南雲薫と雪村綱道の死後。僕と千鶴は古びた家を住居に据え、ささやかなしあわせにひたりながら暮らしていた。 そんな中、ひとりの女が訪ねてきた。 驚きはしなかった。きっといつか来るだろうと予感はしていた。 井戸から水を汲んでこようと桶を片手に外に出ようと扉を開いた先に、彼女はいた。 「やあ。ひさしぶり」 いつも南雲薫の傍にいた女が、僕の視線の先に立っていた。声をかけると、ざあっと風が吹き、彼女の長い黒髪をさらった。それに伴い、木々が、草が、揺れる。女はふっと口元をゆるませ「随分穏やかね」と答えた。 僕は問いかけようとした。君は、薫の死を知っているの?と。 そう問いかけようとする前に、彼女の返事よりも先に千鶴の声が背中に届いた。 「総司さん?誰かいらっしゃったんですか?」 ぱたぱたと小走りで僕の隣に並んできた。千鶴のあどけない顔つきは目の前の女を見ると、一瞬にして変わり、目を見開き、両手で小さな口を覆った。 「椛さん…!」 「ひさしぶり。千鶴ちゃん」 へえ。椛って名前なんだ。女は千鶴を見ると目を細め、ひらひらと手を振った。 「総司さん、かあ。下の名前で呼ぶようになるの遅すぎでしょう。何年かかっているの」 くすくすと小さな笑い声を漏らす彼女に千鶴は戸惑い気味のようだった。僕に疑問をこめた視線を走らせる。どうして椛さんは私たちのもとに訪れたのでしょう?薫の死を知って復讐するためにきたのなら納得するのですが、そんな様子微塵も感じませんし…と千鶴の目は雄弁に語っている。 「千鶴はわかりやすいなあ。まあ、そこが可愛いんだけど」 「そ、総司さん!?こんな時になにを!?」 千鶴はからかわれるとすぐ顔を真っ赤にしてあたふたする。これだから千鶴苛めはやめられない。 「ちょっとー、独り身の私にたいしてのあけつけととらえていいのかしら、それ」 彼女は腕を組んで嫌そうな口ぶりで言う。だが口振りとは違って表情は愉しげだった。 本当に、どうしてここへ来たんだ、彼女は。僕が薫を殺したことを知って僕を殺しにきたのだろうか。いいや、それはないな。彼女は殺意を隠しているという訳ではない。僕は元新選組一番組組長だ。前線から離れたとはいえ、目の前の人物の隠された殺意を見抜けないことは絶対にないと断言できる。 「ねえ、薫は死んだの?」 彼女は気軽に日常の会話のひとことかのように、僕に問いかけた。隣で千鶴が「っ」と小さく息を呑んだ。 「死んだよ」 「そう」 「僕が殺した」 「でしょうね」 淡々とおだやか交わされるやりとり内容は不穏なもの。薫を殺した男が目の前に立っているのに彼女は顔色一つ変えなかった。 「そ、総司さんだけじゃないです…!私も薫を殺したようなものです!」 千鶴が身を乗り出して、震える手を胸に当てながら声を張った。そんな千鶴を見て、彼女はプッと吹き出しけらけら笑った。 「大丈夫よ千鶴ちゃん。私あなた達のこと憎くないから、本当に。私はただ、薫が本当に死んだのかどうか知りたかっただけ。…いや、違うか」 彼女はフッと、いまにも消えてしまいそうな、儚げな笑みを浮かべた。 「薫の死を確認しにきただけ、の間違いね」 彼女は長い髪の毛を耳にかけて、今日までの生活のことをぽつりぽつりと吐露した。 あの馬鹿。あなたと戦う前に私になにも言わなかったの。それどころか、睡眠薬を私に盛ってね。ひどい話でしょう?いたいけな女性に薬を盛るだなんて。 目が覚めた時、薫はどこにもいなくて。その時、ああ、薫はどこか遠くへ手の届かないところへいってしまったんだって、悟った。 でも、薫に置いて行かれたなんて私の自尊心が許せなくて。私が置いていくならともかく、あの馬鹿が私を置いていくなんて。 