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  ばかじゃねぇの


※リーマン倉持とプロ御幸


 お前の会社の新商品のCMに出ることになった。
 そーいえば、と何でもないことのようにそう言われた時、思わず顔を歪めたのはどう考えても不可抗力だったと思う。 
 1ヶ月ぶりに重なった休日の夜。向かい合って食事をする中で唐突に落とされた爆弾に、俺は口に運ぶはずだった大好物である御幸特製のハンバーグを箸から取り落とした。皿に着地した一口大のハンバーグを見て、御幸が「落とすなよ」なんて言っているが、俺からしたらいやお前のせいだろうがって感じだ。

「今度打ち合わせでお前の会社行くから」

 いつも通りのトーンでそう言ってもぐもぐと白米を咀嚼する御幸を見ながら、俺は先程御幸が言った言葉をいまだに混乱している頭で整理する。
 御幸が、CM。俺の会社の、新商品の。そんでもって、会社にくる。打ち合わせで。

「…………まじで?」
「まじで」

 何とか捻り出した言葉を、御幸はあっさりと肯定する。御幸がプロになって、俺がサラリーマンになって早数年。そんなこともあるんだな、とどこか他人事で感心してしまったのは、なんてことのない顔をして目の前で黙々と食事を続ける御幸のせいだ。
 御幸がCMに出る、ねぇ。皿に落としてしまったハンバーグを再度口に運びながら御幸をまじまじと見る。まさか試合以外でテレビに映る御幸を見ることになるなんて。今更ながら目の前で夕飯を食べるコイツが有名プロ野球選手なのだと実感した。御幸は顔がいいし、ここ最近は調子が良くて、チームの次期正捕手なんて言われてだいぶ話題になっている。そりゃあメディア露出も増えるよな。まさか自分が勤めている会社のCMに出るとは思ってもいなかったが。
 御幸はメディアに出ることがあまり得意ではないらしいし、俺も難しいだろうけど嫌なら極力避けとけ、なんて言っていたのだけれど、自分の勤めている会社のCMとなればまあそんなに悪い気はしない。

「いつくんの」
「えーっと…来月の5日」
「まだまだ先じゃねぇか」
「だってオファー受けて、返事返したの昨日だもん」

 だから、最速情報な。
 そう言ってイタズラっぽく笑う御幸に、思わずこちらもにやりと笑う。情報漏洩してんじゃねーぞ、と軽口を叩けば、聞いた時点で同罪だと返ってきた。この野郎。

「まーでも、会えはしないだろうな」

 ハンバーグをもう一口口に運びつつにそう言えば、御幸はきょとんとした顔でこちらを見つめる。

「そうなの?」
「当たり前だろうが。広報部でもねえ営業の平社員がプロ野球選手サマに社内で会えるかよ」

 まさか本気で会えると思っていたわけではないだろうが、俺の言葉を聞いてそれもそうだなーなんて返す御幸は心なしかしょんぼりしていて、残念そうに見える。あまり隠すつもりのないらしいその様子に、そんなに俺に会いてぇのかよ、と茶化すことは出来なかった。ここ数年、御幸は俺に対するガードが弱くなってきているから、ぽろりとそうだよなんて返ってきそうだ。そうなったらダメージをくらうのは他でもないこの俺だ。変にからかうのはやめておこう。
 そんなことを思っていたら、御幸はあ、と何かを思い出した様子で顔を上げた。

「一応社内見学もするんだけど」
「へーそんなこともすんの?」
「まあな。CM出るんだし、どんな会社なのか見とこうかなって」
「真面目だな御幸選手は。好感度だだ上がりじゃねーの」

 そう言ってヒャハ、と笑えば御幸は僅かに眉間に皺を寄せて、そうか?なんて言っている。そういうところが、好きだと思う。まあ口には出さねーけど。
 しかしコイツが社内見学か、絶対大騒ぎになるだろうな。主に女子が。この前、社員食堂で御幸のニュースを見て盛り上がっていた女子社員たちの横で昼飯を食べて、密かにげっそりしたのを思い出す。またげっそりすることになるんだろうか、なんて思っていた俺は、ふと来月のスケジュールを思い浮かべた。

