夢でいいから抱いてくれ


どこからが浮気なのか、人それぞれラインが違う。
都合が良いのか、悪いのか。
むしろ明確に決まっていたら、人はどこまで誠実に生きて、どこからふしだらになるのだろうか。


「そろそろお茶漬け頼む?」
ぼーっとしていた俺の様子を窺うように、壱さんが声をかけてきた。
「あ、はい」
「いつものでいい?」
俺が頷くと、壱さんは店員さんを呼び止めて俺用の梅茶漬けと、自分が食べる鮭茶漬けを頼んだ。
「酔い回った?」
「ううん」
「なら良いけど。ちょっとトイレ行ってくるね」
慣れた足取りでトイレへ向かう壱さんを俺は目で追った。
そしてテーブルの上に残っている料理に視線を戻して、俺が好きな食べ物ばかりだな、と改めて思った。

壱さんは、俺のことが好きだと思う。
一度もそんなことを向こうから言われたこともないし、体の関係でもないし、そもそも壱さんには妻子がいるけど、俺は確信していた。
職場が一緒の先輩後輩だから、頻繁に遊びに誘われるわけじゃない。
壱さんはそう装っているけど、絶対にデートのつもりだと思う。
俺が話したどうでもいいことを覚えてたり、好きなものや嫌いなものを把握していたりする。
俺が好きな漫画に興味を持ったり、俺が聞いている音楽を口ずさんだりする。
俺が自意識過剰なんじゃない。
明らかにわかる。壱さんは俺が好き。
でも絶対に今よりも進んだ関係になろうとはしていない。
壱さんには妻子がいるから。
でも俺に現実逃避をしていて、可能なら、今にでもこちら側へ来たい、そんな雰囲気をしている。

「藍ちゃん、から揚げ、残ってるよ。お腹いっぱい?」
トイレから戻ってきた壱さんは、皿の上に残っているから揚げを見ながらそう言った。
「一個ずつ食べましょ」
「うん」
俺たちはお茶漬けが来る前に、二人でから揚げを頬張った。
壱さんは俺のことをじっと見て、笑っている。
俺も微笑み返す。
俺が壱さんのことをどう思っているかと言うと、おそらく俺も好きだと思う。
厳密に言うと好きの一歩手前。
好きで好きでどうしようもない、というわけでもない。
俺の方こそ家庭を壊す気はない。
だけど壱さんが子供の話をしたり、ふと奥さんから電話がかかってきたりすると、やっぱりどこか嫉妬してしまっていた。

お互いがお互いを好き。
それは間違いのないことだった。
俺たちは気持ちを打ち明けることはせず、だけどお互いがお互いの気持ちに気付きながら、よき友人として会う。
お互いを特別に想いながら、熱く見つめながら、友人のふりをする。
踏み出す気はないが、退く気もないこの不思議な関係を、俺たちは一年くらい続けていた。

「藍ちゃん、ごめん、ちょっと休んでっていい?」
飲み屋から出て歩いている途中で、壱さんは急にそう言った。
「公園でいい?」
「うん。ベンチで横になっていい?」
「わかりました」
壱さんは俺の膝に頭を乗せて、ベンチで横になった。
「水、自販機で買ってきましょうか」
「ううん。大丈夫。吐いたりしないよ」
「急に回った?」
「うん。歩いてたら。そんなに飲んでないはずなんだけど」
俺は公園の街頭に照らされた時計に目を向けた。
店を出たのはいつもより早かったけど、この分だと帰りはいつもと同じになりそうだった。
俺は壱さんの前髪を撫でる。
壱さんは長い睫毛を伏せていた。
「………」
壱さんは、きっとそんなに酔ってない。
早く帰るのが嫌で、こんなことをしているんだと思う。
俺たちはお互いに建前を作らないと、お互いに触れたりも出来ないのだ。
これって不倫なのかな、と最近よく思う。
体の関係なんてないけど。
好きだなんて言葉は交わしてないけど。
でも俺たちは怒られない程度に触れ合ったその先に、確かに恍惚とした熱を静かに感じているのだ。
お互いが気付いていることに気付きながら、わざと気付かないふりをして。


