのような勢いで、その動きに似つかわしくない欲をのせた唇をぶつける。押し付けてその柔らかさを認識した時に、ずっと掴んだままだった御幸の手がビクリと強ばったのがわかった。機嫌よく細められていた御幸の瞳は、今はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれている。どうすんだよ、これ。どこか冷静な自分がそう言った。
 驚いている御幸を見て、ほんの少しだけ残っていた理性が離れなければ、と訴える。さすがにこのままではいれないことは理解していて、俺は唇の心地いい感触を惜しみながらも御幸から離れようとした。

 過去形なのは、それが出来なかったからである。

「ん゛、……ッ!?」

 顔を引いて一瞬離れたはずの唇に、御幸のそれが押し付けられる。今度はこちらが目を見開く番だった。何が起こったのか、わかっているんだけどわからなくて、反射的に御幸の手を強く掴んでしまう。
 再び近づいた御幸の琥珀はぎゅう、と固く瞑られた瞼の後ろに隠れてしまっていて、その感情は伺えない。なんで、どうして、と混乱のまま思考が巡り出したが、視界に赤くなっている御幸の耳を捉えた瞬間、そんなことはどうでも良くなってしまった。
 疑問を放り出して、一瞬でも見逃してなるものかとばかりに目を開けたまま、押し付けられたままの御幸の唇をべろりと舐める。俺がそんなことをするとは微塵も思っていなかったのか、大げさに肩を震わせた御幸が恐る恐るといったように瞼を持ち上げた。 

 カチリ、と。視線が合う。

 俺の目を見た御幸が、また瞳を惚けさせるまでに時間はかからなくて、それがまた、どうしようもなくあまい色を乗せて俺を見ているものだからたまらなくなった。
 角度を変えて、数回、触れるだけのキスを繰り返す。途中、掴まえていた御幸の手がもぞもぞと動いて、一方通行だったそれがゆるく握り返された。どうしてそういうことするかな、コイツ。そう思ったものの、離してやることはどうにも出来なかった。

「ふ、…ッん……」

 最後に、それまでずっと開けたままだった目を閉じて、子どもみたいな押し付けるだけのキスをする。その感触を忘れないように、馬鹿みたいに、今までで一番長いキスだった。
 はぁ、と離れた御幸のそれから吐息がこぼれる。離れた唇の熱が冷めていくのと同時に、熱に浮かされていた頭も急激に冷えていくのを感じた。そこで熱に身を任せたままに出来るほど、俺は子どもではなかったらしい。指先から血の気が引くのを感じる。
 まじで、何やってんだ、俺。
 いや、俺、というか、俺ら。

「……………」

 何かを言わなければならなかったと思う。でも俺も御幸も、何も言えなかった。いつもはあんなに軽い調子でポンポンと言葉が出てくる癖に、こういう時は出てこないのだから自分の口も、御幸の口も本当に使えない。俺と御幸の間には重い沈黙が横たわっていた。

「……………」
「…………くらもち」

 先程まで夢中になって見ていた瞳を一向に見れないまま、何も無い地面を見つめていれば、御幸が掠れた声で俺を呼んだ。ガサリと右手に持ってたビニール袋が音を立てたが、俺は返事を返せない。
 何も言わない俺に、御幸がもう一度倉持、と俺の名をほとんど呟くように言うのが聞こえた。

「……倉持、帰ろう」

 帰ろう、という御幸の言葉が少し震えていたのは気のせいだろうか。しかしそれをどうにかする気力は今の俺には残っていなかった。
 繋がれたままだった手を、くい、と引かれて、それから俺より少しばかり大きい手がするりと離れていった。心地よい体温が離れていって、行き場を失ったようにぶら下げられた俺の手を、冷たい秋の風が嘲笑うように触れていく。このまま突っ立ってもいられなくて、たっぷり間を置いてから、ようやく俺は御幸よりも掠れた声で小さく返事を返した。


