とおまわりの記録番外編 | ナノ



 床の上に広げられたそれを見て、ごくりと唾を飲む。ついに、ついに、買ってしまった。真っ白な生地に鮮やかなレースが飾られている。サイドはリボンで結ぶ形式だ。美容院で読んだ雑誌に掲載されていた『彼氏が喜ぶ下着』にまんまと釣られてしまったわたしは、通販で買ってしまったのだ。そっと手に取って、眼前に掲げる。照明に照らされたそれはキラキラと光っているように見えた。
 …これ履いたら、よろこんでくれるかなあ。ちらりと時計を確認する。まだ、帰ってこない時間だ。よし、と小さく意気込んで全部脱ぐ。新品のショーツに脚を通し、上まで持ち上げてから面積の小ささに吃驚した。続けてブラもつけて、お風呂の鏡の前に立つ。いつもより大人っぽい下着姿のわたしがもじもじと映り込んでいた。…よろこんでくれるかなあ。何でもかんでも可愛いと褒めてくれるから、きっと褒めてはくれると思うけど…。基本的にわたしはそういうことをする時、尽八にお任せしっぱなしなので、少しでも返したいのだ。俯いて、自分の姿を確認する。本来の役割を果たしていない、『そういうこと』をするための下着。う、うわあ…。今更ながら恥ずかしくなってきて、頬に熱が宿る。でも身体は寒くなってきた。もう一度、服を身に着けて部屋に戻る。もうそろそろ帰ってくる頃だ。そわそわと待っていると、チャイムが鳴らされた。家主の―――尽八のお帰りだ。合鍵を渡してくれたので、出入りが自由なのだ。貰った時、すっごく嬉しかったなあ。ドアを開けると、冬の匂いが飛びついてきた。

「ただいま…!」

 ぎゅうっと抱きしめられて、足が浮きそうになる。木枯らしを受けてすっかり頬が冷たくなっていた。高校生の頃だったら大袈裟な愛情表現にわあわあと恥ずかしくなっていたけど、最近は普通に受け流せるようになった。「お帰りなさい〜」と、よしよしと後頭部に手を回して髪の毛を撫でる。でもご近所の目は恥ずかしいので「そろそろ中に入ろうか」と誘導する。ちなみに、何故鍵を持っているのにわざわざインターフォンを鳴らすのかと言うと、『お帰りなさい』と言ってもらいたいからだそうだ。あとできればエプロンをつけてほしいらしい。なんでそんなことで喜ぶのかよくわからないけど、喜んでくれるのなら…と、わたしはエプロンをつけて出迎えに行っている。荒北くんはこのことを知った時、わたしと尽八をすごく冷たい目で見ていた。(『ワハハうらやましかろう荒北!』『羨ましくねェ。全く。つーかキメェ』)

「寒かったでしょ。頬っぺた冷たい」
「大丈夫だ。今暖を取るから」
「わ、冷たい」

 座ってからも、ぎゅーっと抱きしめられる。冬の匂いがする。前、レースを観に行った時、ファンの子達に『東堂くん超かっこいいよね〜!』『スタイリッシュな感じするよね〜』と噂されていたなあ…。すたいりっしゅ…。すたいりっしゅな彼は今現在、雪崩れこむ形で抱き着いています。夢を壊さないようにしなきゃ…なんて思いつつもこんな姿わたししか知らないと優越感も抱いている。

「尽八、尽八」

 とんとんと背中を叩くと「んー」と生返事が返ってきた。依然、抱き着いたままである。

「ごめんね、ご飯の用意するからちょっと退いてくれる?」
「んー…」

 また生返事が…。このままだとあと三十分は動けないままだ。わたしは奥の手を使う事にした。

「かっこいいから、退いてくれる?」

 耳元で困ったように囁くと、一瞬ぴくりと動いてから、フフフと不気味な笑い声が部屋を震わせた。

「ワハハ! しょうがないな!」

 ガバッと起き上がって、いつもの尽八が覚醒した。よかったよかったと一安心してから台所に立つ。尽八はカッコいいからと言われると普通の人の三倍は喜ぶ。ガスコンロに火を点けた。あとは暖めるだけだ。




