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  愛しき孤高の王よ A


「あ……」

 コートでテニスをしていたのは、跡部だった。
 ここに向かう途中で、音を聞きながら薄々そんな気がしていたが、やはり跡部だったとは。

 ただひたすら、ボールを追って、打って。そんなことを繰り返している。
 跡部はテニスに夢中になっているようで、数メートルしか離れていないフェンスの近くに立っている俺にも気づいていないようだ。俺も声をかけることはせず、ただ、跡部を見つめる。
 やはり彼のテニスは気高く、美しい。
 そして、恐ろしいくらいの気迫と、強さを感じずにはいられない。まるで彼自身のようだ、と思う。


 どれくらい経っただろうか。
 一通り打ち終えたのか、跡部がラケットを振っていた手を休めた。呼吸を整えながら、じっと、なにかを確かめるように自分の掌を見つめているのがわかる。それから、拳を握り締め、自分の胸に手を置いて。ひとつ、深呼吸。

 ああ、何から何まで様になっとるなぁ、なんて。

 神様にすべてを与えられた男、なんて誰かが言っていたが、それもあながち間違いじゃないだろう…そう思えるほどに、彼は"完璧"を崩さない。しかしそれは神より与えられたというよりは、跡部自身が自らの力で手に入れたものだ。俺とは完全に違う人種。俺には、どうやっても跡部のような生き方はできないだろう。
 そんなくだらないことを考えていたら、視線の先にいる跡部が、ふと、天を仰いだ。陽が落ち掛けている空はオレンジから深い青へ向かってグラデーションを作り上げていて、とても綺麗な色をしている。

 でも、それよりも俺の目が向いたのは。

 空を見上げていた跡部が瞳を閉じたときに流れた、涙。跡部の頬を伝うそれは、瞳から溢れて止まらない。
 出会ってから2年半、アイツの涙なんか見たことがなかった。いつでも頂点に君臨する彼は、弱いところを見せるのを極端に嫌っていたから。

 素直に、綺麗な涙だと思った。
 あれが、自分だけのものになったら────。


 ガシャン。

 跡部に見惚れていた俺は、フェンスを掴んでいた拳に無意識に力を入れてしまったらしい。大きな音が、周辺に鳴り響く。もちろん、その音はコートにも届いたようで。バチリ、と跡部と視線が合ってしまった。

「しまっ……!」

 しまった、どころじゃない。
 っちゅーか、アホか、なんで声出したんや、俺!

「おしたり………?」

 さすがにこちらに気づいたらしい跡部は驚いたように目を見開いた。
 しかしそれは一瞬のこと。
 次の瞬間、跡部はキッと俺を睨みつけたまま、早足でこちらに近づいてきた。逃げる暇などないまま、跡部が目の前にやってくる。
 俺よりほんの少しだけ背の低い跡部は、少し下からとんでもない眼力で俺を睨み据えてきた。ガン飛ばされてる、ってやつや…なんて悠長に考えてる場合ではない。

「テメェ……なに見てやがんだ」
「や、いや、ちゃうねん。たまたまっちゅーか、その、」
「…………」

 ちゃうねん、ってなんや。
 なんか変なことしたみたいやんか。
 落ち着け、落ち着くんや、俺。
 ……いや、変なこと、っちゅーか、見てはいけないものを見たのには、違いないんやけど……。

「……………」
「……………」

 …………跡部の視線が、痛い。

 そりゃそうだ。
 弱いところを見せない、氷帝の王様が、跡部が。泣いているところを見られたなんて。跡部にしてみれば冗談じゃないだろう。
 対する俺はというと。まずい、やってしまったな、という気持ちと、珍しいものを見た…という僅かな嬉しさ。彼のこんな姿など、本来なら一生掛けても見れなさそうなものだから。
 そんな俺の邪心を感じ取ったのか、跡部が不機嫌そうに目を細めた。アカン、絶対零度の視線や。

