▼
どれだけ気分がどんよりと曇っていても膨大な量の英語の予習は待ってくれない。というわけで、私は電子辞書を片手に英語と戦っていた。正直マイクがどうなろうが知ったこっちゃないと小学生のような屁理屈をこねながら「えーとH、U、R、T…」と電子辞書をタップしていく。表示された言葉は
hurt
動詞:傷つける
思わず机に突っ伏した。急に半泣きになって逃げだした。鳴子くんを傷つけたかもしれない。謝らなくちゃいけないとはわかっているものの、名前で呼ぼうとしたことが九割の確率でバレているため、恥ずかしくてケータイを手に取ることができない。
ヴーッ、ヴーッ。
…え。
机の隅っこに追いやられたケータイに恐々と視線を送る。振動していた。恐る恐る手を伸ばして、ぱかっと開くとそこには『鳴子章吉』の文字が浮かび上がっていて思わず息を呑んでしまった。
…どうしよう。
…出たくない。
…いや、でも、明日鳴子くんの大会見に行くから、それ関連のことかもしれないし…。
なにより。
ここで出なかったら、私はますます自分のことが好きになれない。
ぎゅうっと目を瞑りながら清水の寺から飛び降りる思いで通話ボタンを押して、耳に押し当てる。
「楠木さーん!」
耳に流れ込んでくるのはいつもとなんら変わりない鳴子くんの元気な声だった。
「夜遅くにごめんなー!もう寝るとこやった?」
「ううん。英語の予習してたから大丈夫」
「…。……。………!!英語…!!あー忘れとった!!あー!!思い出させてくれありが…、いやでも今からやるの嫌やな…明後日やろ…」
「いつでもいいけど、ちゃんとやりなよ?やらなかったら田所さんに言っちゃうからね」
「げっ!そこでオッサン出すのは卑怯やろ…!!って、ん?楠木さんとオッサンってそんな仲良いん!?」
「結構仲良くさせてもらってる」
「…えーー!?ちょっ、えーー!?あのオッサンくそ、油断しとった…!!」
「何変な勘違いしてんの」
「だって楠木さんオッサンのことめっちゃかっこええ思っとるやん!!」
「…」
「ほら否定しいひんーー!!ウガーーーッ!!」
もう、ほんとにうるさいなあ。部活後とは思えないテンションの高さに呆れているはずなのに、心に思い浮かんだ言葉とは反対に暖かいもので心が満たされ、そして和らいでいく。三分前まで悲壮に暮れていた私はどこへいってしまったのだろう。
こうやって鳴子くんはいつも私を救ってくれるんだよ、ね。
ぎゅうっと心臓の辺りが甘酸っぱい思いで締め付けられていく。謝ろう。急に逃げてごめんって。下の名前で呼びたかったの、と洗いざらい告白して、そして。
名前で呼ぼう。
鳴子くんはきっと喜んでくれる。
この男の子は人からの好意を無下にしない人間ということを私は身を以て知っている。
あのね、と言葉を紡ぐよりも「あんな!」と、鳴子くんが言う方が速かった。出鼻をくじかれたとは思うがいつものことなのでさらりと受け流して「なに?」と訊く。
「明日な、大会やねん!」
「うん。知ってる」
「絶対に!きてや!!」
「え、うん」
元から約束をとりつけていたのになんでわざわざ再確認するんだろう、と首を傾げている私に鳴子くんはもう一度「絶対やで!!」と念を押してきた。
…なんか変だな。
と、訝しがっていると「ほんじゃあ!おやすみ!」と突然通話を切られた。ツーツーツーと虚しい音が耳の中で響く。
…一体なに…?
