はじめて恋をした記憶 | ナノ


―――ブルータス、

『おまえもか』とは言わないで、わたしはこう言った。

「なんでここにいるの?」

わたしが飼っているハムスターのブルータス(ゴールデンハムスター、雌)は、鞄の中ですやすやと寝ていた。

わたしは朝学校に行く前、ケージからブルータスを出して、いっしょに遊ぶ。それがなんやかんや。色々あって、いつのまにか鞄の中に紛れ込んだらしい。鞄の中ハンカチとティッシュとペンケースとお菓子ポーチとポーチしか入ってなくて良かった。置き勉バンザイ。教科書を鞄の中にきちんと詰め込んでいたら、ブルータスは圧迫死していたかもしれない。

大事な家族のブルータス。幸子ちゃんと依里ちゃんには紹介したことがある。隼人くんにも紹介したい。隼人くんが家に着た時、紹介するのを忘れていた。弟にわたしには彼氏がちゃんといるの!と説明しなきゃいけないということで頭がいっぱいになっていたからだろう。

と、いうわけで。

「隼人くん、わたしの家族のブルータスだよ」

「え?」

東堂くんと話している隼人くんの背中をつんつんとつついて、振り向いた瞬間にそう言った。藪から棒にそう言われて、隼人くんは吃驚したようだ。

「なんでハムスターが学校に…?」

同じく驚いている東堂くんがブルータスを見ながら言う。「知らないうちに入ってたの」と説明してから、「ブルータスだよ」と東堂くんにも紹介した。東堂くんは「は、はァ…」と若干気おくれしながら言った。隼人くんがぷっと軽く噴出した。

「この子がブルータスか、こんにちは」

そう言って、人差し指で優しくブルータスを撫でる。ブルータスは気持ちよさそうに撫でられていた。ブルータスは面食いだから、イケメンに撫でられて嬉しいのだろう。でも、わたしの彼氏だから求愛行動をとることはしないのだ。いつも隼人くんの話をブルータスにしているから、ブルータスも隼人くんを知っている。
ブルータスは隼人くんを見てから、なんとなく東堂くんに視線をずらした。そして、目をきらきらと輝かせた。

ブ、ブルータス、きみは、まさか。

「ちょっと東堂くん、掌にブルータスのさせてあげてくれない?」

「え?まあ、別に、いいが」

東堂くんはブルータスを掌の上にのせた。すると、ブルータスは東堂くんの掌の上で転がり始めた。

「東堂くん、きみ、求愛されてるよ」

「…え!?」

「ぶっ」

「ブルータスは面食いだからねえ。よかったねえ。これはかなり気に入られてるよ」

「…オレは…ハムスターまで虜にしてしまうのか…。罪な男だな…」

東堂くんは悩ましげな溜息を吐いた。わたしはブルータスの頭を撫でながら、「東堂くんは幸子ちゃんと付き合ってるから駄目だよ?」と釘を刺した。東堂くんも「すまない」と謝る。ブルータスは転がるのをやめて、固まった。すっかり硬直したブルータスを東堂くんから引き離して、胸ポケットに入れる。

「じゃあね、隼人くん」

「ん、またな」

ひらひらと手を振ると、手を振りかえされた。うえへへへへ。嬉しくて笑ってしまう。

隼人くんと付き合ってから、しあわせで、すっごくしあわせで、だから、わたしは忘れていた。

好きな人に好きな人がいる、という悲しみがどんな暴走を生むのかを。



胸ポケットにブルータスを入れて授業を受けようと思ったんだけど、「不自然に胸が大きくなっていておかしい」と依里ちゃんに言われたので、ブルータスを再び鞄の中に入れることにした。ちゃんと呼吸もできるように、ファスナーは開けておいた。授業は全て終わり、あとは帰るだけ。ペンケースを入れようとして、鞄を開いた時、驚愕で目を見開いた。

ブルータスが、いない。

鞄の内ポケットの中に指を突っ込んでみる。いない。色々な鞄のポケットを開いてみる。いない。え、え、え。

冷や汗がじんわりと噴き出てくる。いない。いない。どうしよう。頭の中がぐるぐる回る。

「美紀ちゃん、バイバイ」

「またねー」

名前を呼ばれて、びくっと肩が跳ね上がる。振り向くと、幸子ちゃんと依里ちゃんがわたしに手を振っていた。探すの手伝ってもらおうか、という考えが頭をよぎる。けど、今日幸子ちゃんは東堂くんと図書室で勉強すると言っていて、依里ちゃんは他校の彼氏に会うと言っていた。探すの手伝ってと言ったら二人とも用事を断って、快く了承してくれるだろう。依里ちゃんはもうほんと馬鹿、と毒づきそうだけど。

