はじめて出会った時の椛の瞳は今でも覚えている。 希望を持たず、反抗心もなく、なんの目的も持たず、ただ流されて生きているだけということが一瞬でわかるような、薄暗く溝のように濁った瞳は、 俺にとてつもない嫌悪感を与えた。 『薫様、お食事でございます』 襖が静かに開けられ、その先に視線を遣ると、椛が正座をしながら床に手をつき、頭を下げていた。音も立てず部屋に入り、食事がのった盆を俺の前に置く。 雑穀がつがれた藍色の茶碗とわかめの味噌汁。おかずなんてあるわけがない。 俺は“いらない人間”なのだから。 『なんで男なんだ!女鬼だとおもったから引き取ったのに!』 俺が男だとわかった途端、気性を荒立てた南雲家の当主の発作のような喚きが脳裏に浮かぶ。最初は、ほんの最初は、俺は蝶よ花よとちやほやもてはやされていた。ところが着物を脱いだ途端に、周りの大人たちの顔色がさっと青くなり、これはどういうことだと騒ぎはじめ、ああこんなことなら引き取るんじゃなかったと喚き始め、豪華な客間から隅の汚い物置に移動させられ、御付の人間は大人の女から、小汚い餓鬼に変わった。 小汚い餓鬼の名前は椛といった。 年齢は俺とさほど変わらないだろう。だが、足はごぼうのように細く、瞳には光りがないさまは、子供とは言い難かった。 …まあ、俺も子供というには、すれた感性を持っているけど。 長い虐待生活の中で、俺の精神は荒んでいった。雪村家で過ごしたあの暖かい日々は夢だったのじゃないかとすら思えてくる。 優しい御付達、抱きしめてくれる両親、そして、可愛い妹。 千鶴。 あいつは今どうしているのだろうか。女鬼だから俺とは違っていい待遇を受けているのかもしれないけど。でも、それでもあいつは泣いているに違いない。父様は、母様は、薫はどこ、と。あいつは泣き虫で、優しいから。自分が恵まれている状況にいることにたいしても、ひどく罪悪感を覚えているにちがいない。 大丈夫だよ。千鶴。 こんなところからはやく脱出して、お前に会いに行って、そして抱きしめてあげるから。 それまでの辛抱だ、千鶴。 『薫様、お食事が終わられましたら、お呼びください』 今どこにいるかわからない妹に思いを馳せていると、生気のない声が耳に入ってきて、気分がそがれた。深々と頭を下げる椛を嫌悪感丸出しにした眼差しで睨む。 すると、俺は異常に気付いた。 『ちょっと、そのまんまでいて』 『…はい…?』 怪訝そうな声を上げる椛。俺は椛のうしろに回った。椛は髪の毛をひとつに纏め上げ、団子にしているからうなじが丸見えだ。着物の襟もとを引っ張り、中を覗き込む。 『薫さ、』 『黙って』 言われた通り、椛は黙った。 こいつは人から言われたことならなんでもする。 それは、背中にある無数の火傷が証明していた。 骨が浮き出た小さな背中にまだらのようにぽつぽつと火傷が浮かんでいる。 『当主に、やられたの』 『…私が悪いんです』 椛は俺から距離を少し起き、俺に背中を向けたまま乱れた着物を直す。 『私が、失敗したからなんです。だから、いいんです』 『へーえ。だから煙草押し付けられてもいい、と。美しい忠誠心だねえ』 皮肉を交えて、盛大に嘲っても、椛はなにも言わなかった。ただ、じっとしている。まるで、生きてないみたいに。 『あんたさ、ここから出たいとか、思わないの』 『思いません』 『一生ここで生きて死ぬの?』 椛は背中を向けたまま、言った。 『それが、私の運命ですから』 俺の嫌いな言葉を教えよう。 それは、“運命”だ。 すくっと立ち上がり、右足を後ろに振って、勢いをつけて、それを前に出した。 椛の背中に、それは気持ちいいほど直撃した。 椛は声も上げず、前に倒れる。 小さな背中は全然質量感がなく空っぽの空洞みたいで、蹴った気がしなかった。 『これも、運命ってわけ?俺に理不尽に蹴られて、みっともなく這いつくばるのも?』 這いつくばって、みっともない状態の椛に情け容赦ない罵倒の言葉を浴びせかける。椛は突然のことで驚いているからなのか、それとも、いつものように人形然としているだけなのかはわからないが微動だにしない。 『いつも濁った眼をして。しかたない、しょうがない、これも運命なんだからって?ふざけるなよ。自分でなにも行動しない屑が。変えようともしないくせに勝手にあきらめているお前みたいなやつが俺は一番嫌いなんだよ』 俺は、違う。 『俺は、絶対にここから出る』 一気にまくし立てたせいで、呼吸が乱れる。はあ、と息を吐く。 盆の元へ行き、荒々しく腰を下ろし、箸に手を伸ばすと。 小さく震えている声が聞こえた。 『だって、』 椛は四つん這いになったまま、震えていた。 『だって、しょうがないじゃない…!運命なんだから、しょうがないとでも思わないとやってらんないじゃない…!