はじめて恋をした記憶 | ナノ


足元がふらつく。体がだるい。眩暈がする。これは、うん、風邪だ。熱がある方の、風邪だ。俯きながら頼りない足取りで廊下を歩いていると、ぽすっと誰かにぶつかった。すんすんと匂いを嗅ぐ。これは。

「はやどぐんだ…」

鼻声で大好きな彼氏の名前を呼んだあと、顔をあげた。やっぱり、隼人くんだった。オーノー、すっかり鼻声になってしまっている…。うへへと笑いかけるわたしをじいっと見た後、わたしの額に手を置いた。

「…熱あるな、これ」

「うん、あるね、これは」

腕を組みながら、神妙な面持ちで頷く。すると、手首をするりと掴まれた。ゆっくりと引っ張られていく。

「保健室行こう」

「隼人くんもついてきてくれんの?」

「うん」

「ありがとう〜!」

鼻をすすったあと、表情筋を緩めて笑いかける。緩やかに細めた目を向けられて、きゅーんと胸が鳴った。隼人くんの手は大きくてあったかくて、わたしの手首をいとも簡単に包み込んでいた。あ、また胸がきゅーんとなった。


ピピッと温度が表示された体温計を見て思わず「わーお」と外国人のような歓声をあげてしまった。

39.2℃

「先生、39.2℃でした」

「え、すごいな」

「堀田さんよくそれで歩けてたわね…」

「ふふふ、すごいですね、わたし!」

少し得意げになって胸を反らすと、先生は呆れ返った眼差しを向けてきた。

「お家の人、迎えに来れる?」

「うちんち共働きだからそれ無理です。ひとりで帰ります」

そう言って、立ち上がると、ふらっとよろけた。数字にされたからだろうか。しんどさが増した。血が出ているのを見ると、出血部分が途端に痛みを訴えかけてくるような感じだろう。おっとっと…っと思いながらよろめていると、うしろから肩を両手でつかまれた。

ありがとーとお礼を言いながら見上げると、隼人くんが神妙な顔つきでわたしを上から覗き込んでいた。わたしから視線を外して、先生に向けてから、隼人くんは言った。

「オレ、家まで送ってきます」

へ。

もう放課後だから、隼人くんは授業を気にせず好きに過ごしていいのだけど。でも、寮生がわざわざわたしを家まで送るなんて面倒くさいだろう。うーん。それはなんだか…悪いなあ。

「いいよ、隼人くん。めんどっちいでしょ。わたしひとりで帰れるよ」

「さっきよろめいてた子に言われても説得力ねえなあ」

「なんだとお」

隼人くんに向き直って、キッと睨みつける。でも、痛くもかゆくもないようだ。全然怖くねえ、と笑って受け流された後、わたしの鞄を肩にかけて、手を繋いできた。

「じゃ、先生。ありがとうございました」

「先生またねえ」

ばいばーいと手を振ってから、ドアをガラガラと閉める。ドアの向こう側で先生が「なんて良い彼氏…羨ましい…」と呟いていたとか、そうでないとか。



「隼人くんわざわざ送るのめんどーくさくないの?」

「美紀以外のだったらめんどくせえな、って正直思うだろうな」

隼人くんによってぐるぐるに巻かれたマフラーに顔を半分埋めながら問いかける。隼人くんはのんびりとした口調で返した。

「わたしはめんどくさくないの?なんで?」

「うーん…、彼女だから、かな」

彼女だから。

ぱあーっと気分が明るくなった。ふふふとマフラーの中で緩んだ口元で笑ってしまう。そうか。わたしは隼人くんの彼女。嬉しい嬉しい嬉しい。嬉しい、で心が満たされていると、バスのドアが開いた。いこ、と隼人くんがわたしの手を引いて、ゆっくりと立たせてくれる。

「隼人くん」

「ん?」

「なんにもない」

隼人くんは首を傾げて、穏やかな声で応対してくれた。隼人くんと呼べるしあわせ。手を繋がれるしあわせ。今ならギネスで世界一しあわせな人として認定されてしまうかもしれない。ぐふふ、と気味悪い笑い声を、マフラーの中で漏らした。