ひとりじゃなんにもできないくせに。あの女男。 「殺されて、自業自得ね」 憎々しげな物言いとは裏腹に、彼女の声はとても震えていて、いまにも折れそうだった。 「…変な愚痴をきかせてごめんね、千鶴ちゃん」 彼女はにっこりと千鶴に笑顔を向けた。 「い、いえ、そんな…!」 「ちょっと、僕には謝罪ないの」 「うーん。ちょっとあなたには謝罪する気ないかな。自業自得とはいえど、薫を殺した男だしね」 「ま、別にいいけど。で、これから君はどうするの?」 彼女は僕の問いかけに、どうしようかしらね、と他人事のように言った。 まさか、この人。 「死ぬつもりなの?」 さらに続く僕の問いかけに、彼女は目を見張った。それから、ぷっと噴出した。 「ふふっ、ふふ…っ。残念でした。私は千鶴ちゃんのように殊勝な女じゃないの」 ひとしきり、くすくすと肩を震わせて笑ってから、あーおかしかったと目尻の涙を拭いている彼女は、話をこう続けた。 薫のあとをすぐ追うなんて絶対嫌。そんなことしたら、あいつは絶対に調子に乗るもの。 だから私たっぷり長生きしてやるの。結婚とかもちゃんとして、子供も産んで。 それで、どう?あんたなんかいなくても私は幸せなのよ、って、見せつけてやるの。 「だから、私は、生きる」 僕と千鶴を真っ直ぐに見据えて、凛とした声で、誓うように、彼女は言った。 「…南雲薫の墓あるけど、連れて行こうか?」 *** 「忘れ物はないわね」 そう言っても、この家には私しかいないので誰も返事を返してくれない。そんな生活にももう慣れたけど。 明日私はこの家を出ていく。江戸にくだって住み込みの仕事を見つけて、あとは…まあ、なんとかなるだろう。家事は一通り身に着けているし、自分で思うのもなんだが、長年苦労してきた甲斐があって忍耐力だけはそんじょそこらの女の何倍もある。 「あー、つかれた」 どさっと寝転がって天井を見上げる。日はすっかり暮れてしまい、ろうそくだけが明るさを保っていた。 沖田総司に連れられて、私は薫のお墓にいった。墓石に見立てられた小さな石の下に薫の骨がある。と、頭では理解しつつも、なんだか実感がいまいちわかなくて。ぼうっと薫のお墓を眺めている私に沖田総司は言った。『泣かないの?』と。 私は薫がいなくなってからも泣かなかった。 死んでいるに違いないと、ほぼ確信していたのに。 それでも、泣かなかった。泣けなかった。 何故なのか、よくわからない。 それにしても。あれだけ苦しめられた薫のお墓をつくるなんて、千鶴ちゃんはなんてお人よしなのだろうと呆れた。沖田総司が薫のお墓をつくろうなんて言い出すはずがない。だってあの人薫に負けないくらい腹黒そうだもの。 …でも。千鶴ちゃんを見る時の眼差しは、優しさに溢れていたな。 薫も、千鶴ちゃんの話をするときだけは、優しさに溢れていた時があったわね…。それは、いつからか憎しみに変わり。私はそれをただ黙ってじっと見ていた。 やめよう。なに私はいつまでも死んだ人間のことを考えているの。不毛だ。 薫を頭から追い出そうと頭をふるふる振った。 薫との思い出なんて、この世から全て捨てたい。 あいつのせいで私の人生は滅茶苦茶になった。変な希望持たされて、何を間違ったか、あんなやつにほだされて、ほだされた結果、どこまでもついていってしまって。 中途半端に執着されて、突然手放される人間の気持ちにもなってみなさいよ。 「ほんっとうに、死んでよかった、あんなやつ」 天井に向けて言葉を放つ。もちろん天井からはなにも返ってこない。 このままだと私は薫にいつまでも捕らわれてしまう。 捨てよう。薫に関するものを、全て。 