でも。

「…またねー!」

いつも通りの笑顔を貼り付けて、手を振る。ふたりとも背を向けて、教室から出てった。勝手だけど、置いていかれたような心細さが胸の中に宿る。

隼人くんに、いっしょに探して、って頼もうか。

そんな考えが芽生えて、すぐに摘んだ。ダメダメ。すぐ男に頼るような女はろくな女にならないってお母さんが脚立に昇って電球を替えながら言っていた。

隼人くんは非常におモテになられる。合コンに行って誰からもアタックされなかったわたしとは違う。この前トイレに籠っていたら、「新開くんと堀田さんって付き合い始めたんだってー」「えーウッソォー!?」「マジだってぇー」という会話が流れた。名前も知らない彼女たちはわたしの悪口を言わなかった。純粋に、ただただ、驚いていた。お兄ちゃんと妹みたいな感じだと思ってたんだけどなあ〜と、しきりに首を捻っているような声色だった。

…お兄ちゃんと妹じゃないし。彼氏と彼女だし。

トイレのドアに背中をもたれて、胸の内でひっそりと呟いたあの日のことを思い出すと、口の中が薬を飲んだ時のように苦々しくなる。周りの目なんてそんな気にする性質じゃないけど、でも、あれだけ驚かれたら、わたしだって少なからず、悲しく思うわけでして。でも、くよくよと思い悩む性質でもない。だから、驚かれないようにするために、頑張ろう!と自分自身を鼓舞した。

そう、できる女になればいいんだ!!と。

できる女はひとりで全てできる。誰にも頼らないで、ひとりでできる。ひとりでブルータスも見つけられる。…よし!!と、手を拳に丸めて意気込んでから、とりあえず、自分の机の中を漁ることにした。



「ブルータスー」

声を潜めてブルータスを呼ぶ。すっかり、日が暮れてしまった。それでもブルータスは見つからない。見廻りの先生の目を必死に掻い潜って、わたしはブルータスを探していた。先生にばれたら「なんでハムスターを連れてきたんだ!!」と怒られてしまう。怒られるのは、嫌だ。怒られるのが好きって言う人はMなんだろう。わたしはMではない。

色んな教室を探し回った。それでも見つからない。焦燥感が強くなっていく。どこいったの。ねえ。心の中で呼びかける。すっかり暗くなった教室で、ずっとカバンの中に放置していたオモチャの懐中電灯だけが光を放っている。

どこだろう、どこにいるの、ねえ。焦りに焦っているわたしの耳は、ガチャリと鍵が回される音を捕えなかった。

今日のブルータスはなんかあったっけ。隼人くんに紹介して、それから、東堂くんを見て、東堂くんに求愛して、あ。

東堂くん。

東堂くんの机の中に懐中電灯を当てた。綺麗に整頓されている。祈るような気持ちとはこういうことを言うのだろう。光を隈なく当てる。すると。机の中に、小さなもふもふが背中を見せていた。見慣れた小さな背中。

「ブルータス…!!」

安心しきったわたしは情けない声色で彼女の名前を呼ぶ。ブルータスがこちらを向いた。そっとブルータスを掴んで、掌の上に乗せる。すりすりと頬を寄せると、ふわふわの暖かい感触がした。

よかったあ。と、安心で、安心しすぎて、視界が潤んだ。

「よし、帰ろう、ブルータス」

ブルータスは東堂くんの机を名残惜しそうに見た。どうしたんだろう?と首を傾げた後、ピコーンと女のカンが働いた。そうか、ブルータス、きみは。

「…今日はヤケヒマワリの種だ…」

よしよしとブルータスの頭を撫でた。ヒマワリの種で失恋の傷は完璧には癒せないだろうけど、ないよりは、マシだろう。ブルータスの瞳が潤んでいるような気がするような、しないような。ブルータスの頭を優しく撫でた。

おお、すっかり夜だ。ブルータスをそっと胸ポケットに入れて、鞄を肩にかける。さて、帰ろう。ドアに手をかける。

…あ、れ。

ガタガタと揺らすけど、開かない。あれ、あれ、あれ。何回開けようとしても、開かない。ええ。頭の中が真っ白になる。密室。密室殺人事件。いや人は殺されてないから、密室事件か。明日も学校はあるから、このまま一晩学校で過ごすという手もある。けれど。誰もいない夜の学校で、わたしとブルータスだけで過ごすというのは。

ぶるっと体が震えた。どうしよう。怖い。懐中電灯の光を頼りに、電気を点けた。もう先生は帰っているだろうから、電気点け放題だ。わーい。いやいや全然わーいじゃないよ。外からドアを閉められている限り、内側から鍵をかけられている窓をつかって脱出するしかない。けど、ここは二階だ。飛び降りるしか手はない。

