こっち向いてください!
恋に落ちた瞬間を、一度目なら知っている。
「部長! 図案をハンカチに移せましたぁ! ここからどうしたらいいですかぁ?」
男子は頼られるのに弱い! とニコラのいかに気になる男子を落とすか特集に書いてあったことを実践すべく、わたしは今日も部長に質問する。部長は「あーえっとね」とわたしの手元を覗き込みながら、指示してくれた。
「イラストのトコは二本取りがいいよ。文字は一本取り」
「へぇーそうなんですかぁー。なんでです?」
「二本取りのが丈夫なんだよ。で、逆に一本取りは細かいのに――、」
部長が説明してくれている間、わたしはこう思っていた。
部長超かっこいい〜〜〜〜〜〜〜〜〜!
ほうっと見惚れながら部長を見つめる。中学ってすごい。こんなにかっこいい人いるんだ。小学生の時の鼻水垂らしながら棒を振り回していた男子と全然違う。物腰が柔らかく落ち着いているし優しい。トーキョーナンタラ? 会? って暴走族に入っているところもかっこいい! 優しいだけじゃなくて悪いとこがあるのも良い!
入学して三日目から、わたしはずっと部長に恋をしている。
わたしの小学校から渋谷第二中学校に来たのはわたしだけだった。牧歌的な校風で育ったわたしは他の小学校の明るく元気な勢いに呑み込まれ、喋りかけられてもうまく会話を繋げられず、なかなか友達ができなくて途方に暮れていた。しかも進研ゼミの販促漫画によると小学校からの苦手を残したまま中学に上がると勉強についていけなくなるらしい。震えあがったわたしはママに頼んで進研ゼミに入ったものの、まだ教材は届いていない。ああ早く届いてくれないと勉強に遅れていしまう……どの高校にも入れなくなってしまう……。S女とかあんな進学校は無理だろうけどB高くらいには入りたいのに……。
部活も多すぎてよくわからなかった。一緒に見学に行けるような友達もいない。孤独感がいつもわたしの肌をピタリと這っていた。もう嫌だ。小学校に戻りたい。よっちゃんとシール交換をしたい………。
渡り廊下をひとりでとぼとぼ歩いている内に小学校の時の友達が恋しくなり、目の奥がじわぁっと熱くなる。つい一か月前の出来事が数年前のように感じる。数年前ってわたし小学校低学年だけど。とにかくそれくらい昔に思える。鼻の下を鼻水でカピカピにしながらおジャ魔女どれみごっこをした日々よ。寂しい。寂しい。寂しい。孤独感はついにわたしの心臓を締め上げた。胸がギュッと苦しくなって、視界が滲んだその時だった。
――目の前が真っ白に染まる。
『のわっ』
何かがわたしの顔に貼り付いていた。……あーー! もう! ムシャクシャしながらそれを取ると『手芸部 新入生大歓迎!』の文字が大きく躍っていた。
『そこの子ー』
遠くから、声と共に誰かがやってきた。声の先に目を向けた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
外から差し込んだ陽光が、銀色の髪の毛を鈍く輝かせていた。それだけでも目を惹くのに、眉毛には反り込みが入っている。わたしと同じクラスの男子はだぼだぼの学ランを第一ボタンまできっちり閉めているのに、声の主は全部開けていた。だけど、だらしない印象はない。様になっている。
見た瞬間にわかった。この人、三年生だ。
『それオレの』
その人はわたしが手にしているチラシを指さした。
『拾ってくれたんだ。ありがとな』
その人はわたしに視線を合わせるように屈むと、優しく微笑みかけてくれた。委縮していた心がほどけるように緩む。頬が熱くなって、心臓がくすぐったくて、どう視線を合わせばいいかわからなくて、口をもごもごさせる。
『あ、えと……いえ……』
『そだ。部活決まった? つかなんか入る気ある?』
『あ、あります』
こくりと頷くと、その人は『じゃあさ』と続けた。
『うち、入んねぇ? オレここの部長なんだ』
『手芸部 新入生大歓迎!』のチラシをわたしに見せながら、その人は笑った。
その時、わたしは思った。
この人はすごい大人で、間違えたこともダサいことも人から軽んじられたことも、どれもないんだろう。
いつだって、どんな時だって、格好いいのだろう。