「あ、俺その日外出てるわ」
「え、まじで」
「おう。先方との約束取り付けたんだよ」
「あー…じゃあこっそり仕事してる倉持見るのも無理かー」

 さらっとそうのたまった御幸に、俺はもぐもぐと動かしていた口をぴたりと止めた。さっきまでハンバーグの味一色だった口内に、じわじわと血の味が滲んでくる。それもこれも、御幸の思わぬ発言に頬の内側を思いっきり噛んでしまったせいだ。
 今日の夕飯はハンバーグだと言うのに落としたり食ってる途中で噛んだり散々で、俺はその元凶である御幸を恨めしげに睨む。

「くそ、てめぇ、ふざけんな」
「は?なに急に」

 急に罵倒されて訳が分からないと不服そうな顔をした御幸は、眉間の皺をそのままに付け合せの人参を口に放り込んだ。俺のこの態度が理解できないとでも言いたげなその様子に、俺は小さく溜め息を吐く。
 からかわれる方がまだマシだ。お前、年々俺に対して馬鹿になってねぇか。
 喉元まで出かかったそんな言葉を飲み込んで、俺は大人しくコンソメスープに手を伸ばした。




 そんなやりとりをしたのが約三週間前のことだ。今日がその打ち合わせの日。今日はゆっくり家を出るらしい御幸に見送られて、俺のサラリーマンとしての一日がスタートした。
 ぎゅうぎゅうの電車に揺られながらそういや御幸に何時から打ち合わせなのかは聞いていなかったな、と思い至る。きちんと段取りはされているのだろうし、御幸もいい大人なのだから、別に俺がそんなことまで聞く必要はないのだが。今日の夕飯を作れるのかどうかぐらい聞いておけばよかったな、なんて思う。
 ま、後で連絡すりゃいいことか。ぼんやりと考えを巡らせていたら車内アナウンスが会社の最寄り駅の名前を告げて、俺はそこから一気に現実へと引き戻されたのだった。



 予定通り約束をしていた取引先に同じ部署の後輩と出向いて、何とか上司へのいい報告を得ることができた俺は、上機嫌で会社に戻った。就職当時は営業なんて俺には向いてねぇ、と落ち込むことも多々あったが、数年経った今は後輩のフォローまでしているのだから人っていうのはわからない。まだまだな部分は多いし、取引先に出向くのはいまだに緊張するのだが、今日も何とか無事に外回りを終えることができた。結果が得られればすべて良しである。
 あーやっと肩の力抜けた。そんなことを思いながら社内を歩く。今日一緒に外に出ていた後輩と今日の先方は話が長かったな、なんて話していれば、ふいにフロアがざわついていることに気づいた。
 何かあったのだろうか。後輩と顔を見合わせてそのざわつきの中心へ向かうと、そこには見慣れた男が一人。視線が集まっているのもその男。どう見たってざわついている原因はそいつで、俺は思わず声を漏らした。

「まじかよ…」

 その声にげんなりとしたものが滲んでしまったのは、その男が如何に影響力のある人物か知っていたからだ。今日来ることは知っていたが、会うことはないとタカをくくっていただけにその衝撃はでかい。フロアにいる社員の視線を一身に受けているのにも関わらず、平然とした顔で案内役の説明に耳を傾けているその男、もとい御幸一也は、どうやら前に言っていた社内見学の真っ最中らしかった。
 どうして俺が戻ってきたこのタイミングで、丁度ここに来てるんだ、コイツは。
 思わず眉間に手をやり、はぁー…と重い溜め息を吐き出せば、少し離れた場所で説明を受けていた御幸がこちらに気づいたようで、ちらりと視線を寄越してきた。おい、こっち見てんじゃねぇ説明を聞け。言えない文句を視線で返していれば、後ろから少し控えめに声をかけられ、意識が逸れる。

