ユキちゃんはさらに部活に励むようになった。その反動で授業は寝るもの、休み時間は寝るもの、そう思っているんじゃないと思うくらいに、よく寝るようになった。つまり、全然わたしに構ってくれないということで。ユキちゃんが全然構ってくれないということにわたしは不満を覚えていた。
「今日決めんだろー!頑張れよー!」
ワイワイと、ユキちゃんを応援する声が少し離れた場所から聞こえてくる。ユキちゃんは数人の男の子達に囲まれて「お前に言われなくても頑張るっつーの」と挑戦的に口角を上げていた。ペンケースを鞄に入れる動きを止めて、じいっとユキちゃんを見つめる。やっぱり瞳には、わたしには決して向けない光が宿っていた。
…がんばれって、わたしも言った方がいいんだろうなあ。
言いに行くのが『友達』として正しい行動だとわかっているのに、足がどうにもうまく動かない。ユキちゃんを見ているのが辛くなってきたころ、ふいにユキちゃんの視線がこちらに向いた。わたしは慌てて視線を少し下に下げる。どうしよう、言った方がいいってわかってる。でも、でも。と、下唇を浅く噛みながら逡巡していると「じゃーな」と少し苛立っているユキちゃんの声が耳に入ってきた。はっと顔を上げると、ちょうどユキちゃんが教室から出ていくところだった。ユキちゃんの背中がわたしから遠ざかっていくのを、わたしは「あ」と思いながら、間抜けた顔で見送ることしかできなかった。
…別に、いいや。
最近ユキちゃん、わたしに構ってくれなかったし。
わたしが応援しなくたって、たくさんの人に応援してもらってるし。
無理矢理、言い訳を並べながら、ペンケースを鞄の中に雑に突っ込んだ。
…すーがく、疲れたあ。
握っていたシャーペンを机に転がした後、うーんと背伸びをする。図書室の窓から橙色に暮れた空を見上げた。何故、わたしが真っ直ぐ家に帰っていないのかと言うと。今日、わたしの部屋にテレビを設置してくれるということで、電気屋さんが来てくれるということになっているのだ。人見知りが激しいわたしは知らない男の人が家にいるという状況が恐ろしくてたまらないので、電気屋さんが帰ったころを見計らって帰宅しようと思っている訳である。男の人…ああ、怖い。
…最初のころはユキちゃんのことも怖かったなあ。
思い出を振り返って、ふっと口元が緩む。
ちょっと経ってから、何度もプリントを届けてくれるいい人だと思うようになってったなあ。話しかけてくれて、誘ってくれて、泣いても、見捨てないでくれて、たくさんたくさん、優しくしてくれて。
…なのに、わたしは。ちょっと最近構われなくなったからって、拗ねて、応援の言葉もかけなかった。
なんて我が儘で幼稚なんだろう。情けない。今更だっていう話だけど自分が情けなく思えてきた。掌を丸めると、爪が食い込んだ。
もう一度、空を見上げる。もう、結果は出ている頃だろう。
…おつかれさま、おめでとうって、言おう。
うん、と頷いてからわたしは立ち上がった。そうだ、お菓子も買って行こう、おめでたいことなんだから。
寂しい気持ちは依然として心の中にある。メンバーに選ばれたユキちゃんはこれからさらにわたしに構わなくなるだろう。わたしは甘やかされて育ってきたから、ユキちゃんの『一番』がわたしではないことがつまらなくて寂しい。わたしにも構ってよおと駄々をこねたい。
けど。
ユキちゃんは、インハイとやらに選ばれたら、すっごく嬉しがるのだろう。くしゃくしゃの笑顔でよっしゃあ!と声をあげるのだろう。
寂しく思う気持ちよりも、ユキちゃんの笑顔を見たいという気持ちの方が上回った。
購買は閉まっていてお菓子は買えなかったので、自販機で買ったいちごミルクを持っていくことにした。自転車競技部の部室へ向かう。部活が終わるまで待って、部活終わりのユキちゃんに「おめでとう」といちごミルクを渡すのだ。そしたら、きっと、ううん、絶対に喜んでくれる。
笑顔が見たいの。笑顔にしたいの。わたしが。他の誰でもない、わたしが。
わきあがる気持ちを抑えるかのように、いちごミルクを持つ手に力が入っていたことに気付き、慌てて弱める。危ない危ない…と額の汗を手で拭う。
すると、どこからか、鼻を啜る声が小さく聞こえてきた。
…なに?