って、あ。
謝ってない。下の名前でも呼べてない。
明日大会を備えている人にわざわざ電話をかけて起こすほど私は無神経な人間ではない。
…まあ、いいか。明日謝ろう。そして、今度こそ。…試に練習してみよう。すうっと息を吸い込んで、口を開く。
「…しょう、き、ち、くん」
初めて声にのせた好きな人の名前は、絶大な効果を持っていて。カァーッと体中を熱が這いまわる。私は顔から湯気を出しながらまたしても机に突っ伏したのだった。
熱狂的な歓声があちこちから湧き上がってくる中、私はゴール前で欠伸を噛み殺していた。彼氏が頑張っているというのに何たる体たらくと自分にげんなりするが昨日興奮で一睡もできなかったのだ。許してほしい。気付いたら日がカーテンの隙間から差し込み小鳥の囀りが耳を擽り…朝が来たということに気付いた時は思わず『嘘でしょ』と呆然と呟いてしまった。嘘じゃなかった。
ゴール前で待っててや!いっちゃん先にゴールするから!!とカッカッカッと大笑いしながら豪語された通り、私はゴール前で待っていた。鳴子くんの姿どころか誰の姿も見えないのでどういう戦況なのかイマイチ掴めず『大会』ということがうまくピンとこない。
「今どの辺り走ってるかわかる?」
一緒に観戦している小野田くんに訊いてみると「は、はい!」と上擦った声で返答されてから「た、多分もうゴールに近いんじゃないかな…!もうすぐだと思うよ!」とこれまた慌てふためきながら答えられた。小野田くんは現実世界の女の子が少々苦手…というか話すのに緊張するそうだ。ウブなやつやで〜!!と鳴子くんが大笑いしながら教えてくれた時『わ、なにそれ。可愛い』と素直に感想を述べたら鳴子くんは五秒間停止したのち『実は…ワイも女子と喋んのめっちゃ恥ずくて…』とわざとらしくもじもじしながら言ってきて『気持ち悪いからやめて』とこれまた素直すぎるお願いをした。馬鹿すぎる思い出が頭の中を駆け巡り、私は遠い目をした。まあいい。過去は過去。大事なのは今。
…今、ゴール付近かあ…。
どんな風に走ってんだろ。
…あの時みたいな感じかな。
夏の日のことを思い浮かべると、とくんと胸が静かに動きを始めた。通常より速い心音がむず痒くて照れ臭くて鬱陶しい。頬に手をあてるとほんのり熱を帯びていた。
…正直、あれは…。あれは…。かっこよかった…。
言ったら絶対調子乗るんだろうなあ、せやろ!?ってカッカッカッと笑いながら。鼻高々に調子に乗っている鳴子くんの姿は想像にしても現実味を帯びていて、妄想の三物とは言い切れず、白けた気持ちになる。
…調子に乗って、それで。
…すっごく、喜ぶんだろうなあ…。
さらに早まった心音を抑えるように、シャツの胸元をぎゅうっと右手で握りしめるとワーッと歓声が沸いた。はっと我に返って慌ててロープから身を乗り出す。
私が視線を向けた場所、そこには見慣れた赤頭。周りの人たちより一回りほど小さくて、でも。
「な、鳴子くーーん!!」
小野田くんが大きな声で声援を飛ばす。恥ずかしながら、見惚れていた私は声援を送るのに遅れをとってしまった。応援の体勢に入った時、鳴子くんがちょうど私の前を通って。
強い意思を宿した二つ強い眼は真っ直ぐに前だけを見据えていた。
私が呆けている間に鳴子くんはゴールテープを切って、爆発のような歓声が沸き上がって。
「やった!やったよ!!鳴子くんがいっちゃ…、楠木さん?」
意識をどこかに飛ばしている私を不審に思った小野田くんが顔を覗き込んできた。女子の顔を覗き込んでしまったという行為がすぐに恥ずかしくなったようで、慌てて私から距離をとって「す、すすすすみません!」と真っ赤な顔で謝ってきたけど。
「…ううん、そんな謝んないでよ。一番、だね。うん、よかった」
にっこりと笑いながら空虚な響きを持つ御祝いの言葉を並べる。
鳴子くんの目はただゴールだけを見据えていて。
私の姿は眼中に入ってなくて。
真剣勝負の瀬戸際なんだから仕方ないかもしれないけど、そのことが、ショックで。
私は昨日からずうっと鳴子くんのことだけを考えていたのに。
…仕事と私どっちが大事なのなんてヒステリー起こす馬鹿女みたい。
青い空に浮かんでいるのは照りつく太陽という爽やかな風景の中で、お世辞にも綺麗とは言えない感情が渦巻いていた。
閉会式、鳴子くんは優勝ということで台の上に昇っていた。たくさんの人に賞賛を浴び、メダルを貰い、太陽顔負けの笑顔で「おおきにー!」と観客に向かって手を振る。
「あの子ちっちゃいのにすごい走りだったねー!」
「高1だってさまだ!なのにあんな走りできるとかすっげー!!」
彼氏が褒められているのに素直に喜べない自分が恥ずかしくて、顔を俯ける。すごいでしょ、かっこいいでしょ、私の彼氏と思うことができない。鳴子くんは惜しみなく自慢してくれるのに。
ちっぽけで臆病で可愛げのない私を可愛いと言ってくれた男の子。
ひどい態度をとって傷つけたのに惜しみない愛情を真っ直ぐにぶつけてくれた。
いつも優しくしてくれて海のように広い愛情を向けてくれるから、慢心していたけど、本来は私の方がフラれる立場にあるのだ。ロードバイクという競技に彼女は必要ない。それどころか邪魔になるだけの可能性もある。
こんな、下の名前もろくに呼べない可愛げの欠片もない彼女、いなくたって。
「―――結衣ちゃん!!」
キーーーーン、とハウリングが起こって、全員耳を抑えた。小野田くんが「はわわ〜」と耳を抑えながらふらついている。もともと大きな鳴子くんの声が更にハウリングされたのだ。うるさくて星がチカチカと浮かぶ。
…って、…え。
………え…?