 それから俺と御幸は、寮まで一言も言葉を交さなかった。黙々と歩いて帰る中、俺の脳裏に浮かぶのは初めて見た御幸の表情と、何度も触れたあたたかい唇の感触ばかりで、馬鹿になった自分の頭に思わず舌打ちをしたくなる。それでも俺の一歩先をいつもより早いペースで歩く御幸のことを考えるとそんなことはできなくて、飲み込んだそれを誤魔化すように足を動かした。
 どうするんだよ、と本日二回目の冷静な声が聞こえる。どうすればいいのか、なんて、そんなの俺が一番聞きたい。
 冗談では済まされない雰囲気だった。それでも冗談として茶化すべきだったのだ。それなのに俺も御幸もそれをしなかった。……いや、しなかったのではない、出来なかったのだ。何故、という当然の問いには考えて答えるべきなのだろうが、そんなこと今は考えたくなかった。思考を放棄した頭は、ちらついている答えから目を逸らす。
 重苦しい静けさを纏ったまま寮に帰った俺は、買い出しの品物を通りかかったゾノに押し付けて、御幸を見ずに半ば逃げるように自室に戻った。心臓が、不穏に脈打つ。
 俺と御幸の間に、重く厚い壁が出来てしまった忘れられない夜だった。



3年目の2月

 1月が終わり、2月になっても俺の日課は変わらず御幸と一緒に行われていた。三年はもう自由登校になっているし、日中もそれなりにトレーニングに時間をさけるので、夜にわざわざ外に出る必要があるのかと言われれば正直微妙なところなのだが、日課になってしまったそれをやめるタイミングを見つけ損ねた俺は今日もクソ寒い中外に出ている。それは御幸も同じようで、俺が部屋を出たタイミングで寒さに震えながらもしっかり靴を履いて外に出てくるものだから、何だかんだ毎日連れ立って寮を出ているのが現状である。
 今日も微妙に空いた距離をそのままに、二人して歩き出す。中身のないくだらない話をするテンポは引退前のままで、よくもまあ俺も御幸もこんなに普通に話せるもんだなと呆れて、それも今更すぎたので表情に出すのをぐっと堪えた。冬の澄んだ夜空には星がいくつか輝いていて、あの夜もこんな晴れた空だったな、と忘れもしないあの日に記憶を巻き戻す。



 キスをしてしまったあの夜、自室に戻った俺はそれはもう今考えれば笑えるくらい動揺していた。御幸がいたからこそ最低限度隠せていたそれは、部屋に入った途端崩壊して、靴を脱ぐ時に足をもつれさせてドアノブに腕を強打し、床に置いたままだった買ったばかりの雑誌を蹴って表紙をぐちゃぐちゃにし、二段ベッドの上段に上がって布団に飛び込もうとしたらベッドの淵に脛をぶつけた。散々としか言いようがなくて、疲れ果てていた俺には脛の痛みに身悶えながらもそのまま布団に潜り込むという選択肢しか残ってなかった。
 御幸とのことは保留にされたままだったが、ややこしいとわかっていることを考えるほどの元気は残っていなくて、寝てしまおうと目を瞑った。しかし御幸とのキスが頭に浮かんでは消えるものだから一向に寝れなくて、余計に憔悴したのを覚えている。
 結局同室の白洲が戻ってきて寝ついた後もなかなか眠りにつくことが出来なくて、寝返りを繰り返し、ようやく得た短く浅い睡眠の後に俺は重い気持ちを抱えたまま食堂に向かった。寮暮らしはこういう時、相手を避けられないから厄介だ。
 しかし俺の予想に反して、食堂では奇跡的に御幸と遭遇しなかった。正直なところ、俺はこのことに心底ほっとしていた。三年は朝練がない為、食事の時間は時間内であれば基本的に自由だ。たまたま被らなかったのか、それとも御幸が意図的に避けたのかはわからなかったが、それでもその時の俺にはありがたかった。まだ、御幸とどういう顔をして話せばいいのかわからなかったのだ。

 一日くらい、間を空けて気持ちの整理をしたい。結局登校時間になるまで御幸に会わなかった俺は、そんなことを思っていた。学校でだって、クラスは一緒でも席は離れているのだから、俺が関わろうとしなければ顔を突き合わせる機会はぐっと減る。御幸は基本的に自分から人とコミュニケーションをとろうとしない。ましてやあんなことがあったあとだ。さすがの御幸だって、まさかいつも通り俺と関わろうなんて思ってはいないだろう。
 いける。
 今日一日、例え不自然でも俺の心の為に御幸との関わりを絶とう。下駄箱に到着する頃には、俺の考えは完全にそういう方向に決定されていた。