窓をからからと開けて、見下ろす。深い闇が下から覗き込んでいた。ごくっと唾を呑む。二階だから、だいじょうぶ。死にはしない。骨折も、まあ、しないだろう。そんなに運動神経が悪いわけじゃないし。

でも。やっぱり、なんか、怖い。

夜の学校にひとりと一匹という心細さから、体が震えはじめた。ぐすぐすと鼻を啜り始める。

駄目だ。まだ、わたし、できる女にはなれないや。

震える手で鞄からケータイを引っ張り出した。着信履歴45件。一瞬涙が引っ込む。お母さん、太一、お母さん、お母さん、幸子ちゃん、依里ちゃん、

―――隼人くん。

隼人くんから、たくさん電話がかかってきていた。新開隼人の文字をぼうっと見ていると、ケータイが震えた。通話ボタンを押す。

「美紀…!?」

切羽詰まった、らしくない声が、聞こえてきた。続いて、「どこにいるんだ!?」と、焦りに焦った声が、耳の中に飛び込んでくる。

「が、っこう」

「は…!?なんでまだ学校…ああ、いい。理由は後からきく。そこで待ってて」

「うう、わだじ、学校がら、みっじづ、でれない」

「…どういうこと?」

かくかくしかじかで、とわたしは事の次第を全て洗いざらい涙声で話した。隼人くんは黙ってわたしの話を聞いてくれたあと。

「…今、行くから」

隼人くんは手短に言った。ブツッと切れたあと、ツーツーツーという虚しい音が耳の中で響いた。隼人くん、きてくれるんだ。非常事態なのに嬉しく思う気持ちが湧き上がる。

…でも、どうやってここまで来るんだろう?


「美紀」

下から名前を呼ばれた。よく目を凝らすと、隼人くんが暗い中立っていた。ラフな服装をしている。部屋着のようだ。

「はや、と、くん」

あれからもメソメソ泣いていたわたしは、涙声で隼人くんを呼ぶ。でも、隼人くんを見れて、ほっと安心する。それはそれで、また別の涙が溢れ出てくるのだけど。

「ブルータス、鞄の中入ってる?」

「入って、な、い。ポケットの中」

「じゃあ、鞄投げて」

わたしはこくりと頷いてから、鞄を下に投げた。隼人くんが受け止める。おお、ナイスキャッチ。ぱちぱちと拍手をする。

隼人くんはわたしに向かって手を伸ばした。暗いからわかりづらいけど、真剣な顔。どうしたんだろう、と思っていると、隼人くんは言った。

「絶対受け止めるから、飛び降りて」

へ。

ぱちぱちと瞬きをしたのち「ええー!」と声をあげてしまった。ぶんぶんと首を振って「無理無理!」と言う。

「駄目だよー!隼人くんわたし受け止めたら骨折しちゃう!」

「しねえから」

「自転車乗れなくなっちゃうよ!?」

「骨折しねえから、乗れるから」

これまためずらしく、有無を言わせない口調。一歩も引かないようだ。でもでも、と躊躇してしまう。だって、もし、折れちゃったら、それで自転車乗れなくなっちゃったら、わたしは自分で自分を許せなくなってしまう。

「美紀」

ううう、と唸っていると、隼人くんがわたしの名前を呼んだ。いつものように、深く、落ち着きのある声で。

「だいじょうぶだから。おいで」

だいじょうぶだ、という科学的な保証はどこにもないのに。隼人くんが『だいじょうぶ』って言うなら、だいじょうぶなんだろう、そんな確証と言えない確証がすとんと胸に落ちてきた。

隼人くんの顔を、きちんと見る。真剣な眼差しが、とても綺麗。そんな場違いなことをぼんやりと思った。

だいじょうぶ。うん、だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。
だって、隼人くんが『だいじょうぶ』って言ったんだから。

「わか、った」

こうり、と頷く。隼人くんが「ん」と頷いた。窓から身を乗り出して、やっと人一人立てるだけの隙間に立つ。ひゅおーっと冷たい風が頬を撫でた。スカートの下にスパッツ履いていた良かった。

「隼人くん」

「うん」

「いきます」

「うん」

目をぎゅうっと閉じて、空中へ足を踏み出した。落下の時間はあっという間に終わった。かなりの衝撃と伴に、暖かい温度に包まれる。ぎゅうっと、背中に回される熱い掌。足が宙に浮いている。恐々と目を開けると、隼人くんを見下ろしていた。綺麗な大きな瞳に、吃驚しているわたしが映っている。

「お、おり、られた?」

「うん」

隼人くんはわたしをそっと下ろした。足が地面に着く。

「よ、よかったあ〜…」

ほっと胸を撫で下ろしていると、「美紀」と固い声で名前を呼ばれた。顔を上げて、思わず固まってしまった。こうやって近くで見ると、隼人くんが真顔の中に怒りを滲ませていることが伝わってきた。