壱さんと出かけた日の夜は決まって、俺は壱さんに抱かれる想像をしながらベッドに入る。
壱さんは妻子持ちだけど、あまり性欲を感じさせない。
いわゆる草食系、と言うやつだろうか。
とにかく普通で、色気づいたことはしなさそうな人だ。
だけど体つきは結構凄くて、細身なのに腹が割れてたり体がぐっと締まっている。
そんな壱さんが欲情して、人を抱く時ってどんな感じだろう。
そうわくわくしながら、俺は目を瞑る。
壱さんの締まった体、壱さんが熱い息を吐くところ、壱さんの濡れた唇。
裸に剥かれ全身をあの熱い視線で見つめられる興奮。
俺は昂ぶったまま眠りにつく。
夢の中に出て来て欲しくて、今夜の続きを見せて欲しくて。
そうやって眠りについて、壱さんと夢で会えたことは、ただの一度もない。



「今度の日曜、バーベキューしません?赤羽さんちで」
同僚の岡登の声がして、俺はパソコンの画面から壱さんのデスクの方を見た。
「なんで僕んちなの」
「俺たちの仲間で家にお庭があるの、赤羽さんだけでしょ。俺や藍原はアパート住みだし、他の連中も社員寮で」
俺は視線を逸らす前に、岡登と目が合ってしまった。
「な、藍原。バーベキューしてぇよな」
岡登の言葉に、壱さんが俺を見る。
「……」
「ね、いいでしょ、赤羽さん。お肉とか食材はぜーんぶ俺たちが用意しますよ。それに奥さんやお子さんもご一緒なら、問題ないでしょう?」
結局岡登のお願いを壱さんは了承して、壱さんの家でバーベキューをすることになった。
壱さんの家の前までは行ったことがあったが、実際敷地に入るのは初めてだし、奥さんやお子さんも見たことがなかった。
壱さんが家族を大切にしている場所なんて行きたくない。
でも同時に興味もあって、俺は普通に流されて岡登たちと壱さんの家へ行くことにした。

壱さんの家は、洋風の可愛らしい家で、木の門から玄関までは赤レンガが敷き詰められた道が出来ている。
周りには名前も知らない花がたくさん咲いていて、白雪姫に出て来る小人たちが並んでいたりする。
奥さんの趣味が反映された家なんだなとしみじみ思う。
買い出しに行き沢山の買い物袋を抱えている俺たちを迎えたのは、奥さんだった。
小柄で、黒い髪を可愛らしく結って、唇はピンク色で、大きな目で、にこっと笑っている。
俺と岡登と、後輩三人の顔を一人ずつ見つめて、「主人がいつもお世話になっています」と丁寧に挨拶した。
「赤羽さんは?」
「庭の方で用意してます。どうぞ」
「あ、これ、デザートにと思って…。アイスなんですけど」
俺が袋を渡すと、奥さんはにこにこしながらその袋を受け取った。
「ありがとう。冷やしておきますね」
玄関から家の中へ入っていく奥さんを、俺はじっと見つめていた。
岡登や後輩は材料を持って庭の方へ回る。
遅れて付いていくと、壱さんが炭の準備をしていた。
「赤羽さぁん!奥さんめっちゃ可愛いじゃないですか!聞いてないよぉー!」
岡登がはしゃぎながら壱さんに近付いていく。
「あれっ!?もしかして向こうにいるのは!?」
うるさい声に釣られて、俺は壱さんの向こうにあるブランコに目を向けた。
壱さんと同じ顔をした男の子と女の子が、ブランコに乗って揺れている。
「お子さんですかっ?可愛いいいー!」
興奮して近寄っていった後輩は、子どもたちに水鉄砲を食らわされていた。
表からよく見えていなかった壱さんの家の庭は、子どもたちが乗るブランコや、小さいプールも置いてあって、もちろん奥さんが大事に育てているような花たちも並んでいた。
植え込みの周りに積んだ赤レンガの上に、ひっそりと佇む可愛いカエルの置物。
それをじっと見ていると、視線を感じて、俺はそっと振り返った。
用意を手伝いだした後輩たちの目を盗むように、壱さんが俺のことを見つめて微笑んでいる。
俺はその目に少しほっとした。
こんな幸せな家庭の中でも、壱さんは俺のことを特別に見てくれているのだと実感した。
俺も何も言わずに見ていると、ガラッと家の窓が開く。
奥さんが食器を持ってきてくれた。
傍にあった木のテーブルの上に置く。
「これ野菜切ってきてくれる?」
壱さんは奥さんに声をかけた。
「うん。あら、すごい、お肉こんなに買ってきてくれたの?」
「おにくー!」
「パパはやくおにく食べたい−!」
駆け寄ってきたお子さんたちは、高い声ではしゃいでいる。
「ほらほら結愛ちゃん。危ないから座ってて。巧翔、お兄ちゃんなんだから結愛ちゃんのこと見ててね」
「はぁい」
俺はおとなしく座っている壱さんのお子さんを見つめた。
ぱっと見た時は壱さんに似ていると思ったけど、奥さんにも似ているところがある。
子どもというのは、父親と母親両方の遺伝子を持っているのだと、まんまと思い知らされる。


