05.サルビア
幼馴染を騎士に殺された。その事実だけが部屋に響き、淀む。二人の間にそれ以上の言葉はなく、ただ沈黙に紛れて息を飲む音が鳴ったような気がした。
傷ついたかもしれない、と思った。彼の表情はそういう類のものだった。まさか、自分の率いる組織の末端で蔓延る罪の数々を知らなかったのだろうか。だとすればなんと哀れな騎士団長様なのだろう。私なんかで暇潰しをしようとせずに、ただ城という名の箱庭で何も知らずに地位と権力の甘い汁を吸っておけばよかったのに。
「これで満足しましたよね。……それじゃあ」
今度こそ永遠のお別れだ。私は二度と貴方と会うことはない。
重い空気が漂う部屋の中、引きずるように右足を後ろへ下げる。くるりと背中を向けようとして、それで本当に、おわり─────
「カノリ。君に仕事を頼みたい」
鼓膜を貫いたのは、誰よりも凛とした声だった。
「なっ……、ふざけてるんですか!?私は違法を働いてるギルドとも取引してるような人間ですよ?」
「だからだよ。僕が同じように高額の報酬を出せば、君は彼らと取引をする必要がなくなるからね」
騎士団長さんの言葉は耳を疑ってしまうものばかりだった。この男は本当に何を言っているのだろう。そんなことがまかり通るはずがない。帝国騎士団団長が、帝国の市民権すら捨てたギルドの人間一人の道を正すためにそこまでするなど、断じて有り得ないだろう? 彼の思考は私の理解の範疇をとうに超えており、やっぱり恐怖にも似た感情が湧き上がる。そうして私は、とんでもない勘違いをしていたことを思い知るのだ。
「……私が貴方の依頼を受けるとでも?」
「もちろんさ。カノリが仕事を請け負う基準はお金になるかどうか、だろう?」
「〜〜〜〜っ」
(こいつ……!!)
騎士団長さんは私の言葉で傷ついたりなどしていなかった。確かに心を痛めはしたかもしれないが、それすらも受け止めて己を突き動かす原動力に変えてしまう。そういう力を、この人は持っている。
彼の考えは未だ謎のまま。それでも一つだけわかるのは、騎士団長さんが僅かに浮かべる笑みは勝ち誇ったようなものではなく、ただただ柔らかな光に満ちたものだということだった。
フレン・シーフォ。大嫌いな騎士団長。血が滲むほど唇を噛んで思いきり睨みつけても、やっぱり彼は少しだけ切なそうに笑うだけだった。
ゴロゴロと音を立てながら、大きな車輪の付いた荷車を引く。積んでいるものが見た目ほど重くないのでさほど辛くはないが、細身の女一人のその姿自体が物珍しいのか、行き交う人々にはチラチラと見られているような気がした。まあ他人の視線を気にしたことなど一度たりとも無いので構わず市民街を抜け、大きな下り坂へと差し掛かる。
荷車が坂で転げ落ちてしまわないように全身に力を入れる中、どこからか感じたのは懐かしい匂いだった。
私が此処を訪れるのは初めてのことだろう。それでも確かに、私はこの空気を知っている。……知っていたのだ。
「あれ、おねーさん、どうしたの?」
「騎士団長さんからお届けものです」
「フレンから!?待ってて、今みんなを呼んでくるから!」
坂を下り切ったところにある中央の噴水広場。そこで出会った茶髪の少年は、私の言葉を聞くとわかりやすく飛び跳ね町中を駆けていった。その様子に僅かな違和感を感じながらも、少年が戻ってくるのを待つ。やがて、一人、また一人と、少年に呼ばれた此処に住む人々が荷車の周りに集まってきたのだが、彼らは皆活き活きとした笑顔を浮かべていた。
「まあ、こんなにたくさん!いつもありがたいわね〜」
「今度フレンに会ったらお礼を言わないとな」
「こら、テッド!独り占めはダメだぞ」
「大丈夫だよ!これはチビたちにあげる分だから!」
「テッドももうこの町のお兄ちゃんだもの、それぐらいわかってるよね」
私が運んできた荷車にたくさん積んであるのは、食料品や衣服、その他衣食住に関わる様々な日用品だった。そのどれもが貴族が大して使わずに捨ててしまったようなものだけれど、ここで生きている人たちにとってはまだまだ利用できる代物のようだ。
「あんたがカノリじゃな。わしはハンクス。この下町のまとめ役をしておるただの老いぼれじゃよ」
ハンクスと名乗った白髪の男性は、年を召していても伝わる逞しさと優しさに溢れたような人だった。なるほど、彼がまとめているからこそのこの町なのか、と小さく納得をする。
下町。そう呼ばれるこの区域は、ザーフィアスの最も端に位置している。お世辞にも裕福とは言えず、その日暮らしを迫られるような人々が集い暮らしている場所だ。彼らが身に纏っている服や装飾品も決して輝かしいものではなく、貴族街に住む者たちはここの住人を忌み嫌っているのだろう。それでも、と私は下町の人々を見渡す。
