「人に何言われたって何にも感じない真波くんに言われたくないよ!!」
…ハァ〜。
私は、それはそれはマリアナ海溝のように深い溜息を吐いていた。鉛を呑みこんだように気分が重い。私はよく言えば気遣い屋、悪く言えば八方美人という人間で、人に暴言を吐くことに慣れていない。人生で初めて家族以外の人間に暴言を叩き付けたので体力がごっそり削ぎ落とされてしまった。
何故、私が同じクラスの不思議ちゃんこと真波山岳くんにあのような暴言を叩き付けてしまったのかというと。時間は昨日の夕方に遡る。日直当番だったので日誌を書いていると、ガラリと扉を開く音が聞こえた。視線を遣るとそこには女子から『か〜わ〜うぃ〜うぃ〜』と評判の真波君の姿が。我が校が誇る自転車競技部伝統のジャージを身に着けている真波くんの髪の毛はボサボサだった。真波くんは私に気付くと整った可愛らしい顔立ちを崩した。とたとたと私の元に駆けよってきて「苗字さん、何やってるの?」と問いかけてくる。
「日誌書いてるの」
「へえ、そうなんだ」
私と真波くんの関係性はかなり友好だ。お腹が空いて苦しそうに顔を歪めている真波君におにぎりをあげたら、なんとそのおにぎりが真波君のお気に召したらしく、美味しい美味しいと瞳をきらきらと輝かせて喜んでいる真波くんに『また作ってこようか?』と問いかけると『えっ、いいの!?…ありがとう!』とへらりと頬を緩ましてきて。それ以来、私は真波くんによくおにぎりを分けている。あの自由人代表真波くんに懐かれていることに正直優越感を覚えているのは内緒だ。
「あれ、でも、」
真波くんは首をこてんと傾げハテナマークを頭上に浮かべた。
「苗字さん、今日日直じゃなくない?」
「まあ、うん。有香が他校の彼氏とデートだからさ。…他校の彼氏とデートの日にち合わすの大変だし、可哀想じゃん?やー私ってほんと良い奴―!友達思い〜」
あっはっはー、と快活な笑い声を付け足す。そうでもしないと『友達に日直押しつけられた可哀想な奴』みたいでいたたまれなかった。パシリではない。友達とは助け合うもの。『今日彼氏とデートなんだー!だからお願いー!』と困った顔でお願いされたなら、助けなくてはいけないのだ。大好きなバンドのプレミア版のCDだから本当は自分以外に触らせたくなくても、友達が貸してと言ってきたら快く貸さなければいけないし、本当はクマのキーホルダーが欲しくても、猫のキーホルダーをグループで買おうということになったら、猫のキーホルダーを買わなくてはならない。それが正しい友情だ。
「友達?」
真波くんは心底不思議そうに言った。
「苗字さんとあの子達って、友達なの?」
アイプチなんていらないような、くっきり二重瞼を瞬かせ、幼い子供のように無垢な声音で紡がれた疑問、それは。
私の心に鋭く突き刺さって。
…冒頭に戻る。
「ハァ〜」
もう一度、頬を包み込みながら深く深く息を吐く。どんよりと曇った溜息は地べたで這いずり回った。昨日寝る前には怒りもひいて、なんてことを言ってしまったんだと顔を真っ青にして謝罪の連絡をとろうとスマホを掴んでから、気付いた。私、真波くんの連絡先を知らない、と。私の交友関係内で真波くんの連絡先を知ってそうな人間なんていない。というわけで直接謝るしか道はなくて、あ〜どうやって謝ろう〜と悶々と悩んでいる間に、放課後になってしまった。今頃真波くんは楽しく自転車に乗っているだろう。ハァー。溜息を吐いて外を見上げると、綺麗にオレンジ色に染まった空を烏が『アホーアホー』と鳴きながら飛んでいた。こんな時間まで、自転車競技部の部室の壁に背中をもたれさせて待ち伏せして。ストーカーみたい。はい、ほんとにその通りでございます、アホでございます、ハイ。
…あまり気にしてないかも、だし、もう謝んなくてもいいかな。
誠意の欠片もない考えが頭を過るほどの屑だという自覚は一応ある。しかし、頭に浮かぶのは授業中何の悩みもなさそうにすぴーすぴーと寝息を立てながら机に突っ伏す真波くんと「山岳!こら山岳!起きなさい!」と真波くんを潜めた声で叱りつける宮原さんの姿。
…あながち、私が言ったことは間違いではないかも、だし。
だって真波くん、変な子だもん。ぼーっとしながら空見てて、何見てるの?って訊いたら「坂!」と笑ってきた時は変な子だとしか思えなかった。
いつもいつも地面から三センチくらい浮いているような男子で、何を考えているか全く読めない。
マイペースを貫くような真波くんには、今の自分の位置を確保しようと躍起になって自分を偽っている私の姿はさぞかし滑稽に映るのだろう。
だから、あんな無神経なこと言えるんだ。
自分を正当化するための傲慢な言葉がぽつぽつと生まれてくる。
変な子だから、人のことなんてどうでもよさそうな子だから、別に気にしてないに決まってる。だって、変な子だもん。
自分勝手な理屈が完璧に正当化されようという時、「やってらんねー!」という怒声が空気を切り裂き、はっと我に返った。
な、なに。