体中の細胞がひとつひとつが歓喜の声を上げていた。カランコロンと鐘が音色がどこからか聞こえる。
――見つけた。
はじめて活性化した女の第六感が告げている。わたしの運命の人は目の前のその人だ、と。
「――なんだけど、おーい。佐倉さん、わかった?」
「あっはい! わかりましたぁ!」
全然聞いていなかったけどわかったことにして大きく頷くと、部長は「そか」と頷いてからまた自分の作業に取り掛かった。もっと話したかったのに。けどこれ以上話したら邪魔になるし他の先輩からの目も怖い。しょうがないのでわたしは自分の作業スペースに戻った。
「は〜、部長かっこよかったぁ〜」
「よかったねー」
声を小さくしながらうっとりと呟くと、手芸部に入って出来た友達のミサちゃんはわたしの顔を見ずに相槌を打った。視線はずっとミシンの針を追っている。ちゃんと見とかないと危ないもんね。
「嬉しすぎて今日七時間しか寝れないかもー……」
「そっかー」
「ねぇミサちゃん。もうすぐお祭りじゃんかぁ。だからわたし、部長誘おうと思うんだけど……どうかな?」
「やめといた方がいいと思うー」
「だよねーよし、がんば……ええ!?」
てっきり『がんばれ』と後押しされるものだと踏んでいたわたしは吃驚し、素っ頓狂な声を上げてしまい、隣の先輩に「ちょっと愛騒ぎすぎ!」と怒られた。
先輩に謝ってからわたしは再び声を小さくして「なんで!?」と食って掛かると、ミサちゃんは「目ぇつけられるから」と淡々と返した。
「愛ちんが部長にあんだけ纏わりついてるのに呼び出されてないのは敵って思われてないからだよ。見逃されてる状態。けどお祭りなんか誘ったら、流石に調子乗ってんじゃねーよって事で三年から呼び出されるよー」
――先輩からの呼び出し。
それは、中学生にとってもっとも恐ろしい事である。正直、先生に怒られる事よりも怖い。
大人になったら二歳差なんて大したことないんだろうけど、わたし達中学生にとっては大問題だ。二つしか違わないはずなのに、三年生は背が高く垢ぬけていて、大人っぽい。特に部長はその中でも群を抜いて大人っぽいけど、部長を『三ツ谷ー』と呼び捨てにしている女の先輩達も大人っぽかった。
「そ、そっか……。ちょっとかわいいからって調子乗ってんじゃねーよ! って体育館裏に呼び出されるかもなんだ……。確かにわたし、パパに宮崎あおいに似てるって言われるし……」
「愛ちんがポジティブなのかネガティブなのかわかんない」
「で、でも、彼女になったら流石に手を出さないんじゃないかな!?」
「まぁそだね。部長、トーマン? の人だし。暴走族の彼女には怖くて手だしできないでしょ。でも愛ちんはこのままだと三年に目をつけられるわフラれるわ、」
ミサちゃんの言葉がわたしの耳から耳を通り抜けていく。聞きたいことはもう聞いた。『暴走族の彼女には怖くて手だしできないでしょ』そこだけ聞いたらもう大丈夫だ。
綺麗で垢ぬけていて、怖い女の先輩達。だけど部長の彼女になれば、何て事ない。
部長の、彼女になれば。
魅力的過ぎるワードを心の中で呟いた時、顔から全ての筋肉が抜け落ちた。頬がだるんだるんに緩み切る。部長の彼女かぁ。ということは部長が彼氏かぁ。彼氏いたことない歴イコール年齢のわたしは彼氏彼女の付き合いを創作物でしか知らないので、好きな少女漫画の主人公とヒーローにわたしと部長を重ねていく。部長が彼氏という妄想はとにかく楽しく幸せでマッサージチェアに座ってコリを解されているママの如く『ああ〜〜〜〜』となる。
部長とお祭りに行きたい。行きたい行きたい行きたい!
おジャ魔女どれみのコスチュームをねだった時以上の欲望がわたしの中で燃え上がる。行きたい行きたい行きたいー! 小学生の頃はパパとママがわたしの欲しいものを全て用意してくれたけど、今は中学生だ。子どもじゃない。欲しいものは、自分で手に入れなければならない。だけど部長をお祭りに誘うには先輩の目というメドゥーサよりも恐ろしい視線をかいくぐらなければいけな――あ。
名探偵が犯人への糸口を見つけたかのように、閃きがわたしの頭の中を駆け抜けた。そうか、そうすればいいんだ……!