「いやぁ赤羽さん。幸せなご家庭で羨ましいなぁ」
勢いよく食べまくった岡登は、膨らんだお腹を擦りながら壱さんに声をかけた。
壱さんの隣には奥さんが座っていて、お子さんたちは飽きたのかまたブランコで遊んでいる。
あたたかい家族に素敵な住まい、岡登の言う通り、壱さんは絵に描いたような幸せな家族だった。
壱さんは返事をする前に俺のことを見た。
今どういう気持ちなのか読み取れなくて、俺もじっと見つめる。
瞬きをした壱さんは俺から目を離して岡登に目を移した。
「岡登は結婚の予定ないのか?」
「いやぁ、俺は彼女すらいないっす」
奥さんは岡登の話をろくに聞かず、すっと席を立ち、窓から家の中へと入っていく。
戻ってきた時にはお盆を持っていた。
「そろそろデザートにしますか?」
奥さんが持ってきたお盆の上には、プリンが乗っていた。
デザートという言葉を聞いて、お子さんたちも駆け寄ってくる。
「わーい!ママのプリン!」
「ゆあもプリン食べるー!」
お子さんたちの言葉に岡登も後輩たちも驚いた。
「えっ!?もしかしてこれ奥さんの手作りですか」
「恥ずかしながら…。でも手作りって言っても、簡単なのよ」
プリンを配っている奥さんを見てから、俺は壱さんを見る。
壱さんは手に取ったプリンを俺に渡そうとした。
「お口に合うといいけど」
奥さんは壱さんよりも早く、俺にプリンを渡してくれた。
手作りのプリンは普通に美味しかったけど、奥さんは俺たちが持ってきたアイスのことに関しては、全く一言も触れなかった。

