心の中で百万回は謝った。意識が朦朧としていたから正確な回数はわからない。けど、それくらい謝った。
あれから私は母さんに迎えに来てもらい、二日間家で寝込んだ。
熱にうなされながら、これから私はどうするべきなのか、皺の少ない脳みそをフル活動して考えた。
できるだけ、がっかりさせたくない。悲しませたくない。困らせたくない。
黄瀬くんは、私をだいぶ自分の“内側”の人間として認めてくれているはずだ。一緒に弁当を食べてくれたり、文化祭回ってくれたり、庇ってくれたり。オニオングラタンスープを食べに行こうと誘ってくれたり。
けど、今の関係のまま一緒にいたら、私はわかりやすいから、いつかぽろっと本音を零してしまうだろう。そうしたら黄瀬くんはがっかりして、悲しんで、困ってしまうだろう。
なら、私が取るべき行動は、ひとつだけ。
ベッドに横たわりながら、うん、と小さく顎を引いて決意をする。
…オニオングラタンスープ、か。
黄瀬くんが好きと言っていた食べ物。聞いたことも見たこともなかった。黄瀬くんにオニオングラタンスープの写メを見せてもらったら、すっごく美味しそうで、思わずよだれを垂らしかけた。
「…行きたかったなあ」
ぽつりと、吐き出された本音は、四角い部屋に閉じ込められたまま姿を消した。
「待たせてごめん!」
「全然待ってないから大丈夫ッスよ」
ひらひらと手を振りながら、黄瀬くんは柔らかく笑う。
私は今日、黄瀬くんに話したいことがあるから、男バスの体育館でそのまま待っていてと頼んだ。自主練で体育館を使うと言えば、八時まで使用させてくれるのだ。いいッスよ、と笑顔で答えてくれた。
外側の人には冷たいけど内側の人には優しい黄瀬くん。
いつからか、私にも優しくしてくれるようになった。
ありがとう。
入学式の時黄瀬くんも海常だって知って、私は飛び上がるくらい、ううん、実際に嬉しくて飛び上がった。
目の前に、憧れのヒーローがいたから。何が起こったかわからなくて、自分の頬を殴って、夢じゃないことを確かめた。
なんとかバスケを教えてもらえないかと考えて、付き纏って、嫌がられて、オッケーされて、話して、教えてもらって、カラオケ行って、優しい言葉をかけてもらって、星空の下で話して、お弁当食べて、文化祭まわって。
黄瀬くんのことを知ることができて、嬉しかった。
嬉しかった。
私と関わってくれて、ありがとう。
「話したいことって、なに?」
と、訊いてくる黄瀬くん。すう、はあ、と小さく深呼吸をする。黄瀬くんの顔を真っ直ぐに見上げた。
関わらせて、ごめんね。
「今まで、私にバスケ教えてくれて、ありがとう!」
私はがばっと大きく頭を下げて、大きく声を張り上げた。
私の声は体育館いっぱいに広がった。
「…え?」
黄瀬くんの何が何だかわからないという思惑が伺われる声が私の耳に届いた。顔を上げると、ただ瞬きをしている黄瀬くんの顔があって、私はもう一度黄瀬くんを見据えて言った。
にっこりと笑顔をつけて。
「もう、いいんだよ。ありがとう。マジで嬉しかったし楽しかった。バスケ以外でもいろいろとよくしてくれて。弟子とかそういうのいいって、黄瀬くん言うかもだけど、私、黄瀬くんの弟子になれて、マジで嬉しかった。この半年間、黄瀬くんと話したりバスケしたりできて、幸せだった!」
私が何を言わんとしているのかわかってきたのだろう。黄瀬くんの表情が怒りと困惑で固くなっていった。けど、私はそれに気づかなくて、そのままベラベラと喋る。
「これからはもう関わらないけど、黄瀬くんのファンでいることはやめないから!遠くから、黄瀬くんのプレイを観戦させてもらうね!そんで、」
「誰に、何を言われたんスか」
低い、唸るような声が黄瀬くんから聞こえた。
へ、とまぬけな笑顔を貼り付けまま、黄瀬くんを見る。
黄瀬くんは、とても、怒っていた。
「変な女に、また、変なこと言われたんスか?嫌がらせされたんスか?俺に近づくなって言われた?」
「…へ?」
「そいつらの名前を言ってよ、林野さん。俺が話つけにいく。また、殴られたの?」
「ち、違うよ!」
「じゃあ!なんで!!」
黄瀬くんの大きな声がびりびりと私の体を震わせる。