 しかし、そういうものをぶち壊すのが御幸一也という男なのだということを、その時の俺は失念していたのだ。

「なぁ倉持ー」
 
 自分の席について今日使う教科書やノートを確認している時だった。聞き覚えのありすぎる声が上から降ってきて、その声に俺は思わず真顔になってしまった。嘘だろ、と声に出さなかったことを褒められてもいいくらいの状況だったと思う。
 壊れかけているブリキのごとく、ぎこちない動きで顔を上げれば、予想に違わず御幸一也その人が立っていて、俺は朝考えていた計画が登校して10分と経たずに破綻したことを理解した。いや、声が掛かった時点でわかっていたことではあったが。
 何でこんなに自然に声掛けてこれるんだコイツ。
 夜のことは俺も御幸もどっちもどっちな出来事であり、厳密に言えば先に仕掛けた俺の方が罪が重いというのに、この時ばかりは被害者面をしたくなった。普段は絶対にそんなことしないくせに、人がいない目の前の席に座り「今日の英単テストなんだけどさ」なんて声を掛けてくる御幸のことが、今までで一番理解できなかった。
 意味わかんねぇ。なんでお前、そんな平然とした顔してんの。目の前でペラペラと英単語のテキストを捲る御幸はどこからどう見てもいつも通りで、普通すぎるその態度に少しぞっとした。脳裏に過ぎったのは去年の秋大の御幸だ。隠し事が上手いコイツが心底信用ならなくて、それと同時にあのキスを気にしているのが自分だけのように感じて無性に悔しかったのを今でも覚えている。
 怪訝そうな顔で俺を呼んで「どーした?」なんて言ってくる御幸にそんな気持ちを知られたくなくて、その時点で俺は御幸と今まで通りの会話を続けてやろうと腹をくくった。

 まだ心にわだかまりはあったものの、実際にやってみれば御幸に対して普通に、今までのように接することはそう難しいことではなかった。元々負けず嫌いな性格もあって、御幸なんぞに動揺を悟らせてたまるか、という気持ちが心を折らせなかった。俺はいつも通り御幸に話し掛け、御幸もそれにいつも通り返事をしてきた。会話のテンポも内容も何も変わらない。周りの同輩も、後輩も、俺達の変化には気づかなかっただろう。

 しかし、俺達の間には無言の内に出来た"きまり"あった。
 
 その"きまり"に、最初に気づいたのはあの夜の翌々日、相変わらずまるで何もなかったかのように俺に接してきていた御幸と、移動教室の為に連れ立って廊下を歩いている時だった。
 ふと、横を歩く御幸を見た時にあれ、と思ったのだ。キスをしたあの夜よりも隣を歩く御幸の顔を遠く感じて、思わず首を傾げた。最初は気のせいかと思ったが、それから注意して見ていればその距離はどこでだって空いていることに気づいて、そのことに少し心臓が跳ねたのを覚えている。
 他の奴らにはわからないだろう微妙な距離だ。それでも俺にとって不自然極まりなくて、決して触れ合わないように距離を保っている御幸に、あの夜のことを考えていたのは自分だけではないと知った。しかし気づいたところでその距離をどうこうしようなどという考えが頭に浮かぶことはなくて、むしろ俺は御幸のとったその距離を必ず守ろうと心に刻んだ。
 それは御幸を尊重したのではなく、ただ単純に俺が御幸に触れるのが怖かったからだ。俺は自分が御幸に触れて何をするかわからないことに、底冷えするような恐ろしさを感じたのである。
 "きまり"が目の前の壁を更に厚いものにしていることに少し気づきながらも、俺は御幸との距離を保つように意識して日々を過ごすこととなった。


 放置されたあのキスの意味と、目の前にそびえ立つ壁に手をつけられない俺を置いてけぼりにして日々は過ぎ去っている。気づけばもう2月に入っていたとか、正直笑えない。
 秋からの俺は、御幸と普通に会話はするけれど、"きまり"の通りに以前のようにふざけて蹴ったり、技をかけたりすることはなくなっていて、更に言えば御幸と二人きりになることも自然に避けるようになっていた。おそらくだがそれは御幸も同じで、お互いの部屋には行かないし、寮に限らず学校でも二人きりになりそうな場所からは足が遠のいた。
 お互いにあの夜の出来事を消すことも、忘れることもできないのをわかっているのに、それをどうにかしようとはせずに、中身のない言葉を交わすだけの不毛な日々を続けている。俺は、あの夜のことを言葉にするとあの時に顔を覗かせた"何か"が俺を飲み込むほどの化け物になりそうで、御幸との距離を少しばかりもどかしく感じながらもどうにも一歩を踏み出せないままでいた。