散々食べて散々飲んで、ゆったり寛いで、やっと片付けをしようとなった時にはもう夕方だった。
奥さんは中で洗い物をして、岡登や後輩は網や炭の片付けを始めた。
俺が余った材料やゴミを集めていると、壱さんも同じように集めながら俺の傍に寄ってきた。
「賑やかなのもいいけど、やっぱり二人で飲みたいね」
誰にも聞こえないこっそりした言葉に、俺は胸がざわつくほどドキドキした。
こんなに幸せな家族がいても、壱さんは俺のことを大事に思ってくれているんだと思うと体が熱くなる。
「運んでもらっていい?」
「はい、」
俺と壱さんは洗い物を持って窓から家の中へ入った。
綺麗なリビングを通り過ぎた奥の方のキッチンで奥さんが食器を洗っている。
奥さんは俺がいることに気付いてから、壱さんの方を見て笑った。
「もう、あなたったら。お客さんにこんなことさせて。ごめんなさいね、お片付けまで手伝ってもらっちゃって」
「いえ、」
俺は奥さんに皿を渡しながら、ふと奥にあるゴミ箱に目が行った。
そこにさっき渡したアイスが捨てられているように見えて、じっと目を凝らしていると、奥さんが首を傾けて俺の視界に入ってきた。
「どうかしたの?」
「あ。いえ…」
「あんまり見ないで。慌てて片付けたのがバレちゃうわ」
「すいません、」
奥さんは可愛らしいけど、俺はなんだか好きになれなかった。
壱さんの奥さんだからかもしれないけれど。
お子さんのことだって、全然可愛いと思わないし、あの子ども特有のころころした笑い声も、すごく耳障りだ。
出来ることなら、もう二度と壱さんの家族なんて見たくない。


壱さんはその日の夜すぐに、二人で飲もうとメールをしてきた。
俺はもやもやしたけど、俺たちの関係はあくまでも友人や先輩後輩で、決して付き合っているわけではない。
断る理由なんてものもなくて明日仕事が終わったらそのまま飲もうという話になった。

「飲むんじゃないんですか?」
勤務後、壱さんは駐車場に停めていた車に俺を乗せた。
男同士なのにやっぱり心の中にやましさがあるせいか、お互い言葉も無く隠すように俺は後部座席に座る。
何が悲しくてチャイルドシートが乗っている車なんかに乗らなくちゃいけないんだろう。
「藍ちゃんは飲んでいいよ。車だったら電車の時間、気にしなくていいでしょ」
「片方シラフなのに、そんなに長くなりますかね」
「だって昨日は全然話せなかったから」
「…………」
壱さんは、きっと俺が好き。
少なくとも今は、奥さんよりも気がこっちに向いているはず。
そう思うのに、心に余裕なんてものはない。
結局のところ、俺は一人で、壱さんには家族がいる。
「はぁ」
俺は背もたれにどっかりもたれかかった。
「なんでため息ついてんの」
「べつに」
ため息の原因にあやふやな気持ちを話すわけにもいかず、俺は無愛想に返事をした。
そしてふと、ドアに備え付けてあるドリンクホルダーの中に、何かが入っていることに気付く。
覗き込んでみると、しおれたつくしが入っていた。
「………………」
眉間に皺が寄る。
つくし。
壱さんは俺と違って、人並みの幸せがある。
なんで俺なんかに時間を割くのだろう。
正直、俺のことなんか構わないで欲しい。
幸せな家庭を見せつけられたあとの何もない俺には、嫉妬心しか生まれない。

「生!おかわり!」
いつもの飲み屋で、俺はいつも以上に飲んだ。
俺が空いたジョッキを差し出すと、壱さんは笑いながらそれを受け取った。
そして店員さんに注文を通してくれる。
「乗り気じゃなさそうに見えたけど、ぐいぐい飲むね」
酔いたくなる原因が俺を見て微笑む。
その目はやはり、俺に好意を向けていた。
俺は酔っ払ったふりをして机に顔を伏せる。
「…いちさん、」
「うん?」
「俺たち、男同士ですけどね、壱さんがもし独身だったら、俺と壱さんは付き合ってたと思いますか?」
自分で訊いておいて、なんてことを口走ったのかと焦る。
間は決して静かではなかった。
周りの騒ぎ声が繋いでくれる。
それにしても返事が来るまでがなぜか怖かった。
「付き合ってたと思うよ」
壱さんの返事に、俺の推測は確信に変わった。
壱さんはやっぱり俺が好きなんだ。
そして俺も。
「そうですか」
壱さんは、俺がどう想うのかを訊いてこなかった。
俺の質問で悟っただろう。
俺たちはお互い想い合っているのに、それを言わずに、気付かないふりをしながら、心の奥を熱くしているのだ。
もちろん、俺も壱さんも、家庭を壊す気などない。
だけど触れてみたいと、思っている。


