友達とお話しているユキちゃんのブレザーを後ろからちょいちょいと引っ張った。なに、と振り向くユキちゃんを下からじいーっと覗き込んで「お願いがあるの」と言った。わたしの背中には可愛らしい紙袋が隠されていた。
「じゃ、まず福富さんからで」
「…」
「オイ」
「植原!!」
三年生が溢れている廊下にカタカタと震えて怯えているわたしの耳に飛び込んできたのはユキちゃんの怒号。びくっと体を震わせてユキちゃんを見上げるとハァッと呆れたように溜息を吐かれた。
「福富さんからでいいよな。一番近いし」
ユキちゃんのブレザーの袖をちょんと摘まみながらこくりと頷く。ユキちゃんは何か思うところがあるのか耳の裏をがりがりと掻いたあと、諦観めいた表情を浮かべた。福ちゃんさんの教室に「すみません」と物怖じせずに入っていく。す、すごい。ごくりと唾を呑んだ。ユキちゃんは平然と三年生に「福富さん呼んでもらえますか」とお願いしている。すごい、すごい、と、感動している間に福ちゃんさんがやって来た。ユキちゃんからわたしに視線を移すと、怪訝そうな表情を浮かべた。
「ちわっす。あの、なんかコイツが福富さんに用があるって」
「用?」
きょとりと首を傾げる福ちゃんさんに、わたしはいそいそと紙袋から袋を渡した。
「ど、どうぞ」
頭を下げて渡すと、訝しがりながらも受け取ってくれた。自分の目線まで持っていって、それをまじまじと凝視したあと、福ちゃんさんは漏らした。
「クッキー?」
こくこくと首を縦に動かしたあと、つっかえつっかえになりながら言った。
「あ、あの、わたし、この前お世話になったお礼をしたいと思いまして、それで、お菓子作るの得意だから、クッキー、作ってきました。あの時はほんとに、ありがとうございました」
もう一度、ぺこりと恭しく頭を下げる。ほう、と感心するような不思議がるような声が上から降ってきた。頭を上げると、福ちゃんさんは観察するようにしてクッキーを凝視していた。
「開けていいか」
「あ、どうぞどうぞ…!」
リボンをしゅるりと解いて、星形のクッキーを摘み上げる。福ちゃんさんの金髪はお星さまみたいだなあと思ってたら、気付いたら星形の型抜きで抜いていた。福ちゃんさんはぱくりと噛り付いたあと、少し目を見開かせた。
「美味い」
「あ、あ、ほんと、ですか…!?」
「オレは世辞は言わない」
無表情だけど、次々に食べていってくれるから本当に美味しいと思ってくれているのだろう。やったあ、と小さくはしゃぐ。
「…良かったな」
ぽつりと上から無愛想な声が降ってきた。見上げると声色と同様に仏頂面のユキちゃんがいて。「なんだよ」とつっけんどんに言われた。
「ふふふ」
なんだかそのことがおかしくて、自然と笑ってしまう。綻んだ口元に手を当てながら笑っていると、ユキちゃんはムッと眉間に皺を寄せた。
「何笑ってんだよ」
「おかしいから」
「どこがおかしいんだよ。っつーかお前福富さんに何したんだ」
「ユキちゃんのことで相談に乗ってもらってたの」
「…はっ!?」
「そうだ。黒田、植原さんと仲直りおめでとう」
「は!?え、ちょ…!おい植原お前何を、」
「お、そこにいるのは黒田と植原さんじゃないか。三年の廊下にいるなんて珍しいこともあるものだな」
狼狽しきっているユキちゃんの声に覆いかぶさるようにして舞い降りてきたのは凛とした美しい声音。そこに視線を向けると今日も今日とてお美しい笑みを浮かべている東堂様が手をあげながらこちらに近づいていらっしゃった。自然と気分が高揚し、視界が薔薇色に包まれ、笑みが広がっていく。
「黒田と甘ちゃんじゃねーか。仲直りしたんだお前ら」
耳をほじりながらどうでも良さそうに言う荒北さんが出現した瞬間薔薇が全て枯れた。笑顔がすうっと消えていくのが自分でもわかった。
「うっわ、この女腹立つ」
口の端をひくつかせる荒北さんを東堂様が窘める。
「お前がこの前散々虐めたからだろう」
「虐めてねーよ。正論だ、正論」
「泣かせたことは事実だろう。すまんね植原さん。コイツはどうも口が悪くてな」