きょろきょろと辺りを見渡す。けど、誰もいなくて、わたしは首を傾げた。
誰か、泣いてるのかな。
誰が泣いてるんだろう、と好奇心が湧き上がってくる。いちごミルクを鞄の中に入れてから、わたしは足音を殺し、そっと鼻を啜る音の方へ、足を進めていった。
そろりそろりと近づいて、気付かれないように壁から顔を出し、そっと盗み見る。
声が出そうになった。
慌てて両手で口を抑え、背中を壁にくっつける。ばくばくと鳴っている心臓。胸から飛び出しそうだ。
ユキ、ちゃん。
小さな嗚咽は、間違いなくユキちゃんのものだ。あそこで顔を覆って泣いているのは、間違いなくユキちゃんだ。
畜生、と小さく震えている声がわたしの心臓を大きく揺さぶった。
負けちゃったの?
出られないの?
あんなに、頑張ってたのに?
よく回らない頭を、ぐるぐると似たような言葉が駆け廻っていく。でもどの言葉も、駆け巡って、駆け巡っていきつく先はいっしょだった。
泣かないで。
ユキちゃんの嗚咽を聞くたびに心臓が押しつぶされていく。
心臓が締め付けられていく。
わたしの周りだけ酸素が薄くなったみたいに、呼吸がしづらい。
泣かないで、泣かないで、泣かないで。
どうしてかよくわからないけど、ユキちゃん、わたし。
ユキちゃんが泣いてると、わたしまで泣きそうになるの。
心臓の震えが体にまで伝染して、掌が震える。嗚咽が漏れだしそうな口を必死に掌で抑えつける。
ユキちゃんは泣いている。悲しくて。きっと、インハイに出られなくて。
心の中で、すぐ近くで泣いているユキちゃんに呼びかける。
わたし、ユキちゃんに、たくさん色んな事してもらった。
だから、今度はわたしの番。
わたしがなんとかしてあげる。
足音を立てないようにして、この場からそろりそろりと去っていく。少し離れてから、小走りでわたしは向かう。頭も体も心臓も熱い。鈍くしか動かない脚がもどかしかった。
ユキちゃん。わたしが絶対、絶対なんとかしてみせる。
だからお願い。
泣かないで。
距離はそう遠くないのに、ものすごく遠くにあるように感じられた。『自転車競技部』と看板がたてられかけた小屋の前に、わたしは息切れをしながら立っていた。小さな小屋のはずなのに、ものすごい威圧感を感じる。
知らない人、たくさんの男の子が、ここにいる。
そう思うと脚が竦んだ。知らない人も、男の子も、苦手だ。今日なんて知らない男の人が家に来るというだけでわたしは家に帰っていないのだ。怖くて脚がすくむ。体が震える。でも、やめるわけにはいかなかった。
ユキちゃんが、泣いている。
顔を覆って、悔しそうに泣いているユキちゃんの姿が網膜に焼き付いて離れない。悔しそうな嗚咽も鼓膜にこびりついて離れてくれない。
小刻みに震える掌をぎゅうっと握りしめて、拳にして、それをドアに叩き付けた。キィッとドアが開かれた。怖くて閉じそうになる目を無理矢理最大限に開く。すると現れたのは。
「―――なんか用?」
短髪の眼つきが悪い男の人で、なんでよりによってこの人がドアを開けたのだろう、と絶望に襲われた。怖くて思うように声が出ない。魚のように口をぱくぱくさせていると、その人は「は?なに?」と、苛立ちを隠そうともせず問いかけてきた。
どうしよう、一番苦手なタイプ、こわい、こわい、やっぱ、かえ―――、
『る』と、思うより前に、ユキちゃんの姿が思い浮かんだ。
今も、泣いてるのかな。
そう思うと、恐怖よりもユキちゃんに泣かないでほしいという気持ちが僅かに上回って、わたしは一旦口を閉じてから、すうっと大きく息を吸い込んだ。しっかりと地面に足をつけて、怖い男の人を見据える。
「お、おは、おはな、」
「ハァ?お花?」
「…っお話しが、あるんです、ユキちゃんのことで…!!」
震える声を無理矢理絞って叫ぶようにして言う。怖い男の人の眉毛がぴくりと小さく動いた。
「ユキちゃんってェ、黒田のことォ?」
「えっ、あ…っ、はい…。その…っ」
こんな怖い男の人と話すことは初めてで、どうしても気おくれしてしまう。あのその、えっと、ともだもだしながら言葉を紡いでいると、「さっさと話してくんナァイ?」と苛立ちながらせっつかれた。そう言われると、余計喉の奥で言葉がこんがらがって、出てこなくなる。頭が『どうしよう』で埋め尽くされていく。怖い男の人がチッと舌を大きく鳴らした時、びくっと体が大きく震えて、涙がじんわり浮かんできた。視線を下に向けると、震えている頼りない脚が視界に映った。もうやだ、逃げたい、でも、ユキちゃんが。