「なんで、何も言わなかったんだよ」

隼人くん、怒ってる。

いつも優しい隼人くんが、わたしに対してこんなに怒っているのを見るのは初めてで、狼狽えてしまう。何か言いたいのだけど、うまく言葉が出てこない。

「吉井さんから尽八経由まだ家に帰ってないって電話かかってきて、オレがどんだけゾッとしたか、わかる?」

「あ、う、えっと」

「なんで、何も言わねェんだよ。言えよ。あんだけ普段オレのこと彼氏彼氏って言って、なんでこういう時に頼らねェんだよ」

「う、あの、」

「そんなにオレって頼りない?」

「ちが、」

「こんな時間まで、誰にも何も連絡入れないで、マジで、なんかあったんじゃないかって、」

隼人くんは、わたしの話を聞かないで、一方的にまくし立てた。普段口数がそこまで多くない隼人くんに似つかわしくない行動だった。でも、言葉は突然途切れ、隼人くんは顔を手で覆った。指の間から見える閉じられた瞼が苦しそうだった。とても苦しそうだから、なんとかしたくて、隼人くんの頬にそっと手を伸ばしてみた。そうしたら、どうなるってものでもないけど。でも。

頬が冷たい。探してくれたのかな。
とても、悲しそう、苦しそう。

…ああ、ダメダメだなあ。わたしは。

隼人くんは、顔から手を離した。わたしを見る。瞳が不安定に揺らいでいた。隼人くんが、小さな子供に見えた。

「わたしがピンチの時に、助けに来てくれるのはいつも隼人くんだね」

ふふふ、と嬉しくて笑いが零れる。
ピンチの時に助けに来てくれる彼氏。その彼氏が隼人くん。そのことが、とっても、嬉しい。

「隼人くん、いつも助けにきてくれて、ありがとう」

嬉しくて、嬉しくて、そのまま笑いかけると、隼人くんは少し目を見張ってから、わたしをぎゅうっと抱きしめた。あたたかい。良い匂い。隼人くんの匂い。少しきついけど、気持ちいい。うえへへ、と品のない笑いが口から漏れた。



「わたしと隼人くんカップルに見えないらしくてね、だからねー、大人の女になろうと…そう、できる女になろうと思って、それで言わなかったの」

お母さんが車で迎えに来てくれるのを、ふたりで待っている間、わたしはなんで隼人くんを頼らなかったのかを滔々と説明していた。

「だからブルータスもひとりで見つけ出そうと思って…。その結果、こんな騒ぎになっちゃったんだから、もう、駄目駄目だー」

あーあ、とため息を吐く。幸子ちゃんに「わたし大丈夫だよー!」と電話したら泣かれた。東堂くんに怒られると震えた。依里ちゃんに電話したら「この馬鹿!!」と怒鳴られた。耳がキーンと鳴った。お母さんに電話したら「この…この…この…アンポンタン!!」と罵られた。いまいちうちのお母さんは怒りの迫力に欠けている。

「美紀って、オレの妹みたいって言われてんの?」

「うん。なんかねー、付き合う前から言われてるよー。はーあ。彼女なんだけどなー。わたし子供っぽいからなー」

もう一度、ため息を吐く。うーん、と腕を伸ばして伸びをする。

「美紀は時々、すっげえ大人なんだけどな」

「え、そうなの!?」

きらきらと目を輝かせて隼人くんに問いかける。「どういう時!?どういう時!?これからそのときの顔普段でもしてくから、教えて!!」と、隼人くんの腕を掴んで、勢いよく問いかける。

「え、普段使いするつもり?」

「うん!」

にこにこと、元気よく答える。隼人くんは「うーん」と困ったように笑ったあと、ぼそっと呟いた。

「…他の奴らに見せたくねえな」

「ねえねえ、はやく、教え、」

なお、問いただそうとするわたしを、隼人くんは緩めた瞳で見た。背中に手を回されて、もう片方の手で顎を持ち上げられた。開いていた口を塞がれる。ふわっとした前髪が額に当たってくすぐったい。後頭部にまわされた手の力が強くなる。今までで、一番長いキス。

「んん」

少し苦しくて、声が漏れる。すると、離された。酸素を存分に吸い込んでる間、隼人くんはわたしの髪の毛を耳にかけた。人差し指と親指が耳に触れる。触れたところが熱い。

「キスしてる時も、結構大人な顔だけど、どうする?見せつける?」

緩やかな瞳、緩やかな口元。でも、どことなく意地悪く見えるのは、多分気のせいじゃない。

「…隼人くん。“も”ってなに?他にもあるの?」

「教えない」

「意地悪だ」

「ハハッ」




きみの温度を独占したい



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