わたしに視線を合わせるように、若干屈んでお話してくださる東堂さまが麗しくて胸がいっぱいになる。ぶんぶんと頭を左右に大きく振って「い、いえいえそんなこと…!」と震えた声で返す。ああ、今日も、東堂様は素敵だ。
「あ、あの、東堂様に、これを」
紙袋から綺麗に包装されたクッキーを東堂様に差し出す。頭を下げながら「この前はありがとうございました…!」と言う。ユキちゃんが「マジでお前何したんだよ…!」と苛立ったようにぼやいていた。
「ク、クッキーです、わたし、その、お菓子作りなら少々、得意でして、その、」
しどろもどろになりながら伝えると、固い掌が頭に触れたのを感じ、どっきゅーんと心臓が大きく跳ね上がった。すっかり熱くなった顔を上げるとそこには美しい微笑みを湛えた東堂様がいらっしゃった。
「クッキーか。ありがとう、植原さん。大切に食べさせてもらうよ」
いっそう優しい微笑みが東堂様のご尊顔に広がって。それはわたしに向けられていて。お父さんお母さん、産んでくれてありがとう、と心の底から両親に感謝した。
「開けていいかな?」
「は、はい、もちろん!」
「お、綺麗なハートだ」
「は、はい、東堂様にはハートだと思いまして!!」
「ワハハ、そうかそうか」
東堂様が喜んでくださっている…と涙を流して喜んでいると、ふいに荒北さんが視界にいることに気付いた。どうでも良さそうにわたし達を見ていた。
荒北さんは苦手だ。わたしの苦手な男子の要素を全て兼ね備えている。ずけずけしたキツイ物言いは刃のように研ぎ澄まされていて、一刀両断にされた。
でも、荒北さんの言葉は紛れもなく真実で。
『甘ちゃん』のわたしに必要なものではあった、ということは悔しいけど認めなければいけないようだった。
ユキちゃんの袖をもう一度ぎゅうっと握りしめて、パワーを注入する。「え、このタイミングで」と驚くユキちゃんを連れて、荒北さんの前に立った。
「…荒北さん」
「なに」
ほら、こうやってこの人はつっけんどんに言う。怖い顔で見下ろしてくるし。ああ怖い。すうはあと息を吸ってから紙袋に手を入れた。
「…ク、ク、クッキーです、よ、よかっ、よかったら、どうぞ」
荒北さんを恐々と伺うようにして覗き込み、言葉を詰まらせながらだけど、何とかいう事が出来た。荒北さんはズボンのポケットに手を突っ込みながら品定めするようにわたしを見下ろす。この図はまさに蛇に睨まれた蛙。
「アンガト」
とても短く、とても雑に吐き出された言葉だったから、お礼を言われたのだと一瞬で理解することができなかった。へ、ときょとんとしていると奪うようにしてクッキーを掴まれた。荒北さんはリボンをしゅるりと解いて、クッキーを口内に放り投げる。
「うま」
ぼりぼりと噛んだあと自然な声音で漏らされて。眼が驚きで見張った。この人はお世辞を言うタイプではない。と、いうことは。本当に。
気分が高揚して、自然とガッツポーズになる。この喜びをユキちゃんと分かち合いたくて、満面の笑顔を向けようとした時。福ちゃんさんの不思議そうな声が耳にするりと入り込んできた。
「荒北のは…クマか?」
「あー、ぽいな」
「オレはハートでフクは星だ」
荒北さんはどうでも良さそうにへーとどうでも良さそうにクッキーを貪っていた。クマだと御三方が納得しているところに悪いけど、それクマじゃなくて狸なんですと訂正を促すべきかどうかでおろおろしていると。ぷーんと何かが耳の周りを飛ぶ音が耳を掠めた。ん?と右に視線を向ける。わたしの肩が視界に入った。肩には、一匹のよくわからない虫がとまっていた。
イヤアアアアアアと耳をつんざくような悲鳴が廊下に轟いた。え、なに!?と周りの人たちが眼を白黒させている。もちろん荒北さんも例外ではなかった。わたしを見て、細い目を真ん丸にしている。ちょうど視界に入ったのが荒北さんだった。なので、わたしは荒北さんに。
「たたたたた、たすけ、たすけて!!」
泣きながら荒北さんの腰に飛びついた。
「は!?なんだよ!!」
「むむむむむ、む、む、むむむ!!」
