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オレは死にかけていた。
嘘じゃない。本当だ。死ぬほど死にかけていた。ん?なんか変な言い回しだな。まあいっか。ぐうきゅるるるるごおおおおと喚く腹の虫。すきっ腹を抑えながら部室までよろよろと歩いていた。オレの隣で歩いている段竹が「早弁すっから」と呆れたような眼差しを向けてきた。
「仕方ねーだろ…天才は…腹がすくんだ…」
「そんな天才の定義初めて聞いたな。昼も購買のパンよく噛まずに食ってただろ。早食いは腹にたまんねえって、」
「あーうっせーな!!」
母ちゃんのように小言を垂らしてくる段竹に噛みつくようにして怒鳴ったあと、ふらっと足元がよろめいた。耐え切れなくて、その場で腹を抑えながらうずくまる。部室行くまでもたねェ、死ぬ、マジで死ぬ。そう、死を覚悟した時だった。
影が差し、清らかな声が降り注いできた。
「大丈夫?」
心配そうにオレを見下ろしてくるその女子は、見覚えのある人物だった。カーッカッカッとうるさくて先輩風を吹かしてくるうっとうしい人物の、彼女だった。
「マジサンキューッス、もぐもぐっ、マジリスペクトッス、くちゃくちゃっ、マジ命の恩人ッス!」
「食べるか喋るかどっちかにしてくんない?」
楠木先輩は不快げに目を細めたあと「はい」と缶ジュースを差し出してくれた。え、これ、と目を瞬かせていると「私の奢り」と微笑まれる。オレは「あざっす!!」と体育会系を丸出しにしたでかい声で礼を述べた。
「ううん。こっちこそ。いつも章吉くんがお世話になってるお礼。うるさいでしょう」
「はい、マジうるさいッス!ウザいッス!」
「一差…。お前な…、鳴子さんがいないからって…」
非難がましい目を向けて咎めてくる段竹に、楠木先輩は「あーいいのいいの」と手をひらひら振った。
「私もうるさくてウザいって思うし」
「ほーら!楠木先輩もこう思ってる!」
そら見たことか!と段竹に得意げな面を向ける。彼女である楠木先輩直々の『うるさい』と『ウザい』だ。と、いうわけで。鳴子さんはうるさくてウザい!これでいいんだ!と、頷いたあと楠木先輩お手製のおにぎりにかぶりつく。超うめェ。やべェ、マジうめぇ。
「すごい食べっぷりだね…」
「マジうまいんで!すげーっす!マジすげーッス!」
「一差のボキャ貧っぷりが浮き彫りになってる…。すみません、これ、鳴子さんにあげるやつですよね…?」
「いいのいいの。まだあるから」
「そうなんスか!?じゃあもう一個食いたいッス!超うめえッス!!」
「一差…」
「はいはい、どーぞ」
「やったー!!あざっす!!」
「一差…」
楠木先輩は優しい。クール系の整った顔立ちの割に、雰囲気が柔らかい。こうやって時々オレに食い物恵んでくれるところとか、マジ、いい人。同級生の女子には『けっ、女なんてしゃらくせえ!!』と片意地張ってしまうオレだが、年上の女の人には気を緩めてしまう。
「部活、まだ始まんないでしょ?早く行って自主練するつもりだったの?」
「はい!そうです!!」
「一差米粒飛ばしながら喋んな汚ェ」
「うん。ほんとそれ。…こんな暑い中、君たち、ほんとすごいね」
楠木先輩は青空に目を向けてたあと、気持ちよさそうに細めた。もうすっかり初夏だ。澄み切った青空、生ぬるい風、もうすぐインハイだ。そう思うと、ぶるっと体が震える。武者震いというやつだろう。
「…目がぎらついてる」
我に返ると、楠木先輩がじいっとオレの瞳を覗き込むようにして見ていた。そして、ふっと慈愛を瞳に滲ませた。
「自転車好きなんだね、ほんと」