「倉持先輩?どうしたんですか?」

 ひょこっと後ろから顔を覗き込んできた彼女は、今日一緒に取引先へ出向いた俺の3つ下の後輩だ。俺が止まってしまったのを不審に思って声を掛けてきたらしい彼女は、ちょいちょいっと俺のスーツの袖口を引っ張った。その仕草を見て、俺はあーわかるわかる、男はそういうのに弱いよなーなんて、ちょっと苦笑する。自惚れるなと言われればそれまでだが、彼女はどうも俺に好意っぽいものを抱いているらしく、時折こんな可愛い仕草を見せてくれる。男としては嬉しいものなのだろうし、俺も可愛らしいなぐらいは思うが、残念なことにときめきを運んではきてくれない。不本意ながら色恋沙汰で俺を動揺させるのは、高校の時からアイツだけなのだと痛感する。
 そのアイツ、こと御幸の方にもう一度視線を投げれば、それに気づいた彼女も俺にならうように視線を移動させた。

「えっ?あっ!御幸選手?」

 すごーい初めて生で見たー!そうはしゃぐ彼女だが、御幸に視線を向けたのはほんの僅かな時間で、すぐに俺の方に笑みを向けて「先輩、御幸選手好きでしたよね」なんて言ってくる。大勢いた飲み会でちらっとこぼしただけだと言うのによく覚えているな。そう関心しつつ、「あーまぁな」なんて返事を返す。
 正直、数メートル先に御幸がいるこの空間で俺がプロ野球選手の中で御幸のことが好きだと言っていた、という旨を口にされるのは微妙なのだが、彼女に悪気はないだけに無碍にはできない。そう、先程よりも御幸に社内の説明をしている案内役の声が近くでしているとしても、露骨に口元を引き攣らせるわけにはいかないのだ。頼むから、御幸には聞こえてるなよ、今の会話。小っ恥ずかしいにも程がある。
 先輩、本当に野球好きですよね、会社のチームにも入ってるんでしたっけ。あ、そうだ!今度、試合観に行ってもいいですか?
 そんな後輩の言葉に頷きつつも、視界の端でこちらに向かって歩いてきている御幸に意識が持っていかれる。ちらりと御幸の方を見れば、ヒーローインタビューの時に浮かべているような爽やかな笑顔。その顔を見て、あー猫かぶってる顔だなあれ、と思う。相変わらず外面がいい。いや、まあプロ野球選手なんだし、注目される立場にいるのだから外面がいいのは悪いことではないんだろうけど。でもやっぱり、野球をしている時の顔や、家で見せる顔の方がしっくりくる。
 うん、よし。今日家に帰ったらアイツの緩みきった顔を存分に見てやろう。
 そんなことを考えていたら、すっかり後輩の話を右から左に聞き流していたらしい。ぐいっと腕を引っ張られて、驚く間もないまま俺の思考は途切れた。腕の方を見れば、後輩が少しむっとした様子でこちらを見上げていて、あーやってしまった、と俺は気まずげに頬を掻く。全部御幸のせいだ、と責任転嫁してやりたいところだが、そんなこと出来るはずもなく。