バスが地元についたあと、わたしは駐輪場に隼人くんを連れて行った。わたしは、バス停までは自転車を使っているのだ。

「サドル上げていいか?」

わたしの自転車のハンドルに手を置きながらサドルをじっと見た後、首だけをこちらに向けて、そう問いかけてきた。も、もしや。

「に、ニケツをしようとしてる…!?」

「え、うん」

しれっと答えられる。「ニケツ嫌い?」と、見当違いなことを訊いてくる隼人くん。まさか。とんでもない。ぶんぶんと首を振って、感情をこめて言う。

「わたし、彼氏とニケツするの夢だったの!」

喜びできらきらと輝かせた瞳を、隼人くんに向ける。隼人くんはぱちぱちと瞬きをしていた。

「ほら、ジブリでも、あったじゃん。パズーとシータがやってたし。ああいうのしたいなあって」

「パズーとシータ…?ラピュタにそんなんあったっけ…」

「ふふ、やったあ、うれしい、隼人くんとニケツだ〜!ふふふ!」

緩みきった頬を両手で挟んで、ぐふぐふと笑う。隼人くんはしばらくわたしをじいっと見ていたかと思うと、一回スタンドを立てて、わたしの前に立って、ぽんぽんと頭を撫でた。優しげな微笑を浮かべている。嬉しくてぐふふと笑ってしまった。


荷台に座る。目の前には大きな背中。隼人くんが振り向いて、わたしに言った。

「オレの腰とか、きちんとどっかつかんどいて。美紀今すっげえふらついてるんだからさ」

「うん」

隼人くんのブレザーをちょいとつまむ。それじゃ振り落されるぜ、とからかうように言われたので、じゃあ腰、と腰をつまんだ。

「くすぐったくない?」

「だいじょうぶ」

「そっか」

隼人くんが地を蹴って、ペダルを漕ぎ始める。そこまっすぐーと後ろから案内して、隼人くんがわかったと頷く。いつもと同じ景色が流れているのに、いつもと違って見える。隼人くんがいるからだろうなあ、と熱に浮かされた頭の隅っこで思って、ふふふと笑った。

「隼人くんってママチャリでもはやいの?」

「あー、まあ、普通の奴よりは速いと思うぜ」

「さすが箱根の直線鬼だね」

「あ、それ知ってたんだ」

「知ってるよ、彼女だもん」

「…そっか」

隼人くんが、どことなく嬉しそうな笑い声を含ませて、小さくそう言った。隼人くんのこと、顔だけなら知っていた。友達の彼氏の友達だし、隼人くんは目立っていたし。でも、きちんと話すようになったのは三年生の途中からで、まだ日数も短い。隼人くんのこと、東堂くんの百分の一しか知らないだろう。

「隼人くん」

「うん」

熱が上がってきてるのだろう。さらに頭がぼやんと膜がかかったようになっている。視界もぼやけていた。

「わたしのライバルって福富くんと荒北くんと東堂くんなんだ」

「え、どした。なんで?」

「だって、わたしより隼人くんのことたくさん知ってるもん」

隼人くんは言葉を返さなかった。自転車を漕ぐ音が、風の音をかき消していく。冷たい風は、隼人くんが大半受けてくれているので、そんなに寒くないけど。

「ねえねえ、あの後輩くんと走った時みたいな速さで走ってみてよ。あ、でも普通の道じゃ危ないかあ。無理かあ」

「…そうだな。無理だな」

やっぱり、と肩を落とす。信号が赤になった。キキィッと軽くブレーキをかけてから、自転車がとめられる。

「だって、」

そう言ったあと、隼人くんは振り向いた。

「美紀が後ろにいるし」

いつも通りの、少しだけ口角を上げた、穏やかな笑顔。ぱちぱちと瞬きをして、言われた意味を理解しているわたしがそうとう間抜け面だったのか、隼人くんは噴出して、くつくつと喉で笑ってから、顔を前に向けた。青信号になっていた。

「隼人くん、耳がちょっと赤いよ」

「え」

「寒いもんね」

「…そうだな」

少しだけ、漕ぐのが速くなったような気がした。


「家まで送ってくれて、」

“ありがとう”と続けようとした時、ふらっと立ちくらみを覚えた。隼人くんにもたれかかる。隼人くんが珍しく慌てながら、わたしの肩を両手でつかんだ。それから、額に手を置く。

「あっつ…!よくこれで喋れてたな…!」

冷たくて大きな掌が心地良くて、目を細める。気持ち良すぎて、意識がどっかに飛んじゃいそう。隼人くんが焦っている。めずらしい。いいもの見れた。

「わたし、すご、い、から…」

「え、ちょ…、美紀…!?」

隼人くんの匂いが、体温が、近づく。良い匂い、なんて変態くさいことを思いながら、わたしの意識は遥か彼方へ追いやられたのだった。



「うーん…」

自分の呻き声で目が覚めた。視界に映ったのは、見慣れた白い天井。小学四年生からお世話になってい天井だ。なんとなく、横に顔を向けてみた。そこそこ見慣れた背中とふわふわの髪の毛が…。

