06.インパチェンス



酒場の夜は長い。それがダングレストともなると尚更だ。至る所から酒を煽る声とグラスを合わせる音が鳴り響く。その中でより一層わかりやすく荒れているカウンター席。天を仰いで一気に飲み干したグラスをゴン!とカウンターテーブルに叩きつければ、隣の男は苦い笑みを浮かべた。

「何っなんですか、あの男は!!」
「何って、そりゃ泣く子も黙る騎士団長でしょうに」
「そんなことは知ってます!マスター、おかわり!」
「生?」
「ジンジャーエール!」
「はいはい」

 行き場もなければ名前もつけられない感情を発散するためにノンアルコールのジュースを頼めば、マスターは特に驚くこともなく慣れた手つきでグラスにジュースを注いでくれる。
 ギルドの人間だからかよく酒に強そうだと言われることが多いが、自慢じゃないが私は酒が飲めない。飲めないけれど場の空気に合わせて盛り上がることはできるし、何なら酔っ払いのギルドの男たちの相手をすることだって平気だ。下戸で困ったことなど一度もなく、今もこうしてジュースを浴びるように飲んでは隣の男─────レイヴンに愚痴を聞いてもらっている。
 そしてその愚痴の対象は、専ら最近の私を狂わせている例の人物で。

「ああ、思い出したらまた腹立ってきた……」
「ほんと相変わらずの騎士嫌いだねぇ。でもなーんでフレンちゃんとカノリちゃんがそんなことに?」
「知りませんよそんなの。騎士団長さんに聞いてください」

 帝国騎士団団長、フレン・シーフォ。彼からの仕事の依頼はあの一回きり。もう二度と会うことなどないと、そう思っていたのだ。……仕事の報酬を受け取りに行くまでは。


「ありがとう、カノリ。じゃあ次はこの書簡を」
「これをノードポリカへ」
「今からダングレストに戻れるかな」
「あとそれから……」


「ちょっと!何度も何度も、一体どういうつもりですか!」
「どういう、って、カノリにお願いしたいことが沢山あるだけだよ?」



 そう、騎士団長さんはあれから間髪入れずにどんどん依頼を投げてきた。しかも出会った時から変わらない後光が差していそうな爽やかな笑顔付きで。
 もちろんどこかのタイミングで騎士団長からの依頼などこれ以上はお断りだと突っぱねることも出来ただろう。けれどそれをしなかったのは、報酬を受け取っているからには任務を完遂すべきというギルドとしてのプライドであり、騎士団長本人に向かって啖呵を切ってしまった手前引き下がることもできなくなった私個人の意地でもあった。本当に厄介な男だ。むかつく。
 あのキラキラ輝く金髪を思い浮かべては口をへの字に曲げる私を見て、レイヴンはさも可笑しそうにケラケラと笑う。

「だったらいっそフレンちゃん専属の運び屋にでもなれば……」
「それ以上言ったら二度と一緒に飲みませんよ!」
「嘘うそ冗談!冗談だから!……でもまあフレンだってバカじゃないからね、何か考えがあってのことじゃないの?」
「それは……」

 癇癪を起こしている子供をあやすようなレイヴンの声にギュッと唇を噛む。

 騎士団長さんは馬鹿じゃない。それも本当はどこかで気付き始めていることだった。
 彼はあの時、『闇ギルドと同等の依頼を出せば、私が闇ギルドと取引しなくなる』と踏んだ。その狙いは正に当たりで、私は立て続けに発生する騎士団長さんの仕事を始めたことで闇ギルドの依頼を受ける時間がなくなってしまったのだ。こんなの半分営業妨害だと噛み付きたいはずなのに、それなりの対価を受け取っている以上はそうも言えないのが歯痒かった。

 加えて、彼の仕事をこなす度に嫌というほど思い知らされたことがある。荷物の受取人は一般市民から僻地の駐在騎士まで様々だったが、その誰もが騎士団長さんの名前を出した途端に心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。そして口々に「フレン様に会いたい」と零したのだ。

(……この人たちは、騎士に救われたのか)