「は!?なに!?む!?」
「とってー!!はやくー!!はやくとってー!クッキーあげたでしょー!!」
ぎゅうっと荒北さんの胸に顔を押し付け腰に回した腕の力を強める。荒北さんが怖いとか、年上とか、もう形振り構っていられなかった。
「はやく、はやくー!!」
更に強く力を入れて抱き着くと、ぐいっと襟首を後ろに引っ張られた。ぐえっと呻き声が漏れる。肩をぴしゃりと軽く叩かれた。ぷーんと虫が窓の外へ逃げていくのを自然と眼で追ってしまう。すると、今度は額をぺしっと軽く叩かれた。
「痛いよ」
両手で額を抑えながら口を窄めて抗議すると、ユキちゃんは「ハァ?」と不快げに眉を上げた。
「痛いわけねーだろ。軽く叩いたんだから」
「叩かないで」
「誰が虫追っ払ってやったと思ってんだ!礼を言え礼を!」
はっ、ほんとだ。叩かれたことに意識が集中していた。わたしはぺこりと頭を下げて「ありがとう」と言った。しかし、ユキちゃんのお説教はまだ終わらなかった。
「あと先輩には敬語を遣え!!」
「はあい」
「あと!!」
ユキちゃんはいっそう声を張り上げた。まだ続くの?と不満げに唇を尖らせて眉を吊り上げているユキちゃんを見上げる。
「男に無暗に抱き着くな!!」
そう言ったあと、ユキちゃんは腕を組みながらハァーッと深い溜息を吐いた。
「だって虫が」
「虫がじゃねーよ、虫が飛んでたらお前はオッサンにも抱き着くのかよ」
「かもしれない」
「は…っ!?冗談で言ったんだけど、え、マジか!?オイこら植原お前なあ…!!」
うーんと顎に手を添えながら考え込んで出した答えに、ユキちゃんは平静さを失い、若干狼狽えはじめる。
すると。
「ぶ…っ」
「おい荒北笑うな…!」
「お前だって笑ってんだろーが…!」
東堂様と荒北さんが肩を小刻みに震わせて笑っていた。わたしと福ちゃんさんは頭上にハテナマークを浮かべながら目を合わせる。そんな中、ユキちゃんは少し経ってから、カァッと頬を赤らませた。
喉の奥で笑いを噛み殺している東堂様と荒北さんの眼はにんやりと細められて、ユキちゃんに向けられていた。ユキちゃんは何やら言いたげに二人を睨みつけてからこほんと咳払いをひとつしてから、「なんすか」と、平静を装う。
「いんやァ?なんにも?」
「二人が気にするようなこと全くないッスからね」
「おや黒田。オレは何にも言ってないが」
「眼が言ってんすよ」
「そう思うのは実際に『そう』思ってからじゃナァイ?」
荒北さんの愉悦を湛えた瞳が緩むと、ユキちゃんの眉がぴくりと跳ね上がり「こっの…っ!」と握った拳をぷるぷると震わせていた。
「喧嘩は駄目だ」
「喧嘩は駄目」
ほぼ同時に、福ちゃんさんは荒北さんの肩にぽんっと手を置きながら厳粛に言いつけ、わたしはユキちゃんの袖をくいくいと引っ張って顔を覗き込みながら懇願した。二人は少しの間ぱちぱちと瞬いてから。
「へーい」
「…別に喧嘩じゃねーよ」
荒北さんは間延びした声で軽薄に言い放ち、ユキちゃんはバツが悪そうに口を窄めた。東堂様がぷっと破顔して、いつもの豪快笑いとは打って変わって静かに喉の奥でくつくつと笑っていた。笑みを湛えた口元が少し開いて、楽しげに言う。
「飼い主と犬だな」
暫し、沈黙が空間を支配する。それを破ったのは「ハァー!?」と怒りを露にした二人の声。東堂様は今度はいつものように「ワッハッハッ!」と大きく笑って、食って掛かる二人を軽くいなしていく。先輩にからかわれているユキちゃんはどこからどう見ても『後輩』の顔をしていた。わたし達はまだ出会って日が浅い。知らない顔、知らない声、知らない一面、きっとたくさんある。それはこれからいっしょに過ごしていく日々の中、くるくると回る万華鏡のように新たな一面を見せていくのだろう。
そう思うと。胸に春のひだまりのような暖かさが差し込み、わたしの心を覆った。ふふっと笑みが零れ、それは唇を飛び出し、けたけたと声に出して笑ってしまっていた。
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