最初から諦めといた方が、楽じゃない…!』 椛は消えてしまいそうな小さな声で、泣きそうな声で、確かにした。 反論、を。 なんだ。 こいつ。 ちゃんと、生きているんじゃないか。 そう思うと、何故か笑いがこみあげてきて、ぶっと噴出してしまった。 『な…っ、なに、笑って…!』 『いいね』 俺はつり上がった椛の目を人差し指で指しながら、ふっと笑った。 「俺はそういう意思のある生意気な目の方が、すきだよ」 椛の生気のない青白い肌がどんどん朱色に染まっていった。 『…っ、食事が終わったら呼んでください!失礼します!』 椛は荒々しく立ち上がり、ばんっと襖を、音をたてながら閉めて出ていった。 それからだ。 椛は俺を見る度、意思のこもった目でキッと睨みつけてきて。適当な罵声をぶつけてみたら、敬語でありながらも、ちゃんと口答えしてきて。 ああ、でも『薫様のような女顔でしたら男に売られるかもしれませんね』と言われた時は殺意が芽生えた。 そうしていくうちに、椛の敬語はいつのまにかなくなって。 そして。 俺は、千鶴の満たされた生活を知って、静かに、狂っていった。 椛が必死に食べ物を見繕って、それでやっと毎日飯を食べている俺と違い、千鶴は毎日、何の心配もせずに飯が出てきて。 毎日のように罵声を浴びられ、お前なんか生きる価値がないと目で訴えられる俺と違い、千鶴は綱道から慈愛がこもった眼差しを受け。 なんでだ。 なんでなんだ。 俺が、こんなに、苦しんでいるのに、お前は俺のことを忘れて、そんな幸せそうに生きているんだ。 俺は片時も、お前のことを忘れたことなんて、なかったのに。 感情なんて、そんなものだ。 俺が“感情”に見切りをつけるまでに、そう時間はかからなかった。 家族を大切におもった感情ですら、記憶に残らない。 なら、他人なら。 もっと、どうでもいいはずだ。 感情なんか簡単に変わって、そうやって、離れていくんだろう。 お前も、俺から。 『俺に殺されるか、それとも、いっしょに、落ちていくか』 俺はそう言って、椛の喉元に刀を突きつけた。 冷めた目つきで、“恐怖”を宿した瞳で俺を見上げる椛を見下ろす。 どちらを答えても、殺すつもりだった。 屋敷中にひろがった赤い血液、鉄の匂い、苦悶に満ちた死体達。 全部、全部、なにもかもうんざりだ。 終わらせてやる。 お前を殺したあと、千鶴を殺して、そして、俺も、俺自身も、殺して。 すべて、終わらせてやる。 カチャリと、刀に振動が走った。 目を遣ると、椛が刀を掴んでいた。 椛の眼差しは、恐怖を宿しつつも、いつも俺にたいして向ける、生意気な意思も宿していた。 そして、 『私が死んで、あんたひとりになったら、誰があんたをとめんのよ』 椛は、そう、口にした。 俺を、とめる? 人間の女が、このひ弱な腕の持ち主が、俺を、とめる? 『ぶ…っ、アッハッハハハハハ!』 なんて面白い冗談だろう。 腹を抱えて、ひいひい笑う俺を、椛は、じっと生意気な目で見上げる。 いいね。そういう目。俺は大好きだ。 あくまでも“堕ちる”という言葉を使いたがらないこの強情な女に、もう少し付き合ってみるのも悪くない。 『お前に俺がとめられるか楽しみだね』 屈んで、椛の顎をくいっと持ち上げる。 すると、椛は『血まみれの手で触らないで。汚い』と言った。 やっぱり、あのクソ生意気な発言した時、殺しておけばよかった。 言葉にしようと思ったら、それは喉に張り付いたままで終わった。 話すどころか、息すらすることがしにくい。 痛いという感情ではおさまらない。 ああ、俺は死ぬんだな。 死はもう目の前、ということは火を見るよりも明らかだった。 沖田総司との勝負に、勝つつもりだったのか、負けるつもりだったのか、俺自身にもよくわからなかった。 沖田総司を殺して、千鶴を手に入れて、鬼の王国を築きあげるという夢は嘘じゃなかった。 でも、どこかで俺は、もう終わらせたい気持ちもあった。 椛を解放してやりたかった。 平凡だけどいいやつと結婚して、そいつとの子供を産んで、健やかに生きていく。 そんなしあわせな椛を見たいと思いつつも、椛をどこまでも俺から離したくないという気持ちは、俺が操作できないほど、巨大なものになっていって。 俺は初めて神に懸けた。 沖田総司に勝てたら、椛を離さない。負けたら、その時は。 解放しよう、と。 …解放してやれ、ってことか。 ふっと笑いがこみあげてくる。 もうアイツもいい年だ。そろそろ結婚適齢期を過ぎてしまう。 年増女って言ったら、椛はどんな顔するんだろう。 重い瞼に耐え切れず、俺はそっと瞼をおろした。 瞼の裏に、最期に浮かんだものは、 生意気で勝気で強気な、あいつの瞳だった。 あなたを救えないまま世界が終わる (7/8) 前へ* 目次 #次へ栞を挟む |