 仕事用の笑顔の裏で、漠然とそんなことを思った。もちろん、かつて市民から絶大な支持を受けていたにも関わらずその素性は真っ黒だった前任の騎士団長のような人間もいるのだから、民衆の声だけを鵜呑みにするわけじゃない。けれど、少なくとも騎士団長さんが今の彼らに幸せを与えていることは疑いようのない事実だった。

 これが、人々の穏やかな日常が、騎士団長さんの戦いの先にあるものだとしたら。心の何処かでそんなことを考えそうになっては自分を窘めるように首を振った。あの人がどんな人物かなんてどうでもいいと突き放したのは自分自身だ。今さら生き方を変えるつもりはない。……ないのだが、それにしたって、たった一言であんなにも人々からの信頼の証を見せつけられたのは初めてで、おかげで今も私一人が戸惑いの渦の中に放り込まれる羽目になっている。

「ていうか前から思ってたけど、そもそもカノリちゃんがそこまで騎士を嫌う必要ってあるわけ?」
「そういうのは今も騎士団との和平に反対声明出してるギルドにも言ってください」
「おっさんは他の奴らじゃなくてカノリちゃんに言ってるんですー」

 何だその女子学生みたいな喋り方と尖らせた口は。顔をしかめて無言で抗議してみたが、レイヴンはお構い無しでマスターにウイスキーを頼んでいる。それから彼はグラスの中で大きな氷をカランと踊らせ、「だって」と私を試すように目を細めた。

「俺とはこうやって一緒に飲んでくれるでしょ?」

 瞬時に変わったカウンターの空気と、レイヴンの問いかけの意味。それを測り切れないほど私は愚かではなかったし、理解して尚誤魔化してあげられるほど優しくもなかった。

 ユニオンの中心、天を射る矢の幹部であるこの男、レイヴンは、あの激動の時代の終焉から程なくして自らが『シュヴァーン・オルトレイン』でもあると世間に公表した。
 シュヴァーンといえば、謎に包まれたままの帝国騎士団隊長主席で、実質的な騎士団のナンバー2に当たる人物だ。寡黙だが人魔戦争を生き抜いた平民の希望で、一部の騎士からは熱狂的に支持されていたらしい。らしい、というのは実際に彼の姿を見たことがある人がほとんどいなかったからだけれど。そのシュヴァーンと天を射る矢のレイヴンが同一人物だっただなんて、一体誰が想像しただろうか。なにせレイヴンはご覧の通りこういった砕けた空気を纏った人だし、二人の人物像はあまりにもかけ離れすぎている。当然私を含め一般人たちは皆それぞれに動揺したし、俄かには信じられなかった。それでも世間が真実を受け入れざるを得なかったのは、現皇帝ヨーデルやユニオンのハリーたちが彼に絶大な信頼を寄せていたからだ。そうして今もレイヴンはユニオンをまとめ上げながらも、かつての部下である騎士の指導を行ったりと二つの組織の懸け橋を担っている。


 そう、レイヴンは間違いなくギルドの人間で、私が嫌いな騎士でもあった。彼自身がどんなに「シュヴァーンは死んだ」と言い張ったとしても、シュヴァーンが遺したものは変わらない。

……だけど、と、深く深く息を吸う。柄じゃないことを口に出す時に飲むジンジャーエールはこんなにも苦いのかと思った。

「あの後たまたま会った時、貴方が言ったんじゃないですか。『自分はレイヴンだ』って。だからいいんです」

 確か当時、私はレイヴンに「貴方は誰ですか」と聞いたような気がする。それはきっと、私にとっても、レイヴンにとっても、一つのケジメのようなものだった。その彼の答えが『レイヴン』だったのだから、私は彼の言葉を信じた。ただそれだけだった。

 それに実際のところ、私はレイヴンのこういう聡い部分が好きだった。一人ギルドとして生計を立てて生活していると、どうしても会話をする人物は仕事の依頼人や顔見知りの他ギルドの人間に限られてくる。当然彼らに深入りすることもなく、かといってその環境に寂しいと思ったことも一度もないけれど、やはり似た感性で物事を考えられる人と接する時間はなかなかに楽しいものだった。そういった意味で、レイヴンの存在は私にとってイレギュラーだ。

「カノリちゃんは優しいねぇ」

 レイヴンは誰に言うでもなく、ただウイスキーで喉を焦がしながらそう呟いた。彼がそう言うのを私はわかっていたし、それを聞けば私が嫌がるのをレイヴンは知っている。それでも口に出してしまうのだから、この男はやはり賢くて、抜け目がない大人だった。