目が自然と大きく見開いていく。視線が鳴子くんに吸い寄せられる。
鳴子くんは、真っ直ぐに私を見据えていた。緩やかに細められている目の奥にあるのは優しい光り。
「やーバウリング?ちゃうわそれは犬語の翻訳機やー!なんや懐かし!カッカッカッ!ハウリングやハウリング!ハウリングしてすんまへん!」と明るく謝ったあと、もう一度、声にのせた。
私の名前を。
「結衣ちゃん!!今日、来てくれてほんっまにおおきに!!結衣ちゃんが来てくれたおかげで、ゴールもぎとれたわ!!ほんまにほんまにおおきに!!そんで!!」
すうっと息を吸い込んでから、マイクに声を叩き付けるようにして、鳴子くんは言った。
「ワイだけ下の名前で呼ぶのめっちゃ恥ずいから!!ワイのことも下の名前で呼んでください!!お願いします!!」
そう言ってから、大きく頭を下げる。
どうして。こうやって、鳴子くんはいつもいつも。
胸の奥が熱くなって苦しくなって、息がしにくい。
鳴子くんが優勝できたのは鳴子くんの力だ。私は少しも手伝えていないのに。
ああもう。
どうして、いつも、私が欲しがっている言葉をくれるんだろう。
周りからヒューヒューと囃し立てる声が響く中、鳴子くんは「いや〜」と笑いながら後頭部を掻いていた。私と目が合う。すると鳴子くんはぎょっとした。しまった…!という顔をしている。インハイの時、台の上で私に告白して私にめちゃくちゃ怒られたことのことを思いだしているのだろう。目が左右に泳いでいる。
そうだよ鳴子くん。私は目立つことが嫌い。だから今もあの時と同じように正直恥ずかしくてしかたない。
でもね、鳴子くん。
私、あの時ね、すっごく、うれしかったんだ。
「結衣ちゃん、あの怒って…、」
「章吉くん」
若干青ざめた顔色をしている鳴子くんの表情が今度はきょとんとしたものに変わった。くるくる表情が変わるなあ。万華鏡みたい。ほんっと見てて飽きない、と笑みがこぼれる。
もう一度、名前を呼んだ。私の声にのせた大好きな人の名前は、特別な響きを持っていた。
「章吉くん、優勝おめでとう。…すっごく格好良かったよ」
自然と頬が緩んで、優しい笑みが生まれる。鳴子くんの顔色がどんどん髪の毛以上に赤くなっていく。しいんと周りが静まり返って私を凝視している。…ちょ、ちょっとそこまで見られると…恥ずかしいんですけど…!周りの視線と羞恥に耐え切れなくなってたまらず顔を俯ける。でも、さっき俯いていた時とは全然違う気分だった。
「って、わーー!!そこの兄ちゃん何結衣ちゃんのことガン見してんねん!!あんたやあんた!!そこの青いTシャツの!!」
「…は!?見てねえよ!!」
「嘘や!!鼻の下伸ばしてたやん!!」
「…」
「ほら否定しいひん!!」
「…い、いやでもそれ以上にお前が伸ばしてっから!!」
「せやな!!」
そこでどっと笑い声が生まれた。そっと盗み見ると「思わず笑いをとってしもたわ〜」とカッカッカッと得意げに笑っている鳴子くんがいてほとほと呆れてしまう。
うるさくて、子供で、おせっかいで。
…でも。
「小野田くん」
「…は、はい!?」
ずっと真っ赤な顔であたふたとしていた小野田くんにそっと問いかけてみた。
すると小野田くんは即座にぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべて言った。
「僕の自慢の友達です!!」
「…そっか」
ふふっと笑いを零してから、私も晴れ晴れとした心から生まれる笑顔を小野田くんに向けた。
「私も」
自慢の彼氏、と添えると。小野田くんはまるで自分が言われたように顔を赤くしてから、「えへへー」と照れたように笑った。
火照った顔を上げると風が撫でていった。見上げた空には眩しいくらいに輝いている太陽がこれでもか!というくらいに存在を主張していて、どっかの誰かさんみたいだと思った。
斜め45°で恋をしよう
prev / next