マイキーはいつもウチに優しい。意地悪もするけど、だけど優しい。
 いつだって優しい、ウチだけのお兄ちゃん。

 真兄の教えに則ってか元々の気質なのかはわからない。とにかく女の子にはいつもそれなりに優しく接するのがマイキーだった。

 ウチといる時は車道側を歩くし荷物も持ってくれる。ぎゅっとしてと頼んだら抱き締めてくれる。もちろんウチには特別優しいってのもあるけど、ヒナにも優しかった。仲の良い男の子の前なら年相応にはしゃぐけど、女の子の前ではいつも一歩引いた態度だ。

 だから、吃驚した。
 彼女をしつこくからかって、怒らせて、けらけら笑うマイキーに、吃驚した。ケンちゃんや場地の前のような笑顔――ううん、違う。似ているけど、少し違った。

 マイキーは心を許した人の前では子どもになる。馬鹿みたいに、子どもになる。だけど弱くはならない。無敵のマイキー≠フまま。
 でも彼女の前では、少し、綻びていた。無敵じゃなかった。

 彼女を見つめる黒い瞳の奥底には、縋るような瞬きが躊躇いがちに光っていた。

 
 





「おおー……」

 化粧道具をテーブルの上に広げると、マイキーの彼女は感嘆の息を吐いた。「さわってもいい?」と尋ねられたので了承すると、マイキーの彼女は丁寧な手つきでリップを目の前に掲げた。「ママのよりかわいい」と呟く声は高揚で少し上擦っている。

 ごはんの片付けを終えたウチは、マイキーの彼女を自分の部屋に招いた。マイキーへの思いが半端なものじゃないとはわかったものの、マイキーの彼女のことは別に好きじゃない。どっちかというと、やっぱりちょっと、嫌だ。ウチがマイキーの彼女にモヤモヤする理由はただひとつ。『マイキーの彼女だから』だ。マイキーの彼女がどれだけいい子でも関係ない。マイキーの彼女、その時点で、じめっとした蟠りが生まれてしまうのだ。

 とは言っても嫌い≠ワでの負の感情は抱かない。だからさっきの質問に答えるために、自分の部屋に招いてあげた。

「ウチの化粧品、大体これで全部」

 手持ちのリップ、チーク、アイシャドウを並べ終えると、マイキーの彼女は「かわいい……」と、心あらずのような、夢見心地のような、そんなふわふわした声で呟いた。

『佐野さんって、化粧品とかどういうの買うの?』

 沈黙を埋めるためだけの問いかけだったかもしれないけど、マイキーの彼女はご飯の後片付けを手伝いながらそう訊いてきた。
 ウチもマイキーの彼女とずっと無言はきつかったので、答えてあげることにした。放置して自分の部屋に籠ってもよかったけど、そうする気にはなれなかった。流石に可哀想だし、ウチはマイキーの彼女の事が嫌いな訳ではない。ただちょっと、面白くないだけ。

「ドラストで売ってるし、安いから買いやすいよ」
「あー、確かに。見たことある。これ可愛いなぁ……」

 マイキーの彼女はベビーピンクのリップを取り、うっとりと眺めた。可愛いけど、ウチ的には微妙なヤツだ。赤ちゃんの唇のような色がうたい文句なだけに、色気に乏しい。ケンちゃんに釣り合いたいウチには、少々物足りなかった。なんとなく捨てずに置いていただけなので「あげよっか?」と言うと、マイキーの彼女は「えっ」と目を丸くした。

「い、いいよ。自分で買う」
「いいよ。いらないし、それ。多分、似合うと思うよ」

 菜摘、と声を弾ませて彼女を呼ぶマイキーが脳裏を掠めた。菜摘。マイキーの彼女の名前は、マイキーが菜摘菜摘連呼するから覚えた。だけどマイキーに倣って呼ぶのは何か癪に障る。嫌いではないけど、気に食わない存在ではあるし。だから名前を出さずに会話を成立させた。

 マイキーの彼女は少し戸惑っていたけど、ウチが再度「いらないのそれ、マジで」と強く言うと、「……じゃあ」とリップをキュッと両手で包み込んだ。ありがとうとお礼を述べた後、手の中のリップを嬉しそうに見つめている。ゆるりとほどけた頬が、うっすらピンク色に染まっていた。

「つけてみてもいい?」
「いいけど。てかもう自分のもんじゃん」
「まあ、そうだけど」

 マイキーの彼女は苦笑してから「じゃあ」と厳かに呟いてから、リップの蓋を取った。くるくると回すと、華やかなベビーピンクが現れる。マイキーの彼女は目を輝かせてから、ケータイの内カメを使って塗り始めた。手鏡、渡そうと思ったのに。渡しそびれた手鏡から手を離し、頬杖付きながらその様子を眺める。