「そういえばレイヴンって、最初からギルドと騎士で二足の草鞋を履いてたんですか?」
「ん?いや全然。俺様昔は騎士団一筋だったからね」
「へぇ、騎士側だったんですね。ちょっと意外」

 私がそう言えば、レイヴンは「意外とは失礼!」とプリプリ怒り出す。だからどうしてそんなに女子学生みたいなのだ。呆れてマスターに目を向け助けを求めれば、マスターはそっちで処理しろと無言で首を振った。残念、助け舟は来てくれないらしい。
 しかし強い酒ばかり選んで飲んでいるレイヴンにも、どうやら酔いが回ってきているようだ。酒場の盛り上がりはまだまだ終わりそうにないが、私たちのお開きの時間は近づいてきている。

「おっさん、こう見えても超真面目で偉くて好青年でフレンちゃんみたいな騎士だったわけ」
「……えー」
「あ、その顔はまた信じてないわね!?本当なんだって!当時は部下にもめちゃくちゃ慕われててさ」

 レイヴンはまたかつての心の氷をじっくり溶かすようにウイスキーのグラスを回した。そうして、カウンターの内側で壁一面に飾られている酒瓶を見つめる。正確には壁の先のもっと先にある何か、だろうか。その瞳は何か遠くを懐かしむような、慈しむようなものだった。

「特に一人、なんでかはわからんけどやたら俺に懐いてた奴がいたのよ。そりゃもう子犬かってくらいに、ダミュロ……じゃなかった、レイヴンさんレイヴンさん〜〜って、しつこく俺の後ろをくっついてきてな」
「それはまあ物好きな人もいたものですね」
「そうそう、とんだ物好き……ってカノリちゃん!」
「あはは、冗談ですよ。マスター、そろそろこの人にお水あげてください」
「はいよ」

 私がいそいそと帰る準備を始めれば、レイヴンはテーブルに顔を突っ伏して「嫌だ〜〜まだ飲めるし帰りたくな〜〜い」なんて、酒を飲み始めたばかりの若者のような戯れ言を吐いている。そうして駄々をこねること自体が酔っ払いの証だと気づいていないのだろうか?まあどっちでもいいけれど。
 問答無用でマスターから差し出された水をレイヴンが口に含み、不服そうに飲み込む。ほんの少しだけ冷えた頭が、僅かに思考を回復させた。

「……そういやあいつ、妹がいるって」
「妹?」
「あ、いや、こっちの話」

 独り言のように呟いたそれを最後に、レイヴンは再びカウンターに右頬をくっつけて目を瞑ってしまった。まだ寝てはいないようだが、これは時間の問題だろう。とりあえずマスターに二人分の代金を支払う。隣の彼の分に関しては、まあ後日貰うか新しい依頼を回してもらうかで相殺すればいい。

「はい、まいど」
「ご馳走様でした。ほらレイヴン、先に帰っちゃいますよ」
「もうここから動けなーい。カノリちゃん、おんぶしてー」
「置いて帰ります。じゃ、マスター、また来ますね」
「無視!?ひどい!わかった帰る。帰るから、おっさんからカノリちゃんに最後のしつもーん」
「はいはい、何ですかー」

 半ば酔っ払いをあしらうように受け流し、マスターに手を振る。「噂で聞いたんだけどー」なんてふわふわした声を聞きながら、酒場のドアのほうへと少しむくんだ足を向けた時。


「カノリちゃんもさ、昔は良いところの貴族だったって本当?」


 突如背中に刺さった鋭さに身体が硬直する。騒がしい酒場の中で、私たちがいる空間だけが氷が漂うグラスの中のようだった。確かに私は彼の聡い部分が好きだが、何もここまでしろとは言っていないのに。


「……忘れましたよ、そんな昔のこと」


 見せかけの感情を乗せることもしないまま零れた呟きが、レイヴンに届いていたかはわからない。けれど彼はそれ以降の帰り道でもこれ以上のことを聞いてはこなかった。その優しさがやっぱり大人で、ずるい人だとも思った。



インパチェンス:鮮やかな人、強い個性


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