「……えっとー…すまん、忘れ物、取りに来ただけやねん。別に、その、覗き見とかするつもりは……」

 遅いだろうが、とりあえず…という気持ちで跡部に言い訳じみたことを言う。しどろもどろになってしまったが、相変わらず跡部の視線が突き刺さっているこの状況では仕方がない。
 ああ、なんか薄ら寒くなってきた。こんな時に限っていつものポーカーフェイスも、それとなく話を切り替えるような言葉を言う口もまったく役に立ってくれない。
 なんとなく跡部の方を見れなくて、視線を泳がせながら彼の言葉を待つ。無言だとどうしていいかわからないから、困るんやけどな。

「…………今回だけだ」
「………はい?」
「今回だけ、見逃してやる。………そのかわり、」

 そんなことを思っていたのが雰囲気で伝わってしまったのか、やっと跡部が口を開いてくれた。
 どんな罵詈雑言を投げかけられるのか…と身構えてただけに、予想していなかった許しの言葉にポカンとしてしまう。思わず間の抜けた声で聞き返してしまったが、最後に付け加えられた言葉で力の抜けた身体にまた緊張が走った。
 そのかわり、だなんて何を要求されるかわかったものじゃない。再び身構えつつ、跡部の言葉を同じように繰り返す。

「そのかわり………?」
「………すこし、肩、貸せ…」

 跡部の言った言葉が、理解できなくて固まった。
 それからゆっくりと、その言葉が頭の中に浸透して、理解した頃には右肩に確かな重みが感じられて。
 パニックを通り越した放心。まさにそんな状態だ。俺は動くことも、言葉を発することもできずにただ立ち尽くす。対する跡部は、そんな俺のことなど気にする様子もなく。何かを言うどころか、この状態から動くつもりがないようだった。
 これではどうしようもない。そう思った俺は徐々に肩から力を抜いて、小さく細く息を吐き出した。視界の端に映る跡部を見つめ、今日は珍しいこと尽くしやな、なんて右肩に触れる熱を感じながら考える。
 気を張ってないとわからないくらい小さく、小さく震える肩に気づいて、迷った末にそろそろと跡部の背中に手を回した。怒られることを覚悟して、小さい子をあやすように優しく背中を叩いてみたが、予想に反して跡部は振り払うこともせずされるがままだ。そのことにきゅう、と胸が締め付けられる。

 跡部。声には出さずに名前を呼んだ。

 跡部がフェンスの近くに立っている俺に気づいた時。呆然とした顔で俺の名前を呼んだ時。
 涙が零れ落ちる綺麗な青色の瞳に俺が写ったあの瞬間、どうしようもない気持ちになった。

 それからすぐにいつもの"跡部景吾"に戻った跡部が、こうして俺に体を預けて、俺に弱いところを見せていることが。

 ひどく、いとしい、と、思った。

 俺が跡部を嫌いになれなかったのは、跡部が努力を怠らない天才だからだとか、そんな理由ではなかったのだと今更ながら気づく。
 完璧な跡部景吾を一瞬たりとも崩さず日々を過ごしている彼が、心配で、甘やかしたくて。自分だけに、彼の弱いところを見せてほしくて。
 心の無意識的な部分にそんな気持ちがあったから、俺は彼を嫌いになれなかったのだ。否、嫌いになるというよりはむしろ。

 俺は、跡部が好き、なんか?

 好き。この気持ちに名前をつけるとしたら、それくらいしか思いつかなかった。頭を鈍器で殴られたような気分だ。まさか、今の今まで自覚していなかったなんて、アホちゃうんか、俺。しかも、あの、跡部のことが、すき、とか。
 ぐるぐると、走馬灯のように跡部と出会ってからの思い出が頭の中を駆けめぐる。自覚した途端こみ上げてきた感情に、頭が、体が、追いついてくれなかった。
 愛おしい、抱き締めたい、大事にしたい、甘やかしたい…それこそ、彼が彼でなくなるくらい。
 ああ、自分の中にこんな感情があったのかと、驚かされる。
 もう一度、俺の肩に顔を埋めている跡部を視界に写し、それからたまらなくなって跡部の背中に回した腕に力を込めた。少し引き寄せるような形になり、突然動いた俺に驚いた跡部がビクッと肩を揺らす。でも、相変わらず顔は俺の肩にうずめたままだ。そんな、無防備な、心を許したような態度。ますます俺を舞い上がらせるだけなのに。