私は薫が着ていた洋服や着物を箪笥からごそごそ出した。薫の匂いがする。不快だ。いやな匂い。 箪笥の隅っこに箱があった。これも薫の物だろう。ぱかっと開けると、そこには薫が女装の時着ていたもの。私に『やるよ』と言った着物だった。『俺が似合いすぎていたから、自分が着るの、億劫なわけ?』という薫の憎たらしい笑みが今でも思い出せる。そうだ。そう言われたのが、盛大にカンに障り、いらないわよ、そんなもの、と突っぱねたのだった。 今度こそ、売ってやる。南雲家から持ち出したものだからなかなかいい値がするだろうし。 着物の状態を確かめるため、箱から着物を出して、広げると、ずどんと何かが膝に落ちた。 それは、藍色の巾着袋だった。なかなかの重量がある。 なにこれ。 持ち上げると、ちゃりんと金属音が鳴った。 もしかして、これ。 巾着を開け、さかさまにすると、じゃらじゃらとなかなかの量の小判が出てきた。 記憶が呼び起される。 『いいわよ。いらない』 『負けを認めたってことでいいのかな。恥じることはないよ。俺はそんじょそこらの女よりも綺麗な顔をしているんだから、負けたってしょうがない』 『腹立つ…。じゃあ貰うだけ貰っとくわよ。あんたが死んだらあんたよりも綺麗な顔立ちをした正真正銘の女の子に、これを高値で売りつけるから』 『いいねえ。その金は俺の墓代にあててくれよ』 にやりと悪人そのものの笑顔を浮かべて、薫はそう言っていた。 小判がどんどんどんどん滲んでいく。 涙の粒が、ぽつりぽつりと、雨のように私の膝を濡らしていく。 「薫…っ」 あんたに蹴飛ばされた時、私はもう一度この世に生まれた。なんて言ったらあんたは大笑いするでしょうね。 でも、それぐらいの衝撃を受けた。喜びも、怒りも、悲しみも、すべてを放棄して、流されて生きていく私を、視界に入れて、叱ってくれて、『すき』だと言ってくれた。 あんたは適当に言っただけなのかもしれない。それでも、人から、嫌悪か無か、どちらかの感情しか受けたことのない私が、どれだけその言葉に救われたのか、あんたは知らないでしょう。 あんたは私を救ってくれたのに、私は何にもできなかった。それなのに、薫は今、また私を救おうとしてくれる。 でも。 「いらなっい…っ」 涙声で、どこにもいない薫に不満を言う。 でも、いらない。こんなお金、いらない。薫がいないんじゃ、意味がない。 こんなドス暗いところまで連れ込んでおいて、なんで最後に手放すの。なんで最後までいっしょに連れて行ってくれないの。薫といっしょだったら、どこまでも堕ちていったのに。 私はこれからも、見えない薫の影を追い求めていくのだろうか。 薫じゃない他の誰かを好きになって、結婚して、子供を産んだとしても、薫の影は一生消えないのだろうか。 もしかしたら薫は私を手放してなどなかったのかもしれない。そうだ、その考えの方が私にはしっくりくる。あの傲慢不遜な薫が私のためを思って、私を手放すなんて、信じられない。このお金だって、きっと私をさらに縛りつけておくためのものなんだ。絶対そうだ。 薫の思惑通りになんてなってたまるか。 絶対、薫から逃れてやる。今度はまともな人を好きになって、結婚して、可愛い子供を産んで。 心の中で固く決意をする。 だから、今日だけは。 「…っ、かおっ、る…っ」 今日だけは、薫のことを想って、泣くことにする。 薫、薫、薫薫薫薫。 きっと今ここに薫がいたら、私のひどい泣きっ面を見てぷっと噴出してから「ひどい顔」と嘲笑ったのだろう。 「ほんっと、腹立つ…っ」 私は薫の着物を握り締めて、泣きながら、笑った。 朝がくる、きのうとおなじ朝がくる (8/8) 前へ* 目次 #栞を挟む |