俺たちは店を出たあと、公園の前に車を停めて、またベンチへ座った。
壱さんは飲んでないくせに、俺の膝を枕にして寝転がる。
「壱さん、耳にほくろあるね」
「耳の後ろ側にもあるよ」
「ほんとだ」
ふざけたふりをして、俺たちはお互い、必死で触れる理由を探している。
本当はもっと、熱い場所に触れたい。
お互いそう思いながら、触ろうと思えば誰でも触れるような、当たり障りのないところに触れる。
「壱さん、」
俺が呼ぶと、壱さんは俺の顔を見上げた。
「ん?」
「…………」
「なに?」

「なにしてるの?」
俺が口を開く前に聞こえてきた声に、俺ははっとした。
壱さんも起き上がって、声がした方を見る。
公園の外灯の下に、壱さんの奥さんが、立っていた。
「…」
悪いことをしていた現場を抑えられたわけでもないが、心臓がうるさく鳴り始める。
だけど結局俺たちは何もしていなくて、男同士だから、浮気だとか不倫だとか、そんな風には見えないはずだと言い聞かせた。
自分を落ち着かせようとしている俺や壱さんに、奥さんは一歩ずつ近寄ってくる。
「ねぇ、離れて」
だけど、気付かれていないはずだと思う方がおかしい。
現に奥さんがなぜここにいるのか、それは奥さんが俺と壱さんのことをどう思っているのかを表している。
「離れてよ!」
奥さんが少し声を荒げた。
壱さんは立ち上がって、奥さんに駆け寄った。
「絵津子、どうした?巧翔たちは?」
こんな状況なのに、奥さんってエツコっていうんだ、なんて思ってしまう。
奥さんは昨日の可愛らしい笑顔をどこかへ隠して、怖い顔をしていた。
落ち着かせようとしている壱さんの腕を振り解きながら、俺や壱さんを睨みつける。
「ねぇあなた、どういうことなの」
「どういうことって…、なにが…」
「なんであの人と一緒にいるの!」
奥さんが俺を指で差す。
「後輩とご飯食べに行くって言ったろ。なんでそんなに怒ってるんだよ」
後輩とご飯。壱さんの言葉は何も間違ってはいない。
俺たちは結局男同士で、体の関係なんてものはないんだから。
だけど奥さんの様子を見るに、奥さんだって、俺たちの心に気付いていたんじゃないだろうか。
だからここにいて、俺たちを責めているのだ。
「後輩にそんな目しないわよ!」
案の定、奥さんはそう言い放った。
そして俺の方へと歩み寄ってくる。
壱さんは止めようとするが、奥さんは無理矢理近付いてきた。
「あなたもどういうつもりなの。この人は私と結婚しているし子どももいるって知ってるでしょう」
「俺が誘ったのに付き合ってくれてただけだって、」
壱さんの言葉を奥さんは無視して俺を見る。
その圧と言ったらない。
女の人なのに敵う気がしない。
「…何もしてません…。ごはん、ご馳走になってただけです…」
俺は奥さんの目に勝てなくて、俯いた。
「あのねぇ…本当に純粋な職場の関係だけなら…私に言われてそんなにうろたえないでしょう……本当に何もないなら……二人で恋人同士みたいな顔しないでよ……!」
「絵津子、」
「男同士だからばれないとでも思ったの?」
奥さんの震えた言葉は壱さんに向いた。
「私はあなたの妻よ…。あなたがよそ見していたらその相手が男だったとしても気付くわ」
少し顔を上げて様子を見ていると、奥さんはまた俺の方に目を向けた。
見つめられるほど心臓が冷えていく感覚がする。
「あなたたち、きっと本当に何もしていないんでしょうね…。だからこれは浮気じゃないとか、不倫じゃないとか、引き返せるとかまだ大丈夫とか、そう思いながら会ってたんでしょう…っ」