「ミサちゃん! いい案思いついた!」
「おめでと〜」
ミサちゃんは相変わらずわたしの方を見ない。視線をミシンの針に固定しながら、適度に布をずらしていた。
◆
悪い奴じゃねえけど、苦手な奴。オレにとって、佐倉愛がソレだった。
チラシ拾われたついでに勧誘したら、首がもげんじゃねえかってほどのすげぇ勢いで頷かれた。後輩の女子に妙にキラッキラした眼差しで見られることはそれなりにあるから本来なら気に留めないけど、佐倉さんは尋常じゃなかった。マジで、ずっと、オレを見ている。
好かれてこんなに嬉しくねぇ事があんのかってくらい、嬉しくなかった。理由は簡単だ。佐倉さんがガキだからだ。
中一という生き物は死ぬほどガキだった。二つ年下どころか数歳くらい離れている気がする。成長を見越して作られた制服はぶかぶかで、服を着ているというよりも着られている状態。声は男女ともに甲高く、キンキン耳に障る。その中でも佐倉さんはガキだった。入学してから三か月経つが、未だに小学生感が抜けていない。ランドセル背負って登校されても何の違和感もない。
ガキに好かれても、何にも嬉しくない。けどつれなくして泣かれたら面倒くさい。変に教師にチクられたりでもしたら最悪だ。東卍に入ってるオレが部長に就けたのは学校で一切問題を起こしていないからだ。教師の中にはオレが部長をやっていることを苦々しく思っている奴もいる。佐倉さんがそういう奴等に『部長にひどいことされましたー!』と泣き付きでもしたら鬼の首を取ったようにオレを糾弾してくるだろう。それだけは避けたい。
ガキの世話はガキの頃からやっている。ルナやマナと違い何の愛着もない他人ってのがネックだが、ボランティアだと思って佐倉さんの相手をしてやろう。
オレが佐倉愛に対して思うのはこの程度だ。嫌いってほどではないが、苦手。以上。学校を離れたら全く思い出さない。喉に刺さった魚の骨以下の存在だった。
なのになんでだ。
「……ちょ」
なんで今思い出してんだ。
「ぶ! ちょ! う!」
なん――は?
「こっち向いてください!」
振り向いた瞬間、頭の芯まで真っ白に染まった。
真っ黒な特服を羽織った男達だらけの中で、そいつは明らかに浮いていた。
「部長、こんばんはぁ」
ピンクのハートの上に真っ赤な文字でLOVEと書かれたクソダサTシャツを着ているこの場に似つかわしくないガキ――佐倉愛はへらりと相好を崩した。
「なん、で、ここ、に……?」
頭の中を疑問符で埋め尽くされながらも、かろうじて質問を紡ぐ。佐倉さんは繁みに隠れていたのか、髪の毛に葉っぱが絡まっていた。
「部長、トーマンに入ってるじゃないですかぁ。武蔵神社が集会場所って聞いたから、来ちゃったんです!」
来ちゃったんです! じゃねんだよ。頭が痛い。痛すぎるあまり気絶しそうだ。
「三ツ谷ぁ、何だそのガキ」
ムーチョがひょいっとオレの肩越しに佐倉さんを覗き込んできた。よりによってコイツかよ……! 東卍の中でも一二を争う強面だ。案の定、佐倉さんは肩をびくっと震わせて怖じ気づいている。だがガキ≠ニ言われた事にプライドを傷つけられたらしく、震えながらも「が、ガキじゃないです」と反論してきた。けど声が小さすぎてすげぇ聞き取りづらい。
「わ、わたしは渋谷第二中一年の、」
「あ? 聞こえねえよ」
ムーチョが顔をしかめて佐倉さんに距離を詰めた時、佐倉さんの顔から血の気が引いていった。
佐倉さんは、両親に溺愛されている。大雨が降った中、わざわざ佐倉さんを車で迎えに来た佐倉さんの親を見た事がある。台風って訳でもないのに迎えに来た母親は『帰りにミスド寄る?』と佐倉さんに話しかけていた。
『うん! わたしチョコファッション食べた……あ、部長さようなら!』
傘を片手に元気よく挨拶してきた佐倉さんにニコッと笑って『ばいばい』と手を振りながら、中一ってほとんど小学生だよなと思った事と、隣の目を丸くしてオレを見ている母親に挨拶したのは確か六月だった、はず。
