なんでもない朝だった。 「今日はよく食べるね」 よそったごはんを薫に渡す。 めずらしく薫が「おかわり」と言ったのだ。 あの小食な薫が。 「まあね」 そう言いながら薫は茶碗を受け取る。 薫はごちそうさまと綺麗に平らげ手を合わせる。 「じゃ、出かけようか」 「…は?私いまからこれ洗わなきゃいけないんだけど」 「いいから」 薫は私の手首をつかみ、問答無用で引きずるように私を連れて家を後にした。 突然のことで何が何だか訳が分からず、ちょっ、薫!?と声をかけるが薫はずっと無視したまま。 「ちょっと、ねえ!どうしたのよ薫!痛い!」 ぴくりと突然薫の動きが止まった。 こちらに顔を向け、うるさいなあと顔を顰めたあと、手首から手のひらに移動させ、「これでいい?」と面倒臭そうに言う。 絡まる指と指。 「…っ」 薫と、手を繋いでいる。 「いくよ」 薫はぷいと顔を背けるように、前へ向きなおした。 女の子みたいに愛らしい顔立ちで、華奢な薫だけど、 繋がれている手は、女の子の手よりも角ばっていて、少しごつごつしていて、私より大きくて。 “男”の手だった。 私の片付けを邪魔したり手を握ってきたり。 なんなのよ、こいつ。 「ついた」 恥ずかしくて顔を俯けていたので、目の前の景色がわからなかった。 顔を上げるとそこは。 一面に広がる、シロツメクサ。 「きれい…」 思わず、うっとりと、ため息が漏れる。 薫はこっち、と言うように引っ張り、私を無言で誘導する。 けど、さっきよりも優しい力で、いつもの自己中心的な薫は影を潜めていて。 紳士的な振る舞いに私の心臓は騒ぎっぱなしだ。 「昔一回だけ似たようなところにきたよね」 「…そうだね」 南雲家の目を盗んで、一回だけ二人で遠出をした。 今にして思うと遠出というほどの距離ではないけれど、幼かった私たちにとっては、間違いなく遠出だった。 一面に広がるシロツメクサたちに私と薫は歓声を上げ、一日中そこで遊んだ。 『妹とここに似たようなところでよく遊んだ』 『家の近くにこんな場所あったの?いいなあ』 『つれってってやるよ。いつか、お前も。妹とお前と俺で、いつか遊ぼう』 にっこりと、太陽のように笑う薫が、あの頃から既に愛おしかった。 けど。あんな笑顔はもうあれ以来見ていない。 千鶴ちゃんが自分のことをすっかり忘れ、恵まれた境遇にいると知ってから、薫は徐々に変わっていった。 傍に、ずっと傍にいたのに。 私はただそれを見てるだけで何もできなかった。 …彼女なら、千鶴ちゃんなら、止められたかな。 「おい、ちょっと」 「あ、」 目の前には眉を顰め不機嫌な空気を全開にしている薫。 「なにぼけっとしてんの」 「あ、ごめん」 薫ははあっとわざとらしく大きなため息をつき、「ほら」と私の頭に何かをのせた。 「なにのせたの?」 「毛虫」 「…!」 「冗談だよ」 薫は盛大に吹き出しケタケタとお腹を抱えて笑う。心底楽しそうだ。本当にこいつは悪趣味だ。 私はふくれっ面になりながら頭に乗っているものに手を伸ばす。 「あ。バカ。丁寧に触れ」 「バカとはなによ。バカとは」 そう返しながらもやんわり触れて、丁寧にとる。 視界に入ってきたのは、シロツメクサの花冠。 「なかなかうまいだろう」 口角を少し上げ、得意げな薫。 顔に一気に熱が集中する。 どうしちゃったの、薫。 「なに?嬉しすぎて声も出ないの?」 にんまり。悪い笑顔がよく似合う男ね、こいつは、本当に。 「…今日の薫、なんかおかしい」 私は小さな声を震わしながら、そう悪態をつくのでいっぱいいっぱいだった。 私と薫は、日が暮れるまで遊んだ。 幼いころに戻った時のように。 一度入ったら二度と戻れないような森に入り込んだり。 蜜が出る花を吸ったり。 川に足をつからせて、他愛もないおしゃべりをしたり。 穏やかで優しい時間は残酷なほど、あっという間に過ぎていく。 「疲れた…」 そう言うやいなや畳に倒れこんだ。足が怠い。重い。 うつ伏せになりながら薫に訊く。 薫ー。今日のご飯簡単なものでいい? もう私疲れちゃった。 「ちょっと薫、聞いてる?」 けだるげに振り向くと、水を一気に飲んでいる薫がいた。 ああ、私も喉が渇いたなあ。 「薫、私にも一口ちょうだい」 しかし薫は私を無視して次になにか、薬らしき粉末を口に含む。 なにそれ。 という言葉は空気に消えた。 後頭部にまわされた手が力強い。 長い睫が目の前にあって。 薫の口から流れ込んでくる水は生温かくて。 私の喉に水が流し込まれた合図のように、ごくりと喉が鳴る。 薫の口から一滴の水が垂れていて。 綺麗。 そう思いながら、私は静かに意識を手放した。 いつだってそう。 なんでもない朝は、 必ずなにか起こる。 死んだら小指も飲み込んで (6/8) 前へ* 目次 #次へ栞を挟む |