「もー、先輩聞いてます!?」
「あー…ごめん」

 絶対申し訳ないって思ってないでしょ!そう怒る後輩に苦笑しながらもう一度謝罪を述べて、何気なく。本当に何気なく、俺は彼女の頭を撫でてしまった。それはもう、完全に癖だった。撫でてからいつも御幸にやるようにしてしまったことに気づいて、やべ、と焦るが時すでに遅し。子ども扱いをされたと、更に怒らせたのではないかと内心冷や汗をかきながら彼女の方を伺う。
 しかし、そんな心配をしていた俺の心とは裏腹に、もう、と拗ねたように呟く彼女の頬は心なしか赤く染まっていた。それを見た俺は、別の意味であ、しまった、と表情を固くする。それでももう今となっては後の祭りで、俺には彼女の頭に置いていた手をぎこちなく下ろすのが精一杯だった。
 応えてやれないのがわかりきってるのに、軽率な行動をするからいけないんだよ、お前は。
 いつしか高校の頃から尊敬してやまない先輩に言われた言葉を思い出して、一人で得体の知れない寒気に背を震わせる。こういうことか、と理解できるようになったのは最近で、でもまだまだ意識しきれてない自分に呆れて、思わずがしがしと頭を掻いた。
 そんな時だ。いつの間にか目の前にまで来ていた御幸と、ばちりと目が合ってしまった。今、御幸はプロ野球選手としてCMの打ち合わせにこの会社にきていて、社内見学の真っ最中で。俺はそんな会社に勤める一会社員。この社内で俺と御幸を繋ぐ接点は何もないのだから、知らないふりをするのが道理だと言うのに。そんなことはわかっているのに、俺は何故だか御幸から目を逸らすことができなくて、密かに焦る。
 馬鹿か俺は。蜂蜜色の瞳に視線を絡め取られたまま、自分自身を罵倒する。今は昼間、社内、仕事中。なんで俺は、御幸を見てるんだ。つーか、なんで御幸も目を逸らさない。何考えてんだテメェ。目逸らせよアホ。
 自分のことを棚に上げて、そんなことを思っていた時だった。すれ違うその刹那、事は起こった。

「…くらもち」
「………え、」

 それが耳に届いた時、聞き間違いだと思った。
 それは紛れもなく御幸の声だったのだけれど、そんな声、家で、しかも所謂恋人同士の戯れだとか、そういうあれこれをした後にどろどろになった御幸が出すようなもので。まさかそんな声をこんな真昼間の社内で聞くだなんて誰が思う。仕事中に御幸に会っておかしくなった俺の残念な脳みそが、幻聴でも起こしたのかと疑う方が自然だろう。
 しかし幸か不幸か、そんな御幸の声を聞きすぎている優秀な俺の耳が、その声は現実だと伝える。ほぼ反射的に振り返ったこの身体がいい証拠だ。
 言いようのない驚きに目をかっぴらいたまま振り向いた先には、にっこりと、俺から言わせれば胡散臭い笑みを浮かべた御幸がこちらを見て立っていて。俺は目だけでなく、口もあんぐりと開ける羽目になる。

「倉持、こんなところで会うなんて偶然だな」
「はっ?……ちょ、」

 待て。最後は言葉にならなかった。
 今まで御幸のことを見ていた社員たちのざわつきが一層大きくなったのを肌で感じる。え、何、どういうこと?そんな囁きがそこかしこから聞こえてくるが、そんなの俺が聞きたい。オイ、どういうことだこれ。
 プロ野球選手とサラリーマン。どう考えても不自然な組み合わせなのは重々承知で、だから社内で会っても他人の振りを貫き通すのは、暗黙の了解というやつだと思っていた。確かにさっきは互いに目を逸らさないというミスが発生していたが、それとこれとは話が別だ。レベルが違いすぎる。まさか声を掛けられるなどという特大イベントが起こるなんて微塵も思っていなかった俺は、全力でパニックになっていた。マジでどういうつもりだ、許さねぇぞこのバカ。
 それでも自分の中のいやに冷静な部分がその動揺を表面に出すのは得策ではないと訴えていて、俺はなんとか混乱を押し込めて、さも何でもありませんよ、という風に、そして御幸にだけわかるように非難を込めて目の前の胡散臭い笑みを見据えた。

「……偶然も何もねぇよ。今日お前が来ることは知ってたし」
「でも今日は外に出るって言ってたじゃん。こんなタイミングで会うなんて偶然しかねーだろ」
「あー…まぁ、それもそうだな」