そう。つまり、佐倉さんはガキだ。ガキの中のガキ。オレはガキがどういう生き物かガキの頃から知っている。
甘やかされて育ったガキは思い通りにならなかったら。
『ママァーー! 部長の友達にいじめられたー!』
と両親に泣き付いてPTAに話が通りオレの校外での素行の悪さが問題となってリコールされる未来が走馬灯のように駆け巡る。
「ムーチョ! こいつ間違って入り込んじまったみたいなんだわ! 送ってくる!」
「え、わたし、間違えてなんか、」
「こっちから行こうな!」
佐倉さんの手首を掴んだオレは、逃げるようにその場を後にした。
「部長、わたし間違えてないです! 迷ったけどちゃんと来れました!」
「そっか偉いな! でももう遅いから帰ろうな!」
「部長だって今外出てるじゃないですかぁー!」
「オレは男だからいいんだよ! 佐倉さんは女子だろ?」
佐倉さんの声が止んだ。一拍遅れてから「うへへぇ、女子……」とうっとりと呟いている。女子扱いが嬉しいのかなんだか知らねぇけどとりあえるコイツをこの場から去らせる。あ、インパルスおいてきた。舌打ちを鳴らしかけて既の所で踏みとどまる。部長≠フオレしか知らない佐倉さんは舌打ちを聞いたらまず間違いなくビビる。ああホントなら今頃東卍の三ツ谷隆として過ごせたのに……!
「なんで来たんだよ……」
気の合う奴等と心置きなく過ごせる時間を邪魔されて思わずげんなりと独りごちる。「それはですね!」と佐倉さんは意気揚々と答えた。
「わたし、部長に言いたいことがあって来たんです! 先輩達に見られてる中だと呼び出されちゃうかもなので!」
言いたいことがある……。
嫌な予感が過って、無理矢理上げた口角が引き攣る。「……なに?」と返した声が固くなった。
佐倉さんはオレの目を真っ直ぐに見据えながら、両手をぎゅっと握り締めて、いっぱいいっぱいです!≠前面に押し出す。
あー言うんだろうな。言われんだろうな。今まで何回か見てきた光景だ。けどここまでのガキに言われんのは初めてだ。
…………だっりぃ。心臓をうんざり≠ェ覆った。
「部長! わたしと一緒にお祭りに行ってください!」
………………は?
言いたいことがあるのくだりで一瞬身構えたが、肩透かしに終わり脱力する。祭り、って。そんなことの為に、夜中に、わざわざ、東卍の集会………。
呆然としているオレを他所に「わぁ、言っちゃったぁ!」と佐倉さんは顔を両手で覆いながらはじらっている。言っちゃったぁ! じゃねんだよ。
「八月三日にお祭りあるじゃないですかぁ。愛、じゃなかった、わたし、部長とお祭りに行きたいんです! お願いしますお願いしますお願いしますーーー!」
佐倉さんは両手をぎゅっと握りながら祈るようにオレに懇願してきた。目がうるうると潤んでいる。断ったら佐倉さんの瞳を張っている湿り気はきっと崩れ落ちるのだろう。そうなったら――。
『ママー! 部長にひどいことされたーーー!』
とギャン泣きする佐倉さんからの教師にチクる佐倉さんの母親。からの……あ、もう考えたくねぇ。
佐倉さんと祭り。行きたくねぇ。まっっっったく行きたくねぇ。けど、行かねぇつったら大声で駄々をこねそうだしPTAにチクられそうだしつーか集会まで聞こえて面子丸つぶれになりそうだし…………まぁ、祭りならまだマシか。
告白だったらPTAから何言われようが部長職を退陣に追い込まれかけようが断るが、祭りならまだ許容範囲だ。
「………あーー……わかった」
すっげぇ嫌だけど。
ひくっと痙攣で震える頬を無理矢理吊り上げて笑うと、佐倉さんはぱあぁっと目を輝かせた。頬をピンク色に染めてキャッキャッと喜んでいる。
「ありがとうございますー! 部長、どんな浴衣が好きですかぁ?」
「なんでもいいよ」
どうでも良すぎて。