男子の怒鳴り声にびくっと肩が跳ねる。壁に隠れながら、ちらっと盗み見ると自転車部の部員であろう二人が怒鳴り声を上げていた。
「なんで真波がインハイメンバーなわけ?」
「意味わかんねーよなー!普通黒田だろ黒田!」
「一年とか別になんなくてもいいだろ、二年でインハイ行くっつーのも珍しいのに」
「三年生にだってもっとインハイにふさわしい人いんだろ。三年生にとっちゃ最後の夏なんだぜ、なのにそれをあんな何考えてるか意味わかんねーヤツだしさ!!あんな天才ちゃんにはオレらの気持ちなんか1ミクロンもわかりっこねえよ!こっちがどんだけインハイに懸けてたかなんてちっともわかって…あ」
男子の声が怒りを帯びた激しいものから、突然間の抜けたものに変わった。私は驚きで目を見開くことしかできなかった。だってそこには。
「お疲れ様です」
真波くんはいつものようににこりと笑って、特に足を速めるでもなく、気まずさを感じさせないような足取りで、ゆっくりと二人の部員の横を通り過ぎた。
見開いたままの私の二つの眼が真波くんの横顔を捉える。少し幼さを感じさせる整った顔立を形成するパーツの一つである大きな瞳は少し、揺れていた。
さざなみのように揺れる大きな瞳は息を呑むほど綺麗だった。
真波くんと視線が合う。真波くんは一瞬速度を落として、へらーっと私に笑いかけてから、また元のスピードに戻した。
「まっ、て…!」
からからに渇いた口内から思わず飛び出た声は掠れていて、届かないと思ったのに。真波くんは歩みを止めてくれた。くるりと体を反転させ、きちんと私と向かいあわせになってくれた。
待ってと引き留めたものの、真波くんに何を言いたいのか自分でもよくわからず「えっと」と言葉を濁す。そんな私を真波くんは穏やかに笑いながら声をかけた。
「苗字さん。あのさ。気にしなくていいよ。先輩達の言ってること、間違ってないし」
真波くんは困ったように眉を八の字に寄せながらなんてことないように言う。
「オレよく言われるからさ、へらへら笑って何も考えてなさそうって。人のことなんかどうでも良さそうとか、そういうの。傷つけちゃったこととか、なかなか気付けないしさ。…苗字さんも、今更だけど、昨日はゴメンね」
突然、真波くんはぺこりと頭を下げてきた。へ、と間抜けな声が漏れる。真波くんは顔を上げ、片眉を下げながら情けなさそうに笑った。
「苗字さんに嫌われちゃったのはきつくて、謝らなくちゃいけないってのはわかってたのに顔見るの怖くて、寝たフリして誤魔化してた」
それなのにどうして私は思ったんだろう。真波くんが人に何か言われて傷つくはずないなんて。
自分の愚かさが憎い。
この世界で生きている人間に、人に何言われたって平気な人間なんて、一人たりしていないということなんて、少し頭を働かせばわかるものなのに。
「…っ、私こそごめんなさい…!」
湧き上がる気持ちを抑えきれないまま、ばっと勢いよく頭を下げた。
「っていうか、私が悪いよ!真波くんは全然悪くない!私、ほんとのことからずっと目を背けてて、それを真波くんに指摘されたのが恥ずかしくて、八つ当たりして、ひどいこと言って、しかも私それからさらに…あああもうごめん!!嫌ってなんかないよ!!」
真波くんの大きな目が少し見開かれ、さらに大きくなった。
「嫌ってないの?」
「嫌ってなんかないよ!!っていうかむしろ嫌われるとしたら私のほ…、」
続きの言葉は言えなかった。
真波くんが安心しきったように、頬を緩ませていて。
「…そっか」
心底ほっとしたような声音で呟かれて。
自分がどれだけ真波くんを不安にさせていたか、痛いほどわかった。
「…ごめん!!ほんとに!!あああああもう私の屑!!屑!!屑!!」
「苗字さん?」
「真波くんごめんなさい!!ほんとに!!ほんとにごめんなさい!!あーもう私の馬鹿!屑!!屑屑屑!!」
ポカポカと頭を拳で叩き付けはじめると真波くんが「え、ちょっ、苗字さん!」と慌てて私の手首を掴んでとりやめさせてきた。
「痛いよ、そんな思い切り叩いちゃ…苗字さん?」
不思議そうに首を傾げる真波くんの顔が近い。甘い顔立ちの割に大きな掌。眩暈にも似たときめきを覚え、カァッと頬に熱がともる。
「苗字さん、どうしたの?」
「え、えっと、いや、」
「熱かなあ」
ぴとっと額にくっつけられたのは真波くんの額だということを、目の前にある海のように綺麗な青色の瞳が証明していた。
青色以外、何も見えなくて。海の底にとじこめられたみたいだった。
「熱じゃないね。よかった」
海が遠ざかって行くと、真波くんの笑顔が今度は現れた。何の邪気もない、真っ新な笑顔。でもそうだからこそ。
「たちが悪い…」
真っ赤な顔を両手で覆いながら呟いた言葉。真波くんは「へ、なにが?」と呑気な声で返してくる。指の隙間から見えた真波くんはきょとんとしていて。ああもうこれだから不思議ちゃんは!舌を鳴らしたい衝動を必死に抑えながら紡いだ「なんでもない」は情けないほど掠れていた。