 尽八は全部平らげてくれた。クライマーは細身じゃなければいけないので他の人たちに比べたら尽八も細いけど、それでもやっぱり男の子だ。…や、もう男の人?になるのかなあ。

「美味かったぞー! 流石オレの幸子の飯はうまいな!」
「あはは。ありがと〜」

 大袈裟に褒めてくれるけど、わたしの料理の腕は並だ。実家で良い物を食べているだろうに、いつも褒めてくれる。尽八はとっても優しい。
 不意に、笑い声が途切れて静寂が落とされた。尽八がじいっとわたしを見つめている。ビールを呑んだせいか、瞳が少し熱を帯びている。あ、これは。なんて予測を立てているうちに、キスされた。ちゅっと軽くされてから、今度は長く唇を押し付けられる。お風呂の前かあ、とまだ余力を残された部分で思考を働かせる。
 あ、でも、ちょっと、待って。
 今、自分がいつもと違う下着を着けている事を思い出して、ハッとした。尽八に見せる為に買った。今この瞬間の為に買った。でも、いざ、見せるとなると。
 …な、なんか、恥ずかしい…!
 多分、引かれない。喜んでくれる。だけど、それとは別に、わたしが恥ずかしいのだ。え、だって、あんな面積の少ない、え、うわ、わあああああああ。
 目がぐるぐると回っていく間に、首筋に唇が落ちてきた。インナーの中にするりと手が滑り込む。

「す、ストップ…!」

 声が口を衝いて出ていた。衝動的に、尽八の手首を掴む。尽八はぱちくりと目を瞬かせていた。

「? どうした?」
「あ、あの、その…」

 生理、と声にしようとして押しとどめる。先々週出来なかった理由がそれなのだ。先週は会えずじまいで、それで、先々週の分も喜ばしたくて下着を購入したんだけど、いざ見せるとなると、恥ずかしくて恥ずかしくて、やっぱり無理という心境になっていると告げようものなら『気にするな!』と良い笑顔を浮かべて間違いなく全て引んかれる。ど、ど、どうしよう…もう腹を括るべき…いやでもなんかほんとに恥ずかしくなってきた…。

「そ、の…お風呂、入ってから…」
「ふむ。じゃあ入るか」
「わー! 待って待って! 別々に入ろ!」

 抱きかかえられそうになって、慌てて大声を上げる。尽八は不服そうに片眉を上げた。

「なんでだ」
「えっと、あの、えっと、は、恥ずかしい、から」
「…恥ずかしい?」
「わたし、太っちゃって。だから、その、明るいところで身体見せるの、ちょっと恥ずかしいかなーって…」

 しどろもどろに言い訳を述べていく。でも、口にしながらこの言い訳は失敗だと悟る。だって、こんなことを言ったら。
 尽八は黙ってわたしの話を聞いてから、またぎゅーっと抱きしめてきた。

「馬鹿者…! 幸子が太ったぐらいでこのオレの愛情が薄れる訳ないだろう!」

 切実に小さくそう叫んだ。

 やっぱり…。阿闍梨のように悟った笑顔を浮かべているわたしを置いて、尽八はべらべら喋り続けている。うんなんとなくこうなると思っていたよ。うん。…うん…。
 尽八はフッと笑みを零し、「大丈夫だ」と耳元で囁いてきた。大丈夫じゃない。

「気にするな。お前の体重が少し増えようがそんなのどうだっていい。好きだよ、幸子」

 また、服の中に手が入ってきて、サーッと血の気が引く。見られる、見られる、見られる…!
 そしてわたしの身体は、またしても衝動的に動いた。

「…っごめん!」
「え…ワッハッハッハ! ちょっ、幸子…! ワハハハハハ!」

 尽八の脇腹を擽って脱力させる。その隙を突いて、わたしは逃げ出した。

「あの、ごめん、ほんとに、今日はちょっとその、身体、見せたくなくて…!」

 目をぎゅうっと瞑って、切羽詰まりながら小さく叫ぶ。尽八の返事はなかった。恐る恐る目を開けると、尽八は口を半開きにして放心していた。…あ。失態に気付いた時は遅かった。尽八は眉を下げて、仕方なさそうに笑う。