「はい!」
「章吉くんと同じ自転車バカ、だね」
「鳴子さんと同じってなんか嫌ッスね!」
「…正直者だね、鏑木くん」
楠木先輩は苦笑した。段竹は「すみませんほんと」と頭を下げた。母ちゃんか。
「楠木先輩は自転車好きじゃないんスか?」
「んー。好き、ではないんだろうね。章吉くんとか小野田くんとか、知ってる人以外のレースには興味持てないし」
「じゃー彼氏がいっつも自分が大して興味ねェことに夢中なのってつまんなくないッスか?」
「一差…。あの…ほんとすみません…」
段竹が謝る。だからお前はオレの母ちゃんか?そう睨みつけていると、楠木先輩が小さく笑いを零して、それからふるふると首を振ったあと、きっぱりと言い切った。
それはないよ、と。
「そりゃ、まあ、デートとか人並みにしたいって思うけど。でも自転車より私を優先する章吉くんなんて、章吉くんじゃないよ。…章吉くん、ロードバイクに乗ってる時、ほんと楽しそうで、嬉しそうで、でも、目はぎらぎらしてて。そういう章吉くん見るの、私、嫌いじゃないし。多分ね、デートの日と大会が被ったら章吉くん謝りながら大会出たいって言ってくると思うよ」
呆れたように。仕方ないと言うように。でも、どこか嬉しそうに。楠木先輩は言った。
「多分、私の永遠のライバルは、自転車なんだろうなあ」
ふうっと、仕方なさそうに溜息を吐いた楠木先輩の横顔はとても穏やかだった。んー、と腕を伸ばした後「もうひとつ、おにぎりいる?段竹くんも」と訊かれてオレは二つ返事で「はい!」と答えた。段竹はオレに非難がましい目を送る。けど、楠木先輩に「いらないの?」と訊かれたあと「…いただきます」とぺこりと頭を下げた。楠木先輩が「ん」と微笑みながら頷いて、「たくさん作り過ぎちゃって」と苦笑いを浮かべて鞄からおにぎりを出すと。
「結衣ちゃーん!!」
こんなでかい声で、楠木先輩の名前を呼ぶ男は、この学校に一人しかいない。鳴子さんはニカーッと八重歯を見せた笑顔で、こちらにやって来た。
「ちゃーっす、鳴子さん!」
「ちわっす、鳴子さん」
「よっ!何しとったん?」
「楠木先輩からおにぎり恵んでもらってました!」
「そーかそーか!結衣ちゃんのおにぎりめっちゃうまいやろ〜!おにぎりコンテストがあったらグランプリ間違いなしやからな!」
「章吉くん大きな声で呼ばないでって言ったでしょ。何回言えばわかるの?」
「結衣ちゃんは照れ屋さんやな〜」
「本気で言ってんだけど」
「あ、これほんまか。ほんまに嫌がってる方か。ごめんなさい」
鳴子さんは楠木先輩に頭が上がらない。鳴子さんがギャーギャー騒いでいるのを楠木先輩が冷静に窘めたり、冷静にキレたり。いつもそんな感じだ。いつもうるさい鳴子さんといつも静かな楠木先輩。正反対なこの二人。どうやって付き合うことになったんだろう。ドラゴンボール完全版全巻あげるから付き合ってくれとか頼んだのだろうか。多分そうだろうな。米粒を堪能しながら頷く。
だとしたら、ドラゴンボールの力はやっぱりすごい。
だって、ほら。
「あ〜!ほんまめっちゃ美味い!最高!三ツ星レストランにのんでこれ!」
「大袈裟。うるさい」
つんけんしながらも嬉しさを隠しきれない様子の楠木先輩に、愛情を浮かばせて瞳を細め、笑いかける鳴子さん。自転車に対する激しいものとはまた違う感じだ。
おにぎりを食いながら、ドラゴンボールすげえ。そうじみじみと思う、ある晴れた初夏の日のことだった。
素敵な話をしてやったり
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