久遠


久遠が自分のデスクの上に脚を置いて、指名待ちの処理課員たちとぽつぽつ言葉を交わしているところに処理課の扉がノックされた。
「おー、入ってきていいぞ」
久遠がそのままの姿勢で扉に向かって声をかける。
「やぁ、元気にやってるかな?」
開いた扉からは、社長が顔を出した。
「なっ…、」
久遠はサングラスの奥の目を丸くして、慌てて長い脚を下ろす。
社長は微笑を浮かべながら処理課の中を見渡した。
「相変わらず皆かわいいね」
そう言ってから目線を久遠に向ける。
「でも君が一番だよ、千秋」
「…何か用ですか…」
「うん、頼みたいことがあるんだけど」
久遠は返事をして少し慌てながら席を立つ。
「わ、わざわざ…、電話で呼んでくれればいいのに、」
久遠はそう言いながら、社長と処理課を出て行った。
二人の退出を見守っていた処理課員たちは、静かに目を合わせる。
「…課長のあんな顔初めて見たねー」
佐倉の言葉に、新穂は首を傾げた。
「え?なんスか?」
状況がよくわかっていない新穂の額を、間宮が指でピンッと弾く。
「いて」
「まぁ…一つ言えんのは…、東雲がいなくて良かったってことだな……」


社長がすたすた歩いていく後ろを、久遠は何事かと思いながら付いて行く。
いつも一緒にいる秘書の如月の姿も見えなかった。
落ち着かず周りをきょろきょろしていると、廊下を歩く他の社員の視線が向けられていることに気付く。
「………」
その中に同期の常磐の姿もあったが、久遠はそっと目をそらした。
「そうだ」
いきなり立ち止まった社長に、久遠はぶつかっていく。
「す、すいません…」
「今日はこれ、要らないかな」
振り返った社長はそう言いながら、久遠のサングラスをそっと外した。
そして久遠の顎をくいっと上げて、素顔をじっと眺める。
「うん、この方がいいね」
「…なんなんですか」
「こっちの準備は…?」
社長は久遠の尻の割れ目をスラックスの上からなぞった。
久遠は長い睫毛を伏せる。
「急なんで、まだ…」
「そう、なら私がしてあげよう」
「えっ」
社長の言葉に久遠は驚く。
「来なさい」
久遠は社長に手を引かれて、近くにあった会議室へ入った。



「あっ、…は、あ…あン…っ」
社長は久遠に壁へ手を付かせてアナルに舌を這わせた。
「な、にも…っ舐めなくったって…っ、あ、あ…っ」
久遠は社長の舌の動きに悶えた。
何かを握りたくて動かす指は壁を引っ掻く。
「社長…っ、あっ、ん…っ」
社長の舌が中に入り込む。
いやらしい水音が耳を犯し、直接的な快感と混じって久遠は体が熱くなった。
「も、いいです…、社長…っ、もういいから…っ」
久遠の言葉を聞いて、社長は顔を離した。
そして指を久遠のアナルへ挿入する。
「あっあっ、あぁッ」
社長の長い指は無遠慮にアナルの中をぐちゅぐちゅとほじくり、掻き回した。
「うん、柔らかいね」
社長はそう言って指を抜いた。
「もう入る?」
「はい…、入ります…っ」
久遠は社長のペニスが挿入されることを待ち望んだが、社長はそれをしなかった。
「君にお願いしたいことは処理じゃない。さ…、着直して」
「……っ、?」
久遠は熱い息を吐きながら、社長の方を振り返った。
「さぁ、接待だ」


性欲処理課で性欲処理が出来るのは社員だけと決まっていた。
「ライバル社からの引き抜きを考えてるんだ。契約成立のために君を使いたい」
接待に疑問を持つ久遠は、応接室までの移動中に簡単に説明された。
「彼はいつも如月くんのことを性的な目で見ていてね。要は性接待さえすれば引き抜くことが出来るんだ。かと言って性接待を秘書課の彼にさせるわけにもいかないだろう」
「……そうですね」
久遠は無表情で返事をした。
社長は振り返っておとなしく言うことを聞いている久遠を見る。
「君にしか出来ない仕事だ」
「わかりました」
久遠が内心やりたくないと思っていることに、社長はすぐに気付いた。
それを慰めるように久遠の頬を撫でる。
「悪いね、千秋。この仕事が終わったら、私の部屋へ行こう」
「………はい」
社長は久遠の唇へ、そっと口付けた。


「何度言われてもね、僕だって今の会社を裏切ることになるわけですから難しいですよ。まぁどうしてもって言うなら、それなりのことがあると思いますし」
応接室のソファにどっかり座り込んでいる男は偉そうに物を言った。
少し無理を言っても認められる程度の価値があると自負しているらしい。
こんな男が本当に必要なのかと久遠は疑問だったが、人事が絡まず社長直々に口説いているところを見ると力がある人物ではあるようだった。
男の向かい側に座る社長は、男の横柄な態度を気にすることなく笑顔を向ける。
「えぇ、今日はそれなりのことをさせていただくつもりです」
社長の目線の先には久遠がいた。
男はその視線に気付いて部屋の隅にいた久遠に目を向ける。
「いつもの人じゃないんだね」
如月のことだった。
「あれは秘書ですから…電話の応対とスケジュール管理くらいしか出来ません」
男は久遠の全身を舐め回すように見た。
「彼はお茶も出せないようだけど」
男は嫌味っぽく社長に言った。
いつも如月が出しているお茶を、久遠は出さなかったのだ。
しかし社長は口の端を上げて笑う。
「彼にはその必要が無い。彼自身があなたへのもてなしですよ」
「え?」
男は社長の方を見た。
社長はさらに笑みを深くする。
「隣の部屋は、仮眠室です」


男は目を付けていた如月ではないことについては不満だったが、提供された久遠の色気には素直に喜んだ。
社長の言葉に導かれるまま仮眠室へ入る。
「美人が多いのはおたくの社長の趣味かな」
男はそう言いながら仮眠室全体を眺めてから、後ろにいる久遠に目を向けた。
久遠はすでにジャケットを脱ぎ、スラックスから脚を抜いたところだった。
男は何の躊躇いもなく始まろうとしている行為に内心戸惑う。
久遠はワイシャツ一枚の姿で、男に歩み寄った。
他の処理課員と同じような長めのワイシャツを着ているのは社長命令だ。
久遠に釘付けになった男は、久遠に迫られて後ろにあったベッドへ倒れ込む。
久遠はその上に跨がって、名前も聞いていない男の唇へ口付けた。
「ん、」
男は自分で性接待を求めながらも、実際行われようとしている事実にかなり焦った。
戸惑ったままの男の唇を、久遠の唇が甘く、しかし刺激的に啄む。
「っ」
久遠がそっと唇を離すと、男は改めて久遠の顔を間近で眺めた。
「あんたも…」
綺麗、その言葉は久遠に耳を舐められて出なくなった。
久遠は耳を噛んだり穴の中に舌を入れ込んだりして堪能する。
男はぞくぞくと体を震わせた。
久遠はそんな男の手を掴み、自分のワイシャツの裾の中へ導く。
「っ!」
男は驚いた。
ワイシャツの下の久遠は何も身に着けていない。
確かにスラックスしか脱いでいないのに、と男は焦った。
性欲処理課の存在自体を知らない男は、それがもはや日常であると知ったらどう思うのだろうか。
久遠は自分の穴を男に触らせた。
「ここ…」
濡らした耳にそっと囁く。
男の指に、ヒクヒクしているわずかな感触がした。
「いつでも、大丈夫ですから」
久遠に見つめられながらそう言われた男の心臓はうるさく鳴っていた。
「大丈夫って…なにが…」
男の言葉に久遠はさらに耳を舌や唇で弄りながら、少し主張しかけている男のペニスをスラックスの上からなぞった。
「これ」
「……、マジ……?」
横柄な態度をとっていた者とは思えないほど、男は消極的になった。
久遠は男のベルトを外して、スラックスの前を開けた。
下着の上からペニスを弄りながら、久遠はまた男にキスをする。舌を入れると、男はそれに負けじと絡め合う。
そしてついに気乗りがしたのか、男も久遠の尻や太股をいやらしい手つきで撫でた。
久遠も空いている手を男のワイシャツの下から忍ばせ、肌を撫でて乳首を弄る。
「は、ぁ…」
久遠が唇を離すと、まだするつもりでいた男が空気にキスをした。
久遠はそれを見てもう一度だけ唇を重ね、男の上から身をどけた。
男は自分のペニスが、下着にテントを張り主張しているのが丸見えになる。
久遠はその下着をそっと下ろした。
「っ」
勃起したペニスに、久遠は舌を這わせた。
臭いが鼻をついたが、久遠は顔に出さないで男のペニスを舐める。
社長の頼みでなければ、こんなことはしないのに。
そう思いながら男の汚いペニスをねっとりと舌で嬲った。
「はっ、ぁ…っ」
男は息を荒くする。
自分のグロテスクなペニスの傍に綺麗な顔がある光景にはギャップがありすぎた。
「ん…っ、ん」
裏筋を舐められてゾクゾクしたと思えば、そこからぱくっと亀頭を咥えられ温かい口内に包まれながら中で舌がチロチロと先端を苛める。
男は熱くなってジャケットを脱ぎ、ネクタイも外した。
「うおっ」
久遠の手が男の睾丸を優しく触る。
「はっ…」
男のペニスはそのまま身を委ねれば普通に射精してしまいそうになっていた。
「…、もういいよ」
男は自分のペニスを熱心にしゃぶっている久遠に言った。
久遠は口からペニスを抜いて、男を見る。
「挿れさせてよ」
男の言葉に久遠は口の端を少し上げた。
もう一度男の体を跨ぎ、尻穴に男のペニスを当てた。
「はっ、は…、は、」
男が興奮から息を荒くする。
こんな美人な男とセックスが出来る、そう思うと堪らない気持ちになったが、久遠はなかなか挿入しようとしなかった。
「…どうしたの」
「これ」
久遠はどこからととなく書類を男の目の前に出した。
男が焦れったくなりながらも目を向ける。
契約書だ。
「ここで来るか?」
男は顔を引きつらせた。
「うちの社員じゃないと、挿入出来ません」
久遠が事務的に返事をする。
「サービスしてよ…接待なんだろ?」
「今までのがサービスですけど」
久遠はそう言いながら腰を動かして自分の尻の割れ目で男のペニスを擦った。
挿入したい。男はそれで頭がいっぱいになる。
「…わかったよ……」
久遠はその言葉を聞いて、一度男の上から身をどけた。
元々この会社に移る気にはなっていた男は、すぐに署名し、ジャケットから印鑑を取り出して契約書に押した。
久遠は内心ほっとする。
「とんだブラック会社だな」
男はそう言って、久遠を押し倒した。


「はっ、ぁ、あ、も、無理……っ、もういいって…っ!」
男は悶えながらそう言った。
久遠のアナルは男のペニスをきゅっと締め付けて離さない。
「まだ四回目だろ?まだ出るって」
久遠は笑って男のペニスをいたぶった。
男は久遠のテクニックに何度も射精したが、久遠の方は射精するどころか声も上げない。
ただただ搾り取られ、男はヒイヒイ鳴いた。
「もう出ねぇって、あっ!」
久遠が騎乗位で腰を動かしながら、男の乳首を触る。
「勘弁してっ、あっ!あ!」
男はそう言いながらまた少しだけ射精した。
久遠はもう二度とこの男の処理をしたくなかったため、搾り取る勢いで相手をした。


男がもう立てない、と言っているので仮眠室のベッドで休ませたまま、久遠は応接室に戻った。
しかしそこに社長の姿はない。
久遠は応接室にある内線で、社長室に電話をかけた。
『はい。秘書の如月です』
電話に出たのは如月だった。久遠は自分の名前を告げる。
『社長はもうお帰りになりました』
そんなことだろうな、と久遠は思った。
社長が、期待させるだけさせて落ち込ませるのはいつものことで、久遠はそのパターンに慣れていた。
こういう時の如月の機械のような冷静な口調も聞き慣れている。
「わかった、ありがとな」
『お待ちください』
切ろうとしていた久遠を如月が呼び止める。
『社長から久遠課長へ、伝言を預かっています』
「なんて?」
『契約成立おめでとう。君のおかげで助かった。礼を言う。ーとのことです』
久遠は如月に気付かれないように笑った。
久遠が接待の話を受けた時点で契約が成立することを解っていた社長は、特に様子を窺いもせず、伝言だけを用意してとっとと帰っていたのだ。
久遠は、そんな酷い社長が大切にしている秘書へ礼だけ言って、今度こそ電話を切る。
「…あのおっさん…本当狡いな…」
久遠はそう言って笑いながらも、胸の奥が重くなっていた。


スーツに着替えたいところではあったが、下半身がべたべたに汚れているため久遠は気が引けながらもワイシャツ一枚で社内を歩き回った。
いつもスーツを纏っている久遠が、他の処理課員と同じ格好をしていることに周りの社員が驚きながら目を向ける。
「じろじろ見てんじゃねぇ糞が、働け」
しかしそう一言言えば社員たちは怯えて目をそらし避けていくので、とくに羞恥は感じない。
ただこの格好で常に動き回っている自分の部下たちを改めて尊敬した。
「…久遠?」
廊下を歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。
久遠が振り返ると、同期の常磐が立っていた。
久遠は露骨に嫌な顔をする。
「お前、なんだよその格好」
サングラスをかけていないことも珍しい上に、ワイシャツ一枚という格好に常磐は戸惑った。
「うっせー色々あんだよ」
「どうせまたあのおっさんだろ。連れてかれてたもんな」
久遠は社長に呼ばれて歩いている最中、常磐と目が合ったことを思い出した。
「お前には関係ねぇだろ」
久遠はそう言って背を向けた。
しかし動いた拍子に、持っていたジャケットのポケットから契約書が落ちる。
常磐はそれを拾って、紙を開いた。
目を通して、ライバル社からの引き抜きがあったことに気付く。
「返せよ」
久遠は常磐の手から契約書を取った。
「お前まさか…」
「………」
常磐は目をそらした久遠の表情から全てを悟った。
その瞬間体が熱くなり、常磐は久遠の腕を引っ張ると近くにあった仮眠室へ連れ込んだ。
「何すんだよ!」
ベッドに押し倒された久遠は文句を言った。
常磐は逃げられないように上から抑えつける。
「お前いい加減に気付けよ、あのおっさんは、お前の気持ちを利用してるんだぞ」
「…そんなこと…っ、」
「なんだよ、」
久遠は自分を真っ直ぐ見る常磐から目をそらした。
「…そんなこと、わかってるよ」
「……」
「今更…、わかりきったこと、いちいち言ってくんじゃねぇよ糞が…」
常磐は胸の奥が締まるのを感じた。
久遠のことが好きだからこそ傷つく顔は見たくないのに、久遠は傷ついてでも社長のことを想っていたいらしい。
「社長の気持ちには気付いて…、俺のことは気付いてくれないのか」
久遠は常磐に視線を戻すことが出来なかった。
何度もそれらしい態度を取られながら、常磐の気持ちに気付かないわけがない。
それに応えることが出来ないから、気付かないふりをしているのだ。
“私には好きな人がいるから、あなたの気持ちには応えられない”
その事実をなんとなく感じ取るのと、直接本人から言葉で言われるのとでは重みが違う。
社長に想いを寄せる久遠は、社長が自分ではなく秘書の如月を想っていることは随分前から気付いているが、それを言葉にされるまではまだ想い続けられると思っているのだ。
だからこそ自分も、常磐を直接的な言葉で突き放すのはやめていた。
一縷の望みで、毎日変わらず生きていけるということがあるのだ。
しかしそんな想いを知りもしない常磐は、いつもいつも素直な気持ちをぶつけ現実を突きつけては久遠の気持ちを掻き乱す。
「…常磐…、そんなに苦しそうな顔で、俺に想いをぶつけるのはやめてくれ…」
久遠は小さな声でそう言った。
「お前を見てると…、押し殺した自分を見てるみたいで、辛くなるから…」
常磐は返事をしなかった。
代わりに久遠の顔を自分の方へ向けて、キスをした。
「…どうせ自分の気持ちに嘘つくんなら…、俺のことを好きになれよ…」
「……」
「心の内では、あいつのことを好きなままでいいから」
そう言った常磐を見て、久遠は性欲処理課に身を置けば、いつかは社長に触れてもらえると思った時の自分と重なった。


「あっ、あ、あん…、そこ、嫌…っあっ、あぁ…ッ」
常磐は久遠が感じる場所をペニスでごりごり抉るように突いた。
悶える久遠の手を強く握り、唇を重ねる。
「ふっ、ん、ッ、んんッ…!〜〜っ…!」
常磐が舌の裏側を舐めると、久遠の全身を快感が電撃のように駆けめぐる。
「あっあぁ…ッ!」
久遠は性感帯を全て嬲られているような状態で絶頂を迎えた。
社長にアナルを弄られた時も、性接待をした時もイけなかった久遠は、やっと精を出せる喜びを感じる。
いつの間にか目元に流れた涙を、常磐が優しく舐めた。
久遠は他の社員の性欲処理をしても、なかなかイかず逆に搾り取られる、なんて話を常磐は耳にしたことがあった。
自分が触れた時にきちんと感じてくれている久遠を見て、常磐は少し期待をしてしまう。
テクニックとか性感帯とか、そんなことではなくて、もっと何か別の想いがあるのではないかと。
「久遠…、っ、」
まだ果てていない常磐は、腰を動かす。
久遠は絶頂の余韻が続く中、新たな刺激を与えられ声を上げた。
「あっあっ!待っ…、あっ、あぁ…ッ!常磐っあ、ぁン」
「好きだ…、俺は、お前じゃなきゃ…っ」
「あ、あっ、あン…ッ常磐…、あっあぁ…ッ!」
常磐は久遠の中に入ったまま射精した。

なぜあんな嫌な男のことが好きなのか、なぜ自分ではいけないのか、自分に足りないものはなんなのか。
常磐は抱いた疑問を久遠に聞くことは出来なかった。
その答えは、自分が久遠に言ったことと同じなのだ。
久遠の場合、社長じゃなければ意味が無い。
社長より優れてようが劣っていようが、そんなことは問題ではないのだ。
いつも性欲処理が目的ではない、慰め合いの行為をする二人は、どれだけ精を吐き出しても、心が晴れることはなかった。

偶然、この仮眠室にはシャワー室が備え付けられていた。
久遠はそこで身を綺麗にして、今度こそいつものスーツに着替えた。
仮眠室を後にしても、久遠の後ろから常磐は付いてきた。
エレベーターの前で一緒のように止まるので、久遠は振り返る。
「付いてくんなよ……」
「俺もこっちに用があんだよ」
「…あっそ」
二人がエレベーターが来るのを待っていると、後ろから久遠を呼ぶ声がした。
二人して振り返ると、帰ったはずの社長が後ろから歩いてくる。
「社長、」
常磐は社長を見てから、隣にいる久遠の顔を見た。
久遠は自分からも社長へ歩み寄っていく。
「どうしたんですか」
「あぁ、これ、返すのを忘れていたなと思って」
社長はそう言って胸元から久遠のサングラスを取り出した。
そう言えば渡したままだったと、久遠は見せられて初めて気付いた。
「すいません、わざわざ」
「…まぁ、ない方が素敵だけど…」
社長はそう言って後ろにいる常磐に目を向けた。
「君に惚れる男が増えても困るし、掛けててもらった方がいいかな」
そう言って、すぐ久遠に視線を戻す。
「それにしても悪かったね、先に帰って。用事を思い出してね」
「…いえ」
「君のおかげで引き抜きも上手くいった。明日、私の部屋に来てくれ。君を甘やかせたい」
社長はそう言って久遠の頬を撫でた。
先ほどの行為中に少し期待を抱いた常磐は、それが甚だしい勘違いであったことを思い知らされる。
社長を見ている時の久遠の表情は、見たことがないものだった。
あの熱い眼差しを独り占めできるうえに、答えようとしない社長に、常磐は浅ましい嫉妬心を抱く。
「それじゃあ、」
社長がその場を立ち去ると同時に、エレベーターが到着した。
常磐が乗り、久遠も社長を見送ってから乗り込んだ。
「なんでもあいつの言うこと聞くんだな」
エレベーターのボタンを押しながら常磐は性接待の話をぶり返した。
「命令だから」
久遠の返事を常磐は気に入らなかった。
社長命令ではなくあの男の頼みだからだろ、と思った。
「もしあいつが、死ねと言えば死ねるか?」
常磐は子供じみた質問をした。
ただの嫉妬から来る意地悪だったが、久遠はすぐに返事をした。
「ああ」
常磐は久遠の方を見た。久遠は常磐の方を見てはいなかった。
「あの人にとって要らねぇ存在になったら、俺は生きてる意味がねぇんだ」
久遠の言葉に、じゃあ俺は今、生きている意味はないのだろうかと、常磐はぼんやり天井を見つめた。


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