 笑顔でぺらぺらと喋る御幸は、傍から見たらたまたま知り合いを見つけて親しげに話しかけている、という風にでも見えているのだろうか。はぁ、と諦めるように溜め息を一つ落として、俺も御幸に付き合って友人にするように会話を返す。にこにこと笑う御幸を見ているうちに頭も冷えてきて、その不自然な笑みに心がもやつく。
 コイツ、なんか余計なこと考えてんな。本心を隠すように貼り付けた笑みに、そんなもんで俺に隠せた試しがあったかよ、と心の中で吐き捨てる。

「今日はもう外回り終わったわけ?」
「今日のはな。後はデスクワーク」

 当たり障りのない会話。しかし俺の脳は、コイツが何を考えてこんなことをしているのか、それを探るのにフル回転している。俺も御幸もいい大人だ。ましてや御幸は有名人というやつで。悪ふざけや気まぐれなんかでこんなことをするはずがない。何のつもりだ?何を考えて、何をその笑顔の後ろに隠してる。飽きもせず爽やかな笑みを向けてくる御幸に、俺は段々とイライラしてきていた。元来、気は長い方じゃない。
 そんな時だ。俺のイライラを見越したかのようなタイミングで、御幸がとんでもねぇことを言い出した。

「ってことは夕飯いるよな?帰るの何時?」

 は?何言ってんだコイツ。
 そんな思いが態度と表情に出てしまったのだろう。今まで御幸の斜め後ろでおろおろと俺と御幸のやりとりを見ていた社内の案内役が、明らかに引き攣った表情を浮かべて固まった。恐らく沢村がこの場にいたら、何というヤンキー顔!怖いですよもっち先輩!などと騒ぎそうな顔をしているんだろう、俺は。いやしかしどう考えてもそれは仕方のないことだ。今の御幸の発言は、何をどう優しく考えたって軽率な発言だった。ここをどこだと思ってやがる。
 一般企業の社内、周りには社員がいる。今の声の大きさだと、近くにいる奴らにはばっちり内容が聞こえていただろう。夕飯いる?何時に帰る?目の前にいる有名人から飛び出したそんな言葉を勘繰らない奴はいない。男である俺に対する言葉だとしてもだ。そこから恋人云々だとか、そんな突拍子もない真実に辿り着く人間はそうそういないだろうが、用心するのに越したことはない。今どきのマスコミは怖いのだから。
 元々出来のいいわけじゃない頭で、どうにか自然に思える上手い返しを、なんて考えていた俺は、ふと、御幸の方に視線をやった。
 そして、その瞳にぎくりとする。
 あれ、なんかコイツ、怒ってる?いや、これは怒ってるっつーか、……………あ。

「……8時には。夕飯よろしく」

 御幸の目を見て、すとんときてしまった俺は、漏れでそうになる溜め息を何とか堪えて、小さく、御幸に返事を返した。その声がどういう響きを持っていたかなんて、気にする気力はもうない。折れてしまった時点で俺の負けだ。俺も大概コイツに甘い。
 ちらりと御幸を見やれば、きょとんとした顔でこちらを見ていて、どっと疲れを感じる。テメェで言い出したことだろうが。なんだその顔。怒りを通り越して呆れた俺は、今度こそ溜め息を吐いた。
 すると、ようやく俺の言葉を正常に飲み込んだらしい御幸が、先ほどまで別の色を滲ませていた瞳をゆるりを細めたのが見て取れた。なんつー、嬉しそうな顔。隠せよ、そんな顔、こんなところですんな。 