「そうか。無理強いして、ごめんな」

 風呂入ってくる、と言い残して、尽八は部屋を後にする。ドアの閉まる音が虚しく響いた。





 湯船を張るお湯がちゃぷんと波打つ。冷えた身体はじわじわと芯から暖まっていった。しかし、オレの心は南極に裸で晒されたように凍えきっていた。

 初めて、マジで、拒否られた。

 深い悲愴の底に沈み込むように、湯船に身体を浸からせる。ヤベエ、本気でショックだ。それなりに付き合っているが幸子に拒否された事は一度だってなかった。あまりにも毎回すんなりと受け入れてくれるから無理するなよ、体調悪かったら言えよ、と言ったら、無理じゃない、いつもすごく嬉しいと言ってくれああああれ可愛かったな…。
 けど、さっきのは。間違いなく、明確な『拒絶』。

「見られたくない、か…」

 幸子の言葉を口にすると、ずうんと重たい何かが頭に圧し掛かってきて、自然と溜息が零れた。



「あ、で、出たんだね」

 おずおずと、幸子はオレを気遣うように笑った。幸子の事だ。オレを傷つけてしまったと深く気に病んでいるのだろう。妙な気遣いをさせたくなくてニカッと笑う。

「ああ。良い湯だった」
「そ、そっか。今日、寒かったもんね」

 いつもなら幸子の隣に座るが、今日は向かい側のクッションの上に胡坐を掻いて座る。

「り、りんご食べる?」
「お。じゃあ、いただく」
「む、剥いてくるね」

 立ち上がって、いそいそと台所へ向かう。少しでもオレを元気づけようとしているのが手に取るようにわかる。

「じゃーん、できたよ〜」

 リンゴを盛りつけた皿を、おどけたように見せてくる。ひとつひとつに爪楊枝が刺さっていた。いただきます、と手を取ろうとしたら「はい」と口元にリンゴを向けられた。え、と驚いて幸子を見る。幸子は少し照れ臭そうに頬を染めながら「どうぞ」と言った。これは、もしかして、『あーん』と、食べさせるやつでは。酔った時に何度か頼んだ事はあるが幸子からされたのは今回が初めてだ。相当、気を遣ってくれているぞこれは…オレはどれだけショックそうな顔をしてたんだ…。「ありがとう」とリンゴに噛り付く。たっぷり水気を含んだ爽やかな風味が口内に広がった。シャリシャリと噛んでいる間に、ぴとりとくっつく形で、幸子が隣に座った。手を出せない状態で、くっつかれる。拷問だ。

「…幸子。その…くっつかれると、手を出してしまいそうになる」

 コホンと咳払いしてから、心苦しげに心情を告げる。幸子は「…あ」と何かに気付いたように声を漏らした。ごめん、と謝罪の言葉が落ちる。

「…わたしも、お風呂、入ってくる」

 そろりと立ち上がって、幸子は出ていく。一瞬見えた横顔に、決意の色が宿っているように見えて、オレは首を傾げた。



 ボーッとテレビをただ眺める。何が楽しいのかわからないが大仰な笑い声を上げている芸能人達を右から左に受け流すように見ていく。キィッとドアが開かれて、出たかと振り仰いで呼吸が止まった。
 白い肌だが、関節は所々ピンクに色づいている。赤い頬は、風呂上りだから、という理由だけではない。幸子はドアからおずおずと恥ずかしそうに身体を半分覗かせていた。「あ、あの…」と紡ぐ唇は震えている。

「って、寒いだろ! はやく入れ!」

 ポッカーンと見惚れていたがハッと我に返り、部屋の中に引っ張り込む。幸子は「わわっ」と足をもつれさせながら入ってきた。シャンプーの匂いが鼻孔を擽る。これで我慢しろかワハハ泣きそうだ。

「パジャマ忘れたのか? 今何か持って―――」

 言いかけた口が不自然に止まる。照明に照らされた幸子は、今まで見た事の無いような下着を身に着けていた。真っ白な生地にレースが飾られているブラがふくよかな胸を覆っている。パンツの方は両サイドがリボンで結ばれているもので、そして、面積が小さい。多分後ろを向かれたら、尻が全部見える。口内に唾が集まって、ごくりと呑みこんだ。ドクンドクンと皮膚の下で血液が脈打っていて、今にも心臓が口から飛び出そうだ。

