ビスケット「とーしろ〜!」
穂乃花の間延びしただらしない声が背後から聞こえ、振り返った瞬間。
―――べちゃり。
そんな効果音とともに、目の前は真っ白に染まった。
「誕生日おめでとう〜!嬉しい?ね、嬉しい?」
俺の周りに犬のようにまとわりついて嬉しそうに問いかけてくる穂乃花が、すごく。
「んなわきゃねーだろォォォ!!」
腹立ったので、拳骨を頭に振り落した。
「あーあ。可哀想に。穂乃花すっかりしょげてらァ」
総悟が俺の部屋の襖に背を預け、卓袱台で書類を片づけている俺を見下ろしながら、言葉とは裏腹の冷めた眼差しを投げかけてくる。
「んじゃ、てめーは顔面にケーキぶん投げられて喜んどけって言うのかよ」
「せめて建前でくらい喜んどけって話でさァ、土方さん。アイツは土方さんが喜ぶと思ってやったんだ。そこは大人なんだから笑顔で対処するべきでィ」
総悟はこれだからニコチンマヨラーは、と外人のように肩をすくめる。いらっとした。
上司の前でも愛想笑いしない俺が部下で幼馴染のアイツに愛想笑いだと?なんで、んなことしなきゃなんねーんだよ。
苛々を静めるため、タバコを咥え、火をつける。
その時、僅かな違和感を覚えた。
が、すぐにその違和感は総悟が話を始めたことによって、消えた。
「穂乃花、この一か月、土方さんのために練習してやしたぜ。ぶつける練習を」
「そこはケーキ作りの練習をしとけよ」
「俺が『土方さんは一度顔面ケーキを食らいたいっつってた』と吹き込んでやったら、『そうなの!?私、じゃあ頑張るね!』って、この一か月、土方さんにケガさせないように、楽しんでもらうように、ってザキを巻き込んでまで、毎日毎日練習してやした」
そういえば、この前。
『おい、目にクマができてんぞ。睡眠不足か?』
『あ、うん。まあね。特訓していてさ』
『特訓?』
『うん。あのね、もうちょっとで披露するから、それまで待っていてね!』
ニカッと歯を見せて笑った姿は、ガキの頃と同じに見えて、少し成長していた。
「…て、おい。ちょっと待て、総悟」
「何ですかィ」
「吹き込んだってどういうことだ」
「…んじゃ、俺は仕事があるんで」
「おいコラ待て総悟ォォォォォォ!!」
「アイツどこ行きやがった…!」
あたりをきょろきょろ見渡すが、総悟の姿はどこにも見当たらない。いつものようにまかれてしまったようだ。総悟の逃げ足の速さにはいつまで経っても舌を巻くばかりだ。チッと舌打ちを鳴らして、タバコに咥える。
あー、最近さらにタバコの量増えてきたな。けどタバコでも吸わねェとやってらんねえ。中間管理職なんてやってらんねえ。
自分でタバコに火を点けながら、俺はまたもや違和感を覚えていた。
そういえば、ここ最近、俺がタバコを吸おうとしたら、穂乃花は。
『とーしろー!私が、私が点ける!』
『いいって。だりィ』
『やだ!私がつける!』
『あーハイハイわーったわーった』
俺がライターを渡すと穂乃花の顔は見る見るうちにぱあっと顔色を明るくさせ、嬉々としてタバコに火を点けていた。
『とーしろー、タバコおいしい?』
『不味かったら吸ってねえよ』
『そっかあ。私が火を点けたタバコおいしいかあ』
『誰がつけようが味は変わらねえよ』
『いいの!今は、とーしろーは、私がつけたタバコを美味しいって言ってくれているんだから』
穂乃花はへへっと笑みを零し、とーしろーが嬉しいと私も嬉しい、と舌足らずのガキのような口調で、嬉しそうに頬を緩めた。
穂乃花はいつだって、そうだ。
俺が嬉しそうだっつって、笑って。俺が悲しそうだっつって、笑って。
馬鹿じゃねえのか、俺のために、そんな気を回して。
馬鹿を思い浮かべながら、タバコの煙を吐くと、どこからか、泣きじゃくる声が聞こえた。
もしや、と思い、その声がする方へ足を動かしていくと。
穂乃花は膝に顔を埋めながら。膝を抱えて泣いていた。
「何やってんだ、お前」と、問いかけても返ってくるのは嗚咽ばかり。
泣きじゃくっているだけじゃわかんねえだろうが、と言おうとして気づいた。嗚咽の合間に言葉が紛れていることに。
耳を澄まして、聞いてみると。
とーしろーの誕生日に、とーしろーが嫌がることをしちゃった。
ごめんね。
嫌な気持ちにさせて、ごめんね。
「ごめっぐすっね、ごっひぐっめんっねえ…!」
ずずっと鼻水を啜る音や嗚咽でなかなか聞き取れず、やっとの思いで解けた暗号は、アホらしかった。
あまりのアホ加減に脱力して、穂乃花の横に腰を下ろす。すると、穂乃花の肩がびくりと震えた。
穂乃花は俺に恐る恐る顔を向ける。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、年頃の女が人に見せてもいい顔じゃなくなっている。俺はでかいため息をひとつ吐き、袖で穂乃花の顔面を乱暴に拭きはじめた。
「むぐっ」
「おめーも一応女だろ。んな顔、人に晒してんじゃねーよ」
「むぐぐぐぐ」
「あと総悟の言うことにいまだに騙されんな。お前アイツと何年の付き合いなんだよ。いい加減わかりやがれ」
「むごごごごご」
「…ケーキうまかった。サンキュ」
「ごごご…ご?」
おら、これでまだマシな顔になったぞ。
俺はそう言うと、穂乃花の顔を拭くのをやめ、すくっと立ち上がった。
「おら、行くぞ。巡回だ、巡回」
すたすたと前を向いて歩いていく俺の背中に穂乃花の俺を呼ぶ声が響いた。
「と、とーしろー!」
「んだよ」
「嫌な気持ちじゃなかったの?」
俺は咥えていたタバコを地面に投げ捨て、足で踏みにじりながら、言った。
「嫌だったなら、礼なんざ言わねェよ」
数秒間、間が空いたあと、穂乃花はいつものように俺の背中に飛びついてきた。
「とーしろー!とーしろー!」
「あーんだようっぜえな!」
「へへっ、えへへっ、あのね、とーしろー!」
後ろから俺の頬に穂乃花の柔らかい頬がこすり付けられる。
「だーいすき!誕生日、おめでとう!」
「そーご!あのね、とーしろー喜んでくれたよ!そーごのおかげだね!ありがとう」
「礼には及ばねェよ。お前の今月の給料の半分でいいでさァ」
「わかった!」
「おい色々と突っ込ませろォォォォォ!」prev|next