「りょーかい。じゃ、仕事頑張れよな倉持クン」
「おめーもな。新商品売れること期待してんぞ御幸選手」

 外行き用の笑顔をさっと浮かべた御幸も、一応ここがどこだか理解していたようで少しだけほっとする。まあ、上機嫌な雰囲気、全然隠せてねーけどな。
 いつもの調子で軽口を叩きあって、ポンと軽く肩を叩いて、互いに止めていた足を踏み出す。後ろで御幸が「すみません、お待たせしました」と案内役を促しているのが聞こえる。俺はといえば、ずっと横で固まって成り行きを見ていた後輩に「報告行くぞ」とだけ声を掛けて歩き出した。会社の先輩と、有名プロ野球選手の妙に親しげなやりとりに一番驚いていたであろう彼女を気遣ってやれないのは申し訳ないが、ここに留まっていたらどんな目にあうかわからない。周りで俺達のことを見ていた社員の物言いたげな視線が身体中に突き刺さるのを感じながら、俺はこの後訪れるであろう質問の嵐をどう受け流すか、それを考えるのに必死だった。
 この後はきっとろくなことにならないな。至極当然なその未来を思い浮かべて、俺は今日一番の重くて深い溜め息を吐き出した。






「おいこらクソメガネ」

 帰宅して御幸に掛けた第一声がそれだった。
 リビングに置かれた馬鹿みたいにでかいソファに座って缶ビールを飲んでいたらしい御幸は、ゆっくりと振り返って少し気まずげにおかえり、と呟く。この様子だと、多少は反省しているらしい。窮屈なネクタイを抜き去って、ジャケットを適当に椅子に引っ掛けた俺は、わざとらしくドスンと御幸の隣に座ってやる。

「お前自分の立場考えろよバカ。何かあってからじゃおせぇだろうが」

 御幸を見据えて、咎めるように言う。御幸はごもっともです、とでも言う風に背を丸めた。それに鼻を鳴らしつつ、昼間の仕返しの意味も込めて御幸の手にあった缶ビールを奪って一口呷ってやった。まだ3分の1も飲んでいなかったらしいビールはひどく温くて、俺が帰るまで御幸が頭を悩ませていたことが容易に想像できる。大して飲めない酒の力を借りようとするくらい俺にどう言おうか悩むんなら、初めっからあんなことするなよ。
 特に見たかったわけでもないだろうテレビ番組から視線を御幸に移せば、丁度御幸もちらりとこちらに視線を投げてきたところだった。

「………大変だった?」
「まぁな。質問責めだわ」

 いつものようなからかいの色がその声にないのは、やはり申し訳ないと思っているからだろうか。そう感じても優しく返すつもりなど毛頭ない俺は、ローテーブルにカンッと音を鳴らしながら缶ビールを置いて、淡々と事実を述べてやった。本当に、あの後は散々だったのだ。
 野次馬共の視線を無視し、契約の報告の為に半ば放心している後輩を引き連れて上司のところに向かえば、あの場にいなかったはずの上司から「お前御幸選手と知り合いなのか」と言われた。噂というのはこんなにも早く伝わるものなのか、と顔を引き攣らせたのは、今考えれば失敗だったかもしれない。そこからは根掘り葉掘り、色んなことを聞かれた。辛うじて俺は高校時代、野球部で共に戦ったこと、同じクラス、寮暮らしで何かと付き合いが深かったこと、今でも交流があることを伝え、後は適当に誤魔化しにかかった。その場にいなかった上司には御幸の例の発言までは伝わっていなかったようなので、それは幸いだった。
 しかし隣にいた後輩にはそうはいかない。上司から開放された後、俺を待っていたのは彼女の追求と、噂を聞きつけた、もしくはその場にいたらしい同僚たちの野次馬魂満載の質問の山だった。俺は上司に言った内容と、それだけでは満足できなかった彼女らに週末は御幸の家に行って夕飯を食べて飲むことが多いのだと、そう話した。今日が金曜日でよかったと心底思ったのは俺だけの秘密だ。あの時横にいた彼女だけはまだ何か言いたげな様子だったが、大抵の人はその話で納得してくれたようだった。
 だが、災難はこれでは終わらない。俺と御幸の関係性に納得したはずの同僚たちから御幸の話を聞かせろとのコールが始まったのだ。これにはさすがの俺も疲弊した。勘弁してくれと思わざるを得なかった。それでも当たり障りのない質問には答えてやった俺は偉かったと思う。
 そんな流れが終業まで入れ代わり立ち代わり続いたのと、噂を聞きつけた他の部署の社員が遠巻きに俺のことを興味深そうに眺めては去っていくのだからたまったものではなかった。つーか何だあの会社、皆暇なのか?仕事中なのにそんな様子でも上司は何も言わなかったし、何なら隣の部署の部長まで俺のところに来たからな。緩すぎてびっくりしたわ。残業の量もそれくらいの緩さになって欲しいもんだ。
 それもこれも御幸のパワーによる恩恵なのだろうが、俺にとっちゃ恩恵でも何でもなかったのだからタチが悪い。今日はいつもの倍は頭使ったし気も使ったし花の金曜日なんて浮かれる余裕は1ミリもなかった。あー疲れた。
 疲れを吐き出すように溜め息をこぼしてソファの背もたれに頭を預ければ、横から小さくごめんって…と珍しく素直な謝罪が聞こえてきた。
 実を言えば、俺はそれほど怒っていない。確かに、御幸の自身の立場を脅かすような軽率な行動には多少怒ってはいるが、折れてしまった俺も俺なのだ。すべての非が御幸にあるわけではない。
 それでも、すべてをチャラにしてやるつもりはなかった。先に仕掛けたのは御幸である。俺は、相変わらず居心地が悪そうにソファに座ってもぞもぞとクッションを引き寄せている御幸に、なぁ、と声を掛けた。