奥さんは俺と壱さんに、ゆっくりと交互に顔を向ける。
「言わせてもらうけどね…!体の関係からが浮気じゃないの…家庭があるのに、他に気持ちが移った時点で浮気なのよ!好きになってはいけないって思った時点でそうなの!なにが何もしてませんよ…っ!キスしてないから、セックスしてないからセーフじゃないの!誰かの目を盗んで!お互いにしかわからない言葉で!じっと見つめ合うのは!セックスしたのと同じなの!体を繋げてなくてもっ、心の中で想い合ってる方が罪なのよ!」
奥さんは大きな目をもっと開いて、涙を滲ませながらそう強く言った。
俺は全然言葉が出なくて、ただ唇をきゅっと強く噛むだけだった。
「絵津子、落ち着いて。俺と藍原くんは本当にそんな関係じゃない」
壱さんは取り乱している奥さんの体を抱きしめるようにして抑えた。
「うそよ!私にはわかるの……っ!初めて会った時から…っ!この人があなたを誑かせてるんだって思ったんだから……!」
「絵津子!」
俺は昨日のゴミ箱に捨てられていたアイスが見間違いではないことを、今やっとわかった。
だからなんだと言うわけでもないが。
「絵津子、ほら、もう帰ろう、」
「もう二度と二人で会わないで…っ!あなたもわかったでしょ…っ!私たちは家族なの…っ!邪魔しないでよ…っ!」
壱さんの腕から逃れるように、奥さんは俺に向かって言い放った。
「ごめん、俺、絵津子連れてくから…、電車、まだあるよな?」
壱さんは奥さんを無理矢理車の場所まで移動させようとしながら、俺に言った。
帰りの方法なんて、俺の中では重要ではなかった。
泣きながら必死で訴えている奥さんを見て、俺がこんな顔をさせてしまっているんだ、と思っていた。
「…奥さん、俺は本当に……、あなたの家族を壊すつもりなんてないです……」
奥さんは俺を強く見つめた。瞬きをしないその目からは涙が数滴零れ、頬を伝っていた。
「おやすみなさい」
壱さんは俺のことを呼び止めたいって顔をしていた。
だけど俺は逃げるようにして二人に背を向けた。
奥さんに責められて思い知る。
俺は壱さんのことが好きだった。
自分が思っているよりも、ずっと、ずっと。


心を削って家へ帰っても、おかえりなんて言ってくれる人もいなくて、暗くなってきたからって明かりを付けておいてくれる人もいなくて、しんと静まり返ったいつもの俺の住処は、改めて孤独を感じさせた。
水を飲んでもシャワーを浴びても、奥さんの言葉は俺の耳にずっと残って響いている。
「…………私たちは家族なの………」
羨ましい言葉を呟いてみただけで、苦しくなる。
俺は、せめて枯れたつくしを見つけた時に、無理矢理にでも帰ると言うべきだった。
「壱さん……」
お互い、好きだと言わなかった俺たちは、とうとう好きだと言えなくなった。
皮肉にも奥さんの怒りで俺たちはお互いの愛を知り、お互いを諦めることになったのだ。
浮気って、どこからが浮気なんだろう。
奥さんの必死な顔が忘れられない。
もしかしたら、どこまで関係を持ったかではなくて、家族を傷つけてしまったら、それはもう浮気なのかもしれない。

「いっそ、本当に抱かれたら良かった……」
そうすれば思い出と一緒に、諦めもついたかもしれないのに。
ぼやけていく視界を闇に変え、愛しい人に包まれる夢を、俺はただ、希った。

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