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喧嘩の基本は倍返し A
それまで静かだった廊下からカラコロと下駄で歩くような音が聞こえてくる。その音は篠原がいる教室の前で止まり、次にその音と共に長身の男がひとり入ってきた。
男は篠原を目に留めるとすっと目を細め、見定めるように篠原を見つめる。
「お前が篠原であっとう?」
「…お前、誰や」
突然現れ、篠原の名を口にした男に、篠原は若干の警戒を示す。威圧することも忘れずに、睨みを利かせながら。
しかしそんな篠原に対し男はへらりと笑い、のらりくらりと言葉を紡ぐ。
「名乗るほどじゃなか。どうせすぐ終わるけん」
「ふぅん…?なかなか度胸のある奴らしいなぁ…」
最近、この高校で最も目立っているといえるであろう篠原に対する態度とは思えないくらいのんびりとした男の返事に、篠原は少し気に入らなさそうに顎に手をあてる。だがまだ余裕はあるようで、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「用件はなんや?早よ言え」
男の素性をこれ以上詮索しても無駄だと判断したのか、篠原は男にここにきた理由を尋ねる。
すると男は先程のへらりとした笑みを消し、真っ直ぐ篠原を見据えた。
「お前がカツアゲしたち聞いたけんここにきた」
「はぁ?カツアゲ?」
男が口にした『ここにきた理由』が、篠原にとってはあまりにも何でもないことだったので、篠原は意味がわからないとでもいうように顔を歪めた。
「昨日の夜、四天宝寺中の生徒。覚えとらん?」
「………?あー…ハイハイ。あのちっこい奴か。チョロい奴やったなぁ、泣き叫んで……アカン、思い出したら笑えてきたわ」
男に言われて篠原はやっと先程の財布の持ち主のことを思い出したようだ。
しかし、目の前の男が言っているのは昨日の中学生のことらしいと理解したのはいいが、篠原には男の考えが読めなかった。男がここにきた目的がわかっても、男の真意が篠原にはわからなかったのだ。
「で?それがなんやって?別になんでもないことやんか」
思ったことを、そのまま口に出す。篠原の無神経とも言えるその発言に、男はぴくりと反応を示した。
「…………お前の言うそのちっこくて弱そうな奴は俺の大切な仲間たい。こんな俺を、受け入れてくれた大切な……、」
「はぁ?なにボソボソ言うとんねん、お前」
俯きがちに小さく呟く男に、篠原は気味悪いとばかりに怪訝な顔をする。
いい加減にしぃや、なんやねんお前。そんな篠原の言葉を聞いた男はすっと顔を上げ、感情の読めない表情を浮かべる。
「まあ、お前には関係なか」
カラン、と男が履いている下駄が軽やかな音を立てた。男はゆっくりと一歩ずつ、篠原へ近づいてゆく。
「"ウチ"に手を出した時点でお前の運命は決まっとるけん」
篠原の目の前まできた男はぱきり、と拳を鳴らした。
「四天宝寺に手を出したこつ、後悔させてやるばい」
『にっこり』という表現がぴったりの笑みを浮かべた男の目は、まったく笑っていなかった。
次の日、四天宝寺中は四天南高の不良グループ壊滅のニュースで持ちきりになっていた。
なんでも、最近この辺りで目立った動きをしていた篠原およびそのグループに属していたメンバーの多くが病院に送りになったとかなんとか。
とにかく、先日四天宝寺中でも被害者が出ていたため、生徒の多くは今回にニュースに安堵を覚えていた。人の怪我を喜ぶのはよろしくないことだが、日々彼らの素行に怯えていた人たちにとっては吉報と言えるだろう。
それともう一つ。壊滅のニュースと共に、誰が彼ら不良を壊滅させたのか、ということが四天宝寺中の生徒たちの間で話題をよんでいた。篠原らは口を噤んでいるらしく、その人物についてはいまだ謎のままなのだ。噂では男がひとりでやったと流れているが真実は謎のままである。
その日の放課後。白石はテニスコートから少し逸れたところにある、草や木の生い茂った場所に足を踏み入れた。
草を掻き分けて進むと、少し開けた場所に見慣れたもじゃもじゃ頭が座り込んで猫と戯れているのが目にはいる。
「ちーとせ」
「んー?何ね、白石」
元々白石が来ていることには気づいていたのか、千歳はこちらを振り向きもせずにゆったりと返事を返す。
「何ねって、部活にこんから呼びに来たんや、アホ。……それとちょっと話があってな」
「話?」
ここ座るで、と千歳の隣に座った白石は、千歳の方は見ずに少し遠くを見つめる。
そして少し空を仰いだのちに、千歳を真っ直ぐ見つめ、白石は"例の噂"の真意をたずねた。確信を持った、はっきりとした口調で。
「南高の奴らやったん、お前やろ?」
「………さぁ?何のことね?」
とぼける千歳に、口元に傷をこさえている奴が何を言っとるんやと白石は思ったが、千歳本人は口を割る様子がまったくない。最後まで知らんぷりを続けるつもりなのだろう。そんな千歳に、仕方ないとばかりに白石はもう一度空を仰ぐ。
「……まあとぼけるんならそれはそれでええ。けどなーお前、あれはちょっとやりすぎやろ。篠原なんて全治何ヶ月やっけ……結構あったで」
咎めるように言う白石に、しばらくの間きょとんとした千歳は次の瞬間、ふふ、と笑い声を零す。
「喧嘩を売られたら倍返し。基本中の基本ばい」
にんまりと、悪戯に成功した子どものように笑う千歳に、白石は小さくため息をつくしかなかった。
その言葉、さっきの質問の肯定になってるで、とは到底言えるはずもない。
喧嘩する千歳が書きたかっただけ。
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