「お前、妬いてたろ」

 御幸が俺の顔を見たタイミングで、あの時御幸の瞳から感じたことを、隠すことなく言ってやる。
 御幸はといえば、俺の言葉にびくりと、隠し事が見つかった子どもみたいに瞳を揺らした。それを見て、俺は冷静にやっぱりなぁ、と目を眇める。妙にしおらしいのも、全部自分でわかっているからだ。妬いてる、の一言で、いつもよく回る舌が途端に上手く動かせなくなるくらい、いつの、どこの、何を指しているのかが御幸にはわかっていて。それがどれだけばかばかしいのかも、きっとコイツはよくわかっている。
 一瞬俺から身を引くように体を震わせた御幸に、そうはさせねぇと、これ以上逃げられないよう御幸の左手を右手でソファに縫い付けた。クッションを抱えた右手にぐっと力が入るのが視界に入ったが、今日はコイツの口から言ってもらわなければ割に合わない。目だけで、話せよ、と促して、俺は御幸の言葉を待った。

「……倉持が、俺以外を見るとか、ないってわかってるけど、さ」

 しばらくの静寂の後、御幸がぽつりとそう呟いた。
 ここ数年、付き合い始めた頃では考えられないくらい、俺に対して素直な言葉をくれるようになった御幸だが、こうして俺からの愛について口にするようになったのは、実はつい最近のことだったりする。昔から与えられることにあまり慣れていなくて、常に予防線を張っていた御幸は、自分は愛されているのだと、なかなか信じることをしなかった。それでも根気よく気持ちを伝えて、諦めずにいた成果が今の言葉だ。
 うんうん、よくわかってるじゃねーか。そう頷きたいのをぐっと抑え、俺はまた口を噤んだ御幸に、押さえつけていた左手に指を絡めることで続きを聞かせろ、と伝えた。
 ぴくりと指を跳ねさせた御幸は、俺の方を見ずに、唇を震わせてでも、と呟く。

「俺の知らないとこで、倉持の近くにいて、倉持のこと狙ってる人、やっぱいるんだなって思ったらモヤモヤして」

 相変わらず俺の方を見ようとしない御幸は、昼間の光景でも思い出しているのだろうか。そんなことを考えながら、変な話だが俺は、見てて気づくもんなんだな、と妙に関心してしまっていた。それしかないだろうとは思っていたけれど、野球以外のことには何かと鈍感な御幸が、あの短い時間とごちゃついた状況の中で彼女のことに気づくなんて、昔では考えられないことだ。
 コイツも多少は成長してんだな、なんて場にそぐわない感慨深さを感じていると、絡めていた御幸の指に力がこもる。