「こんな感じ?」

 マイキーの彼女が照れくさそうに笑うと、ベビーピンクの唇が緩んだ。色気のない唇が、艶のある柔らかそうな唇に早変わりし、ウチは化粧の威力を思い知る。人混みの中に紛れたらあっという間に埋没しそうな個性の薄い地味な顔立ちが、今、少しだけ華やかになっている。

「そんな感じじゃない?」

 いい感じとは思ったけど、口に出すのに抵抗を覚え言わなかった。

「二人ともいるー?」

 とろんと眠気の籠った声がドアの向こう側から放たれた。やーっと起きたんだ。呆れながら「いるよー」と返したら、まだ寝ぼけ眼のマイキーが入って来た。スエットの中に手を滑り込ませて、お腹をぼりぼりと掻きながら彼女の隣で胡坐をかく。

「二人ともいねぇから吃驚した」
「マイキーが寝るからウチがおもてなししてあげてんじゃん。ほんと自己中」
「へー。もてなしたんだ……菜摘?」

 沈黙を貫いているマイキーの彼女は、不自然に顔を背けていた。「菜摘?」と不思議そうに尋ねるマイキーを無視し、ティッシュに手を伸ばそうとしている。こういう時のマイキーは鋭い。玩具を見つけたと言わんばかりにきらんと目を輝かせ、彼女の顔をガッと両手で掴んで自分の方に向かせた。

「ぐえっ」

 無理矢理首の向きを変えられた衝撃で妙な呻き声を漏らした彼女をまじまじと見つめながら、マイキーは言った。

「化粧してる」

 ただ事実を述べるだけの無感動な声だった。だけどマイキーの彼女が気まずそうにそっぽを向くと、マイキーの顔ににたぁっといやらしい笑みが広がる。

「菜摘、大人の階段昇っちゃったもんな〜」

 間髪を容れずにマイキーは頬を引っ張られた。

「いてててて! 何すんだよー!」
「うるさいバカアホチビチビチビチビ」
「なんだよペチャパイ。エマの五分の一」

 ……なにこれ。ウチの部屋で勃発した痴話喧嘩を白い目で眺める。やいのやいの。マイキーの彼女はマジギレだけど、マイキーは楽しそうだった。屈託のない笑い声がウチの鼓膜を揺らし、心臓をきゅっとつねる。
 マイキーの彼女は「ほんっと最低」と軽蔑しきった声で呟くと、すくっと立ち上がった。

「佐野さん、洗面所借りていい?」
「いいけど……もう落とすの?」
「えー落とすなよ」
「マイキー君ほんとに君は面の皮が厚いね。誰のせいだと思ってんの」
「オレ小顔だしー」
「そういうことじゃなく……ああもういい。てか、どのみち落とさなきゃだし。ママに中学生のうちはまだ駄目って言われてるから」

 マイキーのボソッとした呟きがウチの耳を掠めた。帰んだ。あっという間に空気に溶け込んだ囁くような小さな声。寂しさが滲んでいた。マイキーはムカつくとか嬉しいとか、そういった大きな感情は前面に押し出すけど心の奥底で静かに震えているような感情は滅多に出さない。だから吃驚して、今どんな顔をしているのだろうとマイキーの表情を窺う。だけどマイキーはもういつも通り≠ノ戻っていた。楽しそうにニコニコ笑いながら「洗面所まで連れてってやるよ」と彼女の手を引いて無理矢理立たせる。

「いいよ、別に。一人で行ける」
「オレが行きてぇのー」
「はぁ……。あ、佐野さん。うるさくしてごめんね」

 マイキーの彼女はマイキーには仏頂面で適当な相槌を打った後、ウチには申し訳なさそうに眉を寄せて謝った。うるさいのはマイキーで慣れてるしべつにいいけど。「別に」と髪の毛をくるくる指に巻き付けながら返した無愛想な声は「菜摘オレにも優しくしろよー」とマイキーの拗ねた声に多分かき消された。

 パタン、とドアが閉まって二人が出ていく。なんとも言えないやるせない気持ちが胸のなかを漂っていた。

 甘えていた。マイキーは甘えていた。
 しつこくからかって怒りを煽り反応を返してほしいと甘えていた。

 マイキーが家族や東卍の人間以外に、ウチ以外の女の子に甘えていた事に、モヤモヤが心臓の周りを囲い始める。

 マイキーの彼女を初めて意識したのは場地が死んだ後。マイキーに頼まれてウチは川原菜摘って子の状態を確認しに行った。上級生の廊下を歩くと周りから奇怪な視線を投げかけられて少し居心地悪かったけど無敵のマイキー≠フ妹をからかったり生意気だと表立って疎んじる子はいない。悠々とという訳にはいかないけど、絡まれる心配はないので落ち着いて川原菜摘£Tしをすることはできた。
 マイキーから教えてもらった特徴を心の中で反芻しながら教室を覗き込むけど、マイキーより数センチ低くて二つ結びの子なんてぱっと見ただけで数人いた。みんな似たような顔しているし……。途方に暮れるとまではいかないけどどうしたものかと首を捻った時だった。