 俺がいる場所から数歩歩いた先を陣取ってバットを振る御幸をぼんやりと見る。何でこんなことになってんだ?と考えを巡らせたのは一度や二度ではなく、いい加減飽きてきたが、それでも俺は考えるのをやめられないでいた。だって、9月末から避けてきたはずのシチュエーションを年末からほぼ毎日続けているとか、どう考えたって正気じゃないだろ。

 冬になるまでの間、志望校の最終的な決定だったり、受験の準備だったりがあって何だかんだと忙しない日々を送った俺は、11月の頭あたりから御幸と過ごす時間が少し減っていた。御幸も御幸で進路のことや今後のことを決めるのに忙しかったようなので、距離と時間が空くのは至極当然と言えただろう。
 だから、油断していた。初めて夜の個人練の時間が被ったあの日、まさかこんなタイミングで御幸と二人きりになるとは思っていなかったのだ。
 初めて鉢合わせたあの時、昼間とは違うぎこちない会話をした後、どうして俺は御幸と連れ立って寮を出てしまったのだろう。かれこれ一ヶ月以上経った今も俺はその時の行動を理解出来ていない。慣れれば二人きりでも問題ないことはわかったが、あの時それぞれ別に寮を出てて練習していれば、御幸と夜に二人きりなどというずっと避けてきた危険なミッションに挑む必要もなかったのだ。
 しかも一回きりかと思っていたら、それから毎日その時間になると御幸と鉢合わせるようになったのだから正直たまったものではなかった。俺が時間をずらせばすべて解決することではあったが、食事を終えて少し経ったあの時間が個人的にはベストで、それを御幸を理由に変えるのが何だか嫌だった。御幸も御幸で時間をずらす様子がなかったし、もうしょうがないことではあったんだろう。
 それでも、すっぱりと割り切ることの出来ない俺は思わずにはいられなかった。なんで、と。
 御幸は気まずくないのだろうか。御幸だって俺と二人きりになるのは避けていたはずだし、そもそも"きまり"を始めたのはアイツだ。わざわざ面倒ごとに飛び込んでると言っても過言ではない夜のこの時間に、何故御幸は毎日律儀に付き合っているのだろうか。別に、走り込みのコースだって俺が走っているコースだけなわけじゃない。確かに引退前はよく御幸と走っていたコースではあったが、必ずしもそうでなければならないルールなどないのだ。だから、わざわざ俺の少し後ろを走る必要なんてないのに。御幸、お前、何考えてんだよ。
 言いたいことは沢山あるのに、俺はそれをごくりと飲み込んで腹の奥に沈めることしか出来ない。自分のせいでもあるそれが、どうしようもなく歯痒かった。

「倉持へばるの早くね?」

 バットを振らずに所謂ヤンキー座りでいた俺の視線に気づいたのか、御幸がバットを振る手を止めからかうような笑みをこちらに向ける。どれもこれも、引退前のまま、あの夜まで普通に見てきたはずの御幸だ。なのに違和感が拭えない。"きまり"の距離分離れている御幸は何を考えているのかまったく読めなくて、心の靄は一向に消えてくれなかった。
 はぁー、とわざとらしく溜め息を吐いて、頭を掻く。何かもう、秋からの疲れがどったきたみたいだ。今日は全然練習に集中出来てないし、これじゃあ意味がない。

「倉持?なに、具合悪ぃの?」
「………ちげぇよ」

 俺の様子を見た御幸が珍しく気遣わしげにこちらに寄ってくるのを立ち上がることでやんわりと制する。ぐぅっと伸びをして、自分のごちゃごちゃとした頭の中を少し落ち着かせる為に息を吸った。冬の冷たい空気が肺を満たしていく。

「集中出来ねーし、帰る」

 このまま闇雲に身体を動かしても無意味だと言外に滲ませれば、御幸もそれを正確に読み取ったらしい。ふーんと興味なさげに返事を返したと思えば、少し考えるそぶりを見せた。

「…じゃあ、俺も切り上げるわ」

 へらりと笑ってそう言う御幸は、本当に何を考えているのだろう。
 だから別に、お前は俺と一緒に戻る必要ないだろ。また口に出来ない言葉を溜め息に変えて、勝手にしろとばかりに俺は寮へと足を向ける。
 後ろから追いかけてくる足音が聞こえる。あの夜なんとなしに口に出した卒業が、もうすぐ近くまで迫ってきていた。



prev next

[back]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -