むにむに、むにむに。オレは幸子の桃色に色づいた頬をやわらかく抓っていた。幸子が若干困ったように眉を下げながら、くすぐったそうに笑う。
「すぐ触る」
「お前の頬気持ちいいからな」
満たされた気持ちから自然と笑みが口元に滲む。親指の腹で撫でると、幸子はくすぐったそうに目を細めて身をよじった。小さく笑った後、幸子は「お化粧落とさなきゃ」とぼんやりした調子で呟いてから、緩慢な動作で起き上がった。
「連れてってやろうか?」
「い、いいよ」
まだ腰に鈍い重みが残っているだろうと配慮(と、四分の一程度の意地悪い感情)しての言葉に、幸子は顔をほんのり赤くしながらふるふると首を振った。一糸まとわぬ姿で部屋を歩くのに抵抗を覚えるらしく、乱雑に脱ぎ捨ててある下着を掴んだ。が、その隣に乱雑に脱ぎ捨ててあるオレのTシャツに幸子の視線が止まってから、口を開いた。
「Tシャツ、ちょっと借りていい?すぐ返すから」
下着履くのちょっと面倒くさくて。幸子はへへへと笑う。
「別にいいぞ」
「ありがとう」
幸子はオレのTシャツにもぞもぞと頭を入れた。Tシャツから顔を出す。毛先をTシャツの外に出してから、ベッドから抜き出る。Tシャツだけで尻の半分まですっぽりと隠れている。素足をぺちぺち鳴らしながら洗面所に向かっていく姿をじいっと見送る。
…。
はあ、と自然と悩ましげなため息が零れた。容姿は特別整っているわけではない。すぐ忘れられるような薄い顔立ちをしている。でも、オレには。尽八って嬉しそうにふんわりと笑う幸子が、世界で一番可愛いと思っちまうんだ。のほほんとした幸子の笑顔を思い浮かべながら実感をこめながらうんうんと頷いていると、シャワー音が聞こえてきた。シャワーでも浴びているのか。…。少し、邪なことを考えていると、少し経ってからぺちぺちと素足がフローリングを鳴らす音が近づいてくる。また、幸子が姿を現した。化粧を落とした幸子は、高校の時と全く同じ顔をしていた。
「尽八お風呂入る?今沸かしてるんだけど」
「…もしかして今洗っていたのか?」
「うん」
幸子はこくりと頷いた。…。放っておくとすぐこうだ。疲れているだろうに。いや疲れさせたのはオレなんだが。…気を遣わせてしまった、と申し訳なくなる。
「お風呂めんどくさいならシャワー浴びてきたらどうかな。汗かいたでしょ?わたしはお風呂入るね」
曖昧な表情を浮かべながら唇を真一文字に結んでいるオレを見て、オレは風呂に入りたくないと推理した幸子はへらっと笑いながら遠回しに気を回してくる。生理なの、なんて冗談を飛ばしたかと思えば。やはりコイツの基本は気を回すことらしい。染みついているのだろう。
その『染みつき』をオレの前だけでは取っ払ってほしい思いから、口を開いた。
「…いや、オレも風呂に入る」
「入る?そっか」
幸子は嬉しそうに笑った。
「お前と一緒に入る」
しかし、じいっと幸子を見据えながらオレがそう言うと、幸子の目が点になったのち、徐々に赤く染まっていって、「う、うん」と裏返った声で返事された。『わかった』じゃなくて『うん』というところに動揺の具合が見えた。
「わー気持ちいいー」
泡立てたシャンプーを丁寧に幸子の頭皮に揉みこんでいく。強すぎも弱すぎもない指使いで揉みこんでいくと幸子が気持ちよさそうな声をあげた。