『菜摘ちゃん』

 取り立てて特徴の無い子がマイキーがウチに教えた名前を口にした。その子と同じように取り立てて特徴の無い二つ結びの子が振り向く。ようやく見えたその顔は普通そのものだった。どこにでもいそうな薄い顔立ち。

 ……あの子で、いいんだよね? 

 東卍の総長を張っているマイキーと一般的な女子中学生のあの子が絡んでいる場面が全く想像できず、マイキーから告げられた特徴とあの子が一致しているにも拘わらず本当にあの子を川原菜摘と断定していいのか逡巡する。こっそり窺う視界の中で川原菜摘≠ェ曖昧に笑う。するとある場面が頭の中でパチッと弾けた。夕暮れ時に瞬いている一番星を見つけた時のように、ひっそりと。
 多分、大体一か月前。マイキーと久しぶりに登校した日の事だった。昇降口で分かれてウチは二年の靴箱に、マイキーは三年の靴箱に向かう。少し離れたところから『おー川原』と弾んだマイキーの声が聞こえてきた。
 珍しいな。ウチは確かあの時そう思った。学校で楽しそうに声を弾ませるマイキーは二年間中学に通ってきて初めて見た、ううん、聞いたから。
『今日の給食プリン出るんだって』
 楽しげに会話を続けるマイキーに川原≠ヘ何か答えたようだったけど、小さな声だったからよく聞こえなかった。

 あの子が川原菜摘なんだ。
 夢でも見ているように川原菜摘を見つめているとはたと我に返る。ヤバ、そろそろ戻んなきゃ。次移動教室だったことを失念し慌てて踵を返した。

 帰宅してマイキーに「普通に友達と喋ってたよ」と報告すると、マイキーは「そっか」と頷いてからお礼を言った。ありがとな、エマ。それ以上、マイキーはなにも言わなかった。

 なんで川原菜摘の様子を見に行かないといけないのか。そう尋ねたウチにマイキーは当たり前のように答えた。

『オレのモンだから』

 地球が青い事のように、さも当たり前だと言わんばかりの堂々とした口調。だけどそれは何故か朝起こしに行った時のマイキーを彷彿させた。使い古したタオルケットを縋るように握りしめながら、眠りに就いているあの姿。

 オレのモンだから。マイキーは確かにそう言ったのに何故か言葉通りに受け取れなかった。

 オレのモンになってと言っているようにしか聞こえなかった。
 



「追い出されたー」

 ノック無しでドアを開けたマイキーがつまらなさそうに唇を尖らせながらウチの部屋に入り込んだ。

「なんか余計な事……」

 したんでしょと問いかけようとしたウチはマイキーの顔を見てぽかんと固まった。じわじわと羞恥心が沸き上がり、顔に熱が集まっていく。問いかけるまでもない。絶対にした。ベビーピンクに所々彩られたマイキーの唇が何よりの証拠。「何やってんのー!」と怒りながらティッシュを投げるとマイキーは「おう吃驚した」と全然驚いてないくせに目を丸くしながら受け取った。しかもウチが怒っている理由も瞬時に察したらしい。ティッシュを二、三枚掴んで唇を拭っている。

「まだついてる?」
「もうついてないけど……うちんちでそーゆーことやめてよ! マイキーのエッチ!」
「しょうがねえじゃん。したくなんだもん。エマの前でしてねえんだし別によくね?」

 澄まし顔でしれっと答えたマイキーは「女ってすぐキレんなぁ」と口を尖らせた。女≠ェ誰を指しているのか一瞬にしてわかる。不服そうにしながらもマイキーの瞳は愛しさに満ちていたから。

 マイキーが気に入ってきた人間と言えば、東卍の創設メンバーやタケミっちだ。ヒナの事も結構気に入っているかな。皆個性的で一度見たら忘れられないような人ばかり。だけどあの子は違う。ホントに普通の子。マイキーの頬っぺたを抓っていたけどあれは付き合っていく内に生まれた親しさから出来るようになったことであって、最初からできた訳じゃないだろう。