…ユキちゃんが。
ユキちゃんの姿が思い浮かぶ。そして、また、馬鹿みたいに同じことを思う。
泣かないで。
「言いてェことないみてェだし、」
「ユキちゃん、頑張ってるんです」
視界に映っている、頼りない足元から視線を逸らし、怖い男の人の顔を見上げる。男の人は品定めするように細い目でわたしを見下ろしていた。
「すごく、ほんとに頑張ってて、休み時間も寝てるからわたし最近全然話してなくて、寂しくて、」
嫌だった。わたしの知らない世界で、とても生き生きしているユキちゃんを見るのは。
「なのに、選ばれないなんて、おかしいです」
けど。
「すごく、行きたそうにしてて、インハイ、の話してるとき、ぎらぎらしてて、」
ユキちゃんが。
「だから、ユキちゃんを、インハイに行かせてほしいん、です」
ユキちゃんが泣いてるのは、もっと嫌だ。
…言えた。
全力疾走したあとのように、心臓がばくばくと言っている。どくんどくんとうるさく響く心臓。怖くて涙目で男の人を見上げながら、もし断られたとしても、何回でもお願いしようと決心する。怖いけど。逃げたいけど。でも、ユキちゃんが泣いてるのをなんとかするためには、これしか方法がない。
怖い男の人はじいっとわたしを見下ろしたまま、薄い唇が開いて何か言おうとした時、空気を切り裂くような怒号が飛んできた。
「何やってんだお前!!」
びくっと飛び上がってから振り向くと、目を吊り上げたユキちゃんが立っていた。ずかずかとわたしに近寄ってきて、力強くわたしの手首を掴みあげた。
「いたっ」
「ざっけんな!!何みっともねェことしてんだよ!!」
ユキちゃんは怒っていた。つり上がった目から燃え盛るような怒りが漏れ出ていた。
「モンペか!息子が学芸会で主役はれなくて学校に殴り込みに来るモンペか!!バカか!!ふざけんな!!」
ぎりぎりとわたしの手首を掴む手にどんどん力が入っていく。
痛い、怖い、どうして。
「だって、ユキちゃ、インハイ、行きたいって」
「ハァ!?だからこんなおせっかいやいたって!?」
「だって、」
だって、わたしにはこれくらいしかできないもの。
ユキちゃんの部活の人に頼んで、ユキちゃんをインハイに行かせてくださいって頼むことしか、できないもの。
少しでも、役に立ちたかったんだもの。
泣き止んでほしかったんだもの。
「ユキちゃん行きたいって、言ってたから、だから、お願いしたら、行けるようになって、ユキちゃん、喜んでくれるかもって」
しどろもどろになりながら、泣きそうになるのを必死に抑えて言う。すると、ユキちゃんの眉がさらにつり上がった。
「そんなんで行けるようになっても、ぜんっぜん嬉しくねーよ!!」
大きな声で怒鳴ったからか、ユキちゃんは肩で息をしていた。それでもわたしを睨みつけることはやめない。ユキちゃんの喉がこくりと動いたあと、わたしの手首を掴む力が少し緩んで、小さな声で紡がれた。
「同情してんじゃねーよ…!!」
その声音はとても震えていて、悔しげで、恥ずかしそうで、怒っていて。
わたしの手をそのまま大きく振り払い、ユキちゃんは部室の中へ入っていった。怖い男の人の横を通り過ぎて、バァン!!とドアが荒々しく叩きつけられた音が轟く。
「…あのさァ」
呆然としているわたしに、怖い男の人が面倒くさそうに声をかけた。怒声を浴びせかけられてじんじんと痺れている脳みそはうまく働かない。緩慢な動作で男の人を見上げる。この人が荒北さんなのかなあ、とぼんやりと思った。
「え、うわ」
視界が涙で溢れていって、荒北さん(多分)の顔が滲んで、よく見えなくなった。
「それにしてもビジュアルが被ってしまい…、荒北…!?何をやっているのだ!?」
「ハァ!?なんもしてねーヨ!!」
「…荒北」
「ちげーって!!ちょっ、福ちゃん!!マジで!!マジでちげーんだって!!」
ああ、どうしてこうしてわたしはこんなにも。
情けなくて、幼稚で、間違ってばかりなんだろう。
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