なんでもない朝だった。
私はいつも通り鶏の鳴き声よりも早く起きて水汲みをして、薪割りをして、掃除をして。
朝の仕事が一段落したら日当たりの良い自分の部屋で三分ほど休憩をしてから、また働き始める―――

はずなのだが、その日は違った。

「椛」

何、薫?と返答する暇もなく、私は薫にお尻を蹴られた。

「いった!何すんのよ!」と噛み付く私を意にも介さず、薫は「どっか行って」といけしゃあしゃあと言いのけた。

「はあ?」

「いいから、行け。しばらく帰ってくるな」

「何言ってるのよ。私、まだこれから、やることが、」

続きの言葉は言えなかった。
薫が、酷く冷徹な眼差しで私を射抜いたからだ。

蛇に睨まれた蛙、だなんて言葉があるが、そんな生易しいものではない。

“鬼”だ。

「わかっ、た」

震える声を精一杯搾り出して私は逃げるように、自分の部屋を後にした。いや、逃げるように、じゃない。私は実際に、逃げたのだ。薫から。

あんな怖い薫を見たことがなく、ひどく動揺していた私は夕焼けで、空が真っ赤に染まるまで、屋敷を後にしていた。

流石に、そろそろ帰らなくては、ご当主様から折檻を受ける。いや、もう折檻確定だな、本当。
本っ当、訳がわかんないよ、薫。

使用人の戸口から入ると、今まで匂ったことのない匂いを、感じた。何これ、鉄?いや、鉄じゃない。じゃあ、これは、一体。

足を進めていくうちに、私はとんでもない光景に出くわした。

赤、赤、赤。
部屋中が、真っ赤に染め上げられていた。
見知った顔が屍と化している。そしてその瞳は恐怖を物語っている。
そうか、これは、鉄じゃなく、血の匂いだったんだ。と納得すると同時に、吐き気を催した。

苦しい、苦しい、苦しい。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

吐き気はとまらない。この部屋だけで数人だ。全員、死んでいると考えてもいいかもしれない。

不意に、私の脳裏に薫が思い浮かんだ。脳裏に浮かんだ薫は、艶やかに残酷に微笑んでいた。

「お帰り」


目の前の薫のように。

彼の背格好に不似合いな大きな日本刀が、綺麗な赤を帯びていて、私のぼんやりとしたマヌケ面を映し出していた。

「かおる」

喉が渇いていて、声がうまくでない。ああさっき吐いたから、こんなに喉カラカラなのか。と、冷静に考えれる自分がいるのに、あまり驚かなかった。

「お前は、どうする?」

カチャリ、と私の喉元に刃が突き付けられた。
薫の表情からは、何の真意も読み取れない。


「俺に殺されるか、それとも、いっしょに、落ちていくか」


殺される?


「冗談じゃない」


私は刃をにぎりしめた。素手で強く握りしめるもんだから、手から血がダラダラと滴っていく。

「私が死んで、あんたひとりになったら、誰があんたをとめんのよ」




落ちる、堕ちる、墜ちる


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