「なんで、林野さん、そんな泣きそうな顔をしてんだよ!?」
目を見張った。
黄瀬くんは怒っているような、悲しそうな、悔しそうな、辛そうな表情で私をじっと見下ろす。私は自分の頬に手を伸ばした。頬が痛い。不自然に笑っているからだ。そうか。
泣きたいのに、無理矢理笑っているから、頬の筋肉がつかれているんだ。
本当は離れたくない。これからもバスケを黄瀬くんとしたい。
バスケだけじゃなくて、くだらないことを喋ったり、一緒にゲームをしたり、悲しいこととか嬉しいことをを分かちあったり、そんなことを、黄瀬くんとしたい。
これからも、ずっとずっと一緒にいたい。
でも、その願いを、私自身の手でぶち壊した。
黄瀬くんを恋愛感情で好きだという想いを持つ限り、私は黄瀬くんの傍にいることが、できない。
眼球を水の膜が覆いかけているのに気付いて、手を丸めて爪を食い込ませる。痛みに集中しろ。他のことは考えるな。
考えるな、と思うのに。
我が儘な願いは消えない。
黄瀬くんの隣に、いたい。
再び、涙が込み上げてくる。これは、駄目だ。もう、とまらない。
涙も、恋心も。
私の予想通り、溢れだした。
「…! ちが、これ、涙じゃ…!」
視界が水で濁っていく中、黄瀬くんに言い訳を並べようとするけど、私はバカだから言い訳を考える頭が回らなくて、どうしていいかわからなくなって。
「そ…、そういうことだから!!じゃあ!!バイバイ!!今までありがとう!!」
踵を返して、背を向けて、私はまた逃げ出そうとした。
が、そうは問屋が卸さなかった。
「っ、逃げんな!!」
荒々しい黄瀬くんの声といっしょに、手首を捕えられて、無理矢理前を向かせられる。
肩を掴まれて、黄瀬くんの方を向かせられる。
「そうやっていっつも逃げようとする、林野さんは!なんなんスか!なんで、そういう大事な時、何も言わないでどっか行こうとすんの!?そんなに、俺は頼りない!?」
違う、と小さく呟きながらふるふると首を振る。
「言ってよ、頼むから…!じゃないと俺、馬鹿だからわかんねーよ…!」
怒りと悲しみが黄瀬くんの瞳に映っている。
黄瀬くんは、今。真剣に私のことを考えてくれている。
私がなんで泣いているのか、そしてそれを自分に相談してくれないことを、歯がゆく思っているのだ。
黄瀬くんの信頼を裏切った私のことを、一生懸命に考えてくれている。
私は小さく呟いた。
何を言われたのか聞き取れなかったようで、黄瀬くんは怪訝そうな顔をする。
だから、もう一度私は言った。
今度ははっきりと。
懇願するように。
「お願い、離して…!!」
初めて、黄瀬くんを私は“拒絶”した。
黄瀬くんの目が大きく見張った。肩を掴む力が弱まる。私はその隙をついて黄瀬くんの手を振り払うようにして、黄瀬くんの横を通り過ぎた。
走った。
走って、走って、走って、ひたすら走った。
ごめん、という言葉で頭の中が埋め尽くされる。
黄瀬くんが、私に優しくしてくれるのが耐えられなかった。
罪悪感で胸が押しつぶされそうだった。
下駄箱にたどり着いて、ハアハア息を切らせながら、ローファーを下駄箱から出して、地面に落とす。
ただの、自称弟子の私にですら、黄瀬くんは内側にいれてくれた。
なんで泣いているのかと怒るぐらいに心配してくれた。優しくしてくれた。
だから、きっと。
好きな子ができたら、もっと優しくなるんだろうなあ。
私にはかけたことのないような声を、好きな子にはかけて。
私には見せたことのないような笑顔を、好きな子にはみせて。
それが、とてつもなく。
「ひっ、ふっ、ひぐ…っ」
羨ましくて、たまらない。
もう二度と、黄瀬くんと喋れない私には、ものすごく。
嫉妬した。
これからできるであろう、黄瀬くんに大切にされる子に。
バスケを見てもらえるだけで、一緒にバスケをしてくれるだけで、喋れるだけで、遊べるだけで、よかったのに。
もう、それじゃあ足りない。
黄瀬くんの、好きな子になりたくて、仕方ない。
けど、そんな身の程知らずな思いには、今日で終止符を打つ。
だから、今日だけは許してほしい。
「ひぐ…う…っ」
黄瀬くんの、好きな子になりたい、と願うことを。
あとはリセットボタンを押すだけ
置いていく気持ち、置いていかれた少年