「はや、とくん?」

起き抜けなので、声がガサガサに掠れていた。ふわふわの髪の毛の持ち主が、振り返る。

「起きたか。よかった」

「…わたし」

「軽くぶっ倒れてた。15分ぐらい。ゴメン、家勝手に邪魔させてもらった」

「ううん、ありがとう」

以前、一回だけ家に呼んだから、家の構造も少しだけわかっていたのだろう。あの時、わたしの部屋は散らかっていたので見せなかったけど、三人で遊んだ弟の部屋の隣ということはドアノブにぶらさがっていた『美紀』のプレートでわかっただろうし。

「なんか欲しいもんとかある?」

「飲み物」

「オレの飲みかけでもいい?」

「うん」

そっか、と頷いてから、隼人くんはわたしにペットボトルを手渡した。ゆっくり上半身を起こして受け取る。お茶を喉に流し込んで、ぷはーっと息を吐いた。オッサンか、と笑われた。

ペットボトルの口をじいーっと見る。うん、これは。うん。

「なんでにやにや笑ってるんだ?」

隼人くんが不思議そうに問いかけてきたから、わたしは答えた。嬉しそうに笑いながら。

「間接チューだ、って思って」

彼氏と、ニケツして、間接チュー。アイスも食べた。彼氏だから嬉しいっていうのもあるんだろうけど、隼人くんだから、こんなに嬉しいんだろう。彼氏が、隼人くんだから。

「美紀」

ギシッとベッドが軋む音が聞こえた。下を見ると、隼人くんの掌と太ももがベッドに乗り掛かっていた。

「な、ん」

顎を親指と人差し指で輪郭をなぞる様にして持ち上げられて、軽く触れた唇は、わたしより体温が低いからか、冷たく感じる。反射的に目を閉じてしまった。目を開ける。綺麗な二重瞼が文字通り目と鼻の先にあった。綺麗な瞳がゆっくり閉じられて、もう一度、キスされる。

ただでさえ熱があるのに、さらに熱が上がってしまう。これは駄目だ。しかも隼人くんに熱が移る可能性が大だ。エマージェンシーエマージェンシー。

唇を離されてから、わたしはクッションで唇をガードした。ふるふると首を振ってから「もう駄目」ときっぱりと言う。わたしは流される女ではないのだ。

「隼人くんに風邪移るから駄目。今のでばい菌うつったかもしれないから、うがいたくさんしてね」

「ばい菌って」

隼人くんはおかしそうに小さく笑う。いいからするの!ときつく言うと、「わかった」と笑いながら言われた。本当にちゃんとわかっているのだろうか。

「このお茶もう飲めないから、お金渡す」

「いいよ、別に」

「120円を馬鹿にしちゃいけないよ。駄菓子屋のお菓子なら結構買える」

カバンの取っ手を引っ掴んで、財布を取り出して、120円握らせる。隼人くんの手は大きかった。知ってるけど。

「美紀」

なに、と言おうと首を上げたら、ふにっと柔らかいものが唇を掠めた。目が見開く。ほんの一瞬の熱。けど、今のは間違いなく。

「は、隼人くん、わたしの言うことを」

軽い怒りでわなわなと震える。隼人くんはハハハと涼しげに笑っていた。ハハハじゃないよ。ちょっと正座をさせて説教しなくては、と思っていると、「ただいまー!腹減ったー!!」と血を分けた弟のアホ丸出しな声が下から聞こえてきた。

「お、帰ってきたか。じゃあオレ帰るな」

隼人くんは、お大事に、とわたしの頭をぽんぽんと撫でてから、立ち上がる。爽やかに笑いながらばいばい、と手を振ったあと、ドアが閉められた。隼人くんは自分がどれだけ危険なことをしたのかわかっていない。

駄目って言ったのに。なんでわたしの言うことをきかないの。まったく。まったく。まったく。

けど、一番“まったく”なのは。

「ねーちゃんだいじょうぶー?熱なんだろー?」

「だいじょうぶじゃないかもしれない。姉ちゃんはすっかり馬鹿になってしまった」

「知ってるよそんなの。やーそれにしても新開さんはかっけえなー」

キスされて、すっごく嬉しいと思ってしまった、わたし自身だろう。








持ってけ心臓


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