「それに、倉持、あの子の頭まで撫でるし」

 少し憎々しげに吐き出されたのは、きっと聞き間違いではないだろう。もうすでに反省したことではあったけど、こうして恋人に言われると何とも居た堪れない気持ちになる。それは完全に俺が悪かった。話が終わったら、存分に愛して、それから謝ろう。
 そんな計画を立てていると、ふいに右手の拘束が緩んだ。逸れてしまっていた思考を正して隣を見れば、折り曲げた膝の上にクッションを乗せて、顔を埋めている御幸がいて。顔を隠すようなその体勢に、大方情けなくて顔を見せられないとでも思っているんだろうと予想をつける。お前の情けないところなんて、もう俺は知り尽くしてるだろうが。

「情ねーんだけど、今日は、だめだった」

 予想は大当たり。クッションの隙間から今までで一番小さな声で紡がれた言葉に、俺は目を細めた。どうしようもなく面倒で愛しい目の前の男の、言葉を待つ。

「倉持は俺のなんだ、って言いたくなっちゃった」

 布と綿に阻まれて少しくぐもってはいたが、それでもハッキリと聞き取れた。
 御幸の気持ちや考えがいくら読めたって、結局それを本人の口から聞かないと真実にはなり得ない。御幸の声で紡がれるその心は、予想とは全く違う感情を俺にもたらす。愛しさが募って、気がつけば指先が存外柔らかなその髪に伸びていた。

「ばかじゃねぇの」

 言葉とは裏腹に、その声が自分でも鳥肌が立つくらい甘ったるいのにはとっくのとうに気づいている。そしてそれがどうしようもないことであるのも理解している。
 だってばかだろ。
 俺はお前のだって、もう今までに何回伝えたと思ってる。あんな、大勢の前でいつも一緒にいることを仄めかすなんて、子どもみたいなことして。折れた俺の返事に心を満たす。お前だって、ばかだってわかってるから、そんな風になってるんだろ。

「ばかだよ」

 まるで俺の心の声が聞こえているかのように、御幸が言う。御幸がこてんと顔を傾けて、するりと指先から茶色の髪が流れ落ちた。御幸の瞳は、あの頃から俺を捕らえて離さない不思議な、綺麗な色を湛えて、こちらを見つめている。

「倉持に関しては、俺はばかになっちゃうの。そんなこと、お前が一番よく知ってるだろ」

 どこか困ったように微笑む御幸に、ぐっと息が詰まる。その声が、愛おしくてしょうがないとでも言うように柔らかくて甘いのに、お前、気づいてんのか。
 堪らなくなって顔を御幸に寄せて、唇を奪った。触れるだけのキスをして、俺よりも幾分か厚い唇を潤すようにべろりと舐める。

「ん、ぅ、くらもち?」

 それだけでとろりと目を蕩けさせる御幸に、思わず苦笑してしまう。せっかくあんなところで、夕飯よろしくっつったのにな。御幸が用意してくれたオムライスを食べるのは、きっと朝になるんだろう。
 御幸も俺も、明日は何もない。選択肢は一つしかなかった。

「御幸」

 不意打ちのキスで体勢を崩した御幸をソファに押し倒す。大した抵抗がなかったことに、くつりと笑いが洩れてしまった。熱の滲んだ目の前の瞳、絡められたままの指、くらもち、と俺を呼ぶ頼りない声、すべてに煽られる。
 ばかは俺もか。
 ぼんやりとそう思った。御幸の言葉も行動も、全部愛おしく思えてしまう俺は、コイツに負けないくらいばかだ。ばかでどうしようもない男だ。

「………ほんっと、ばかだな」

 俺もお前も、何年経ったって変わりやしない。
 ばかなお前にはばかな俺があってるって、もう一度、丁寧に教えてやるから。覚悟しとけよ。

 ばかでいいから、はやく。

 とろけた声で急かす御幸に、俺は先程とは違う、噛み付くようなキスを贈った。



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