「あ、あの、」

 真っ赤な顔でオレを見上げ必死に言い募る幸子の肩は震えていた。寒いから、という訳ではなさそうだ。

「尽八、喜んでくれるかなってこの下着買ったんだけど、なんか、土壇場で恥ずかしくなっちゃって、だから、なんていうか、変な事口走っちゃって、あのでも、ほんと、嫌じゃなくて、というか、やめられて、寂しくなっちゃって、その、あれ、わたし、何言って…?」

 幸子は自分が何を言っているのかさっぱりわからないらしく頭上に大量の疑問符を浮かばせていた。

「え、えっと、だから、その、」

 たどたどしく一語一語確かめるように拙く言葉にしていく。

「さわられたい…」

 静寂が満ちた部屋に、ぽつんと小さな声が滴り落ちる。

「喜んでもらって、可愛いって言ってもらって、…さわられたい」

 幸子がちらっと伺うように視線を上げた時、後頭部に手を回した。逃げられないように腰に腕を回す。思いっきりキスをした。何度も角度を変えてキスすると、「ん」と声を漏らす。舌で唇の表面を舐めるとあっさりと開けられた。爪先立ちしながらオレの首に腕を回してくれているのでキスしやすい。一回、キスをやめる。熱を帯びた幸子の瞳の中に、同じような瞳をしたオレが映っていた。ひょいと抱きかかえて、ベッドまで運ぶ。幸子は大人しく抱きかかえられていた。無言でぎゅうっとオレにしがみついている。
 ゆっくりとベッドに下ろす。夢見心地のようにぽけっとしている幸子の頬を撫でた。

「いつ買った?」
「先週…。こういうの、好き?」
「好きだ」
「ほんと?」

 幸子の目が嬉しそうにぱあっと輝いた。「よかったあ」と綻ぶ。

「変じゃない?」
「変じゃない。すっげー可愛い。可愛い。…ああもうお前はマジで可愛いなあ!」

 辛抱たまらなくなって、幸子に覆いかぶさった。ぎゅうっと抱きしめながら、あちこちにキスする。くすぐったい、と嬉しそうな声も可愛かった。
 でも、お灸は必要だ。

「幸子」
「なあに?」
「確かに、少し太ったな」

 腹の肉を少しつまむ。「…へ」幸子の顔がサーッと青ばんだ。

「こっちも」

 尻をきゅっと揉むと「わあ!」と甲高い声が上がった。

「有酸素運動って、脂肪燃焼に効果的らしいぞ」

 ファン御用達の笑顔でにっこり笑いかける。幸子は「え、えと…」と視線を泳がしてから、困ったように笑った。

「お、お手柔らかに…」
「なあ、幸子」

 くびれを人差し指でなぞっていく。幸子が「っ」と息を詰めた。

「さっき、喜んでもらいたい、可愛いって言ったもらいたい、触ってもらいたいって言ったよな」

 幸子はおずおずと頷く。もう一度、笑いかけた。ファンが見たら卒倒ものの笑顔で。

「ご希望にはちゃんと応えないとな」

 幸子の目が大きく見張られ、ぐるぐるとまわり出す。カップをずらそうと胸を触ったら、幸子が顔の前でわたわたと手を振りながら「ま、待って待って!」と声を張り上げた。

「あの、嬉しいんだけど、えっと…、わあ! あの、明日、バイトの人たちとごはんが…!」

 幸子の手の指の隙間に指を滑り込ませて、首筋に舌を這わせると、一層声に必死さが混じった。ほう。バイト先の人たちとごはん。つまり男がいる。よし余計に気合を入れなければな。

「か、かっこいいから、」
「かっこいいなら、」

 自分の顔の良さは物心ついた時から知っている。知り尽くしている。幼稚園から今までモテなかった時代がない。
 前髪を掻きあげて、不敵に笑ってみせた。

「―――いいよな?」

 幸子の頬にぽっと朱が灯る。へなへなと力が抜けていった。ほへぇ…と情けない呟きはオレの心を解きほぐす。

「かっこいい…」
「ワハハハ!そうだろう!」




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