「良いところですね、此処は」
「はは、初めて来た奴にそんなことを言われるのは久しぶりじゃ」
ハンクスもまた、私と同じように下町の皆を見渡して豪快に笑った。
誰かが悲しい思いをすることがないように、皆で分け合い生きていくこと。弱い者に手を差し伸べるその姿。どんなに苦しくても絶えることない笑顔。その和気藹々とした空気そのものが、きっと何にも代え難いほどに尊いもので、一人で生きる前の私が憧れた景色。だから此処は素敵な場所なのだと、心からそう思えた。
ただ仕事で荷物を運んだだけなのにたくさんの人にお礼を言われ、なんとなくむず痒い気持ちを抱く。そうして帰っていく人々を見送る中、ふと町の端にあったものを見つけ、魔法にかけられたかのようにそちらへと歩みを進めた。
「これ、花壇の跡……」
その場でしゃがみこんで手を伸ばす。崩れたレンガたちは、かつてこの場所に小さな癒しの囲いを作っていたことを示していた。土もすっかり乾いているようだが、再び肥料を与え、綺麗に整えてやればまた美しい花を咲かせてくれるだろうか。そんなことを考えながら、手が汚れるのも厭わずに痩せた土に触れた。
「ああ、そこは昔フレンが世話してた花がたくさん咲いておってな。ただ、あいつが騎士団に入ってからは皆忙しくて今はすっかりこの通りじゃ」
「騎士団長さんが?」
いよいよ違和感がはっきりとしたものになり、思わず眉を顰める。一体どういうことなのか、考える間もなくハンクスは当たり前のように首を小さく傾げた。
「なんじゃ、知らんかったのか?フレンはこの下町で育ったんじゃよ」
「……え」
あの騎士団長さんが、この強く優しい町の出身。ふいに垣間見えた彼の過去に思わず目を見開いてしまう。
……何も知らなかった。そもそも、新しい騎士団長のことなんてどうでもよかったから知ろうともしていなかった。確かにかつては身分に拘らず実力だけを重視した隊があったという話を聞いたことがあるし、平民や貧しい生まれの者が騎士になることは不可能ではないだろう。それでも未だに騎士の大部分は貴族の生まれで、親に言われるがままに何となく騎士団に入団し適当に遊び呆けている人間が多いはずだ。元を辿れば騎士団も評議会も皆貴族ばかりで、心から民を想う者など一握りに過ぎない。だからこそ、悲しいことに下町の生まれの者が騎士団長に任命されているという事実も信じられないし、そういった環境で育ったあの人が何のために苦しい思いをしてまでその地位に上り詰めたのかもわからなかった。
「フレンからちらっと聞いておるが、おまえさん、騎士が嫌いなんじゃってな」
「そうですね。……大嫌いです」
吐き捨てるように出た言葉は、冷たく乾いた土に吸い込まれていく。それでもハンクスは優しく目を細め、青い大空の先を見上げた。決して遠くはない、けれども別世界のようなそこにあるのは高く聳え立つザーフィアス城。そうやってハンクスが自分の息子のように想いを馳せるのは、きっと。
「わしらもこういう場所で生きとるとな、その気持ちもわからんでもない。でもフレンの奴はいつも言っておったぞ、『大切なのは身分ではなく、全ての人に手を差し伸べられる強さを持つことだ』と」
『貴族とか貧しい生まれとか、関係ない。ボクはボクだし、カノリはカノリだよ』
遠い昔に聞いた、彼の言葉が重なった。
「わしはおまえさんのことをなーんも知らんから、これ以上野暮なことは言わん。けどフレンはあの騎士団を根本から変えていこうと今も必死で頑張っとる。せめて、あいつのその想いだけは信じてやってくれんか」
ハンクスの声に偽りが一切無いことぐらい私にもわかっていた。彼はきっと心から騎士団長さんを信じ、愛している。私も同じように彼らが過ごした日々を知らないのだから、その気持ちを否定するつもりはないけれど。……それでも、私は。
ゆっくりと立ち上がり、崩れた花壇に背を向ける。たぶん、そこにあったのかもしれない愛情からも目を背けたかったのだと思う。
「……私には、関係ないですから」
あの人がどんな人で、どんな志を抱き、何のために戦っているのかなんてどうだっていい。騎士は騎士。私は私。何も変わらないし、失ったものは二度と戻らないのだ。
私の答えを聞いて尚、ハンクスは口角を上げて笑っていた。何を言われても挫けることを知らないその姿は確かに騎士団長さんと似ていると、不覚にもそう感じてしまったのだった。
サルビア:尊敬、良い家庭、家族愛