 どこにでもいるような普通の女の子。だから、お兄ちゃんを取られた悔しさで、意地悪な気持ちは確かに少しは含んでいるけど、不思議に思うのは当然の事だろう。

「あの子のどこが好きなの?」

 マイキーはぱちくりと瞬いてからウチを見た。ウチと同じ長い睫毛をぱちぱちと震わせてから、首を傾げた。

「どこだろ?」

 脱力からガクッと肩が落ちた。ど、どこだろって……。やるだけやっといて『どこだろ』と答えるマイキーに「サイテー……」とドン引きすると、マイキーは「だってさー」とぶうぶうと唇を尖らせた。

「菜摘、細かいことにグチグチうるせぇしすぐ鼻で笑うしすげぇ冷たい目で見るし武勇伝聞かせても『警察来るの遅くてよかったね』で終わるし勉強ばっかだしなんか妙なトコで、鋭くて、生意気だし、」

 ばーっと不満をまくし立てたかと思うと、不意に、マイキーの声は尻すぼみに消えていった。火が消えたように押し黙ると顔を少し俯けて、ぼんやりと宙を見つめている。夜空に浮かぶ小さな星をなんとなしに眺めているような、そんな眼差しだった。

 ウチのお兄ちゃん、無敵のマイキー≠ニ呼ばれている。だけど、実はそんなに強くない。
 だって使い古したタオルケットがない寝られない。だけど、どんな時も弱味を見せない。大好きな真兄を亡くした時ですら泣かなかった。一番の拠り所を失い、身体の一部をもがれたような苦しみを味わっているはずなのに、泣き言ひとつ言わなかった。
 だけど悲しい心を必死に封じ込めて踏ん張っている事をウチは知っている。ピンと糸を張って、誰にも隙を見せないように必死に虚勢を張っている。だからもし、もしも、マイキーがその糸を少しでも緩める事が事があれば、絶対助けるって決めている。

 だってウチはこの世で唯一の存在。

「それぐらいのが、マイキーにはちょうどいいんじゃないの」

 だったひとりの、マイキーの妹だから。

 マイキーの沈んでいた視線が上がり、ウチに据えられた。ウチの言葉の意味を確認するようにぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ふっと頬を緩めて笑う。お兄ちゃん≠フ顔。ケンちゃんにも、きっとあの子にも見せない、ウチ専用の眼差し。だってマイキーの妹は、この世にただ一人。ウチだけだから。

 マイキーはウチの角度からじゃ表情を窺えない角度に顔を俯ける。きっとその顔は、ウチには見せてくれない。多分、あの子にしか。だけどまぁ、許してあげよう。

 ――ウチにしか見る事ができない顔があるように。

「……ん」

 マイキーは掠れた声で頷いた。確信が更に強まる。悔しいけど、認めるしかなかった。
 
 ウチにしか見る事ができない顔があるように、あの子にしか見せない顔があるっていうことを。

 コンコン、とノックが鳴らされる。「いーよー」と返すとげっそりとやつれた顔のマイキーの彼女が入って来た。疲労の意味が分からず、ウチは眉間に皺を寄せた。そもそもメイクを落とすのにも時間がかかり過ぎている。マイキーの彼女はウチの表情から察したのか「あ〜…」と気まずそうに笑った。

「わたしメイク落とし使うの初めてだから、使い方よくわかんなくてさ……」
「うわーだっせぇー」

 茶々を入れたマイキーに、マイキーの彼女はピクッと眉を小さく震わせてから「うるさいな……」と仏頂面で毒づいた。けどマイキーは「だから教えてやるつったのに」と飄々と受け流し、それからにたぁっと笑う。

「大分落としてやったんだけどなぁー」

 マイキーの彼女は一瞬顔を赤くしてから、マイキーの隣に座る。そして頭をパシンと叩いた。「ぼうりょくはんたーい!」と不服を唱えるマイキーをウチは白い目で見つめながらも、寂しさと安心感と、それから嫉妬心を覚えた。

「マイキーの彼女」

 名前を呼ぶのはまだ抵抗がある。だってウチのお兄ちゃんを取った女の子だから。マイキーの彼女は、ウチに呼ばれるとピシッと背筋を伸ばした。緊張したような面持ちでウチの視線を受け止めている。 

「お、エマ。オレの仇取ってくれんの?」
「は? 今のはマイキーが悪いに決まってんじゃん。でも、」

 ビシッと指を差して、強く宣言した。

「負けないからね」

 真っ直ぐな声で告げると、マイキーの彼女は瞬きを繰り返した。頭の上には大量のクエスチョンマークが浮かんでいる。「どういうこと……?」と首をかしげて尋ねるマイキーの彼女に「自分で考えてー」とそっけなく返すと、マイキーが眉を潜めてウチを嗜めてきた。

「エマ、菜摘のおっぱいがエマに勝つってのは流石に、」

 二人分のパンチがマイキーの頭に落とされた。


  
 

 


If you want to be happy, be.



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