「なぁ…跡部」
「………………」
「なぁ、って、無視かい」

 背中から頭に手を移動させて、跡部の髪を撫でながら跡部を呼ぶ。普段なら絶対に手を弾かれるだろうこの行為も、今は僅かに体を揺らし反応を示すだけで跡部は何も言わない。されるがままなのがかわええ、とか、愛しい、とか。自覚したらしたでこうも極端になるもなのかと、自分自身の変わりように思わず苦笑を洩らす。

「……………跡部、」

 特別やさしく、甘く跡部の名前を呼ぶ。
先程とは違う声色になにかを感じ取ったのか、今度は跡部から少し大きな反応が返ってきた。声こそ出さないが、なんだよ、というように身じろぎするあたり、我に返ってきたんだろう。
 恥ずかしがってそうやな。そう思ったらちょっと笑えてきたが、ここで笑ったらきっと突き飛ばされると思いなんとか耐える。こんなところで、またとないこのチャンスを逃すわけにはいかないのだ。

「……お疲れさん。よう頑張ったなぁ」

 少し間を置いて、ゆっくり、やさしく。跡部に伝わるように。
 よく頑張った、だなんて、俺なんかが言っても跡部には何も響かないかもしれない。けれど、言わなければならないと思った。さっきの涙の真意は、彼にしかわからないから俺は想像するしかないけれど。一言、伝えたかった。お前は決して、間違ってなどいなかったと。
 跡部景吾を一瞬たりとも崩さず生きようとしている彼は、自分に厳しすぎるのだ。跡部が、この夏を一生背負ったまま生きていくような気がしてならなかった。
 ああ、跡部。頑張るお前はとてつもなく眩しくて、頂点に君臨する姿は俺の、俺らの誇りや。せやけど、その姿を保とうとして、お前が壊れてしまうのは耐えられへん。
 だから、だから、なぁ、跡部。

「…………もっと俺を利用してええんやで」
「……あ?」

 俺の言葉が不可解だ、と言わんばかりの態度で、跡部がやっと俺の肩から顔をあげた。まだ薄い涙の膜が張っているブルーアイスの瞳がひどく扇情的で、綺麗だ。欠点なんかひとつもない端正な顔を見つめながら、涙が伝った痕をなぞるようにするりと頬を撫でる。

「てめ…なに、言って……」
「頑張りすぎた時は、たまにでええから休んでほしいっちゅー意味」

 きっと『利用』という言葉がうまく飲み込めなかったのだろう跡部は、困惑の表情を浮かべてこちらを見つめる。でも、敢えて俺はその言葉を使ったのだ。言い換えることはせず、やんわりとその意味を伝える。
 だって、『頼ってほしい』なんて言ったら、お前は俺を全力で突っぱねるやろ?だから、跡部の都合の良いように『利用』してほしいと言ったのだ。彼を極力傷つけずに、俺が彼を守る為に。
 跡部の弱いところも、脆いところも、俺なら誰にも言わない。体のいい人形だと思ってくれてもかまわない。俺はただ黙ってお前にこの肩を、この胸を、この掌を貸してやろう。与えてあげよう。必要ならば、声をかけよう。
 だから───

「跡部」

 揺れる跡部の瞳を真正面から見つめて、小さく首を傾ける。『お前がやっても可愛くねーよ』と岳人に笑いながら言われたが、これは俺が"お願い"する時の癖。
 跡部は、口の悪さに反して物凄く優しいことを知っているから。仲間からの"お願い"にはなんだかんだ弱く、断れないことを知っているから。狡い俺はそれを利用する。
 俺の欲と、そして彼自身を守る為に。

「な?お願い」

 後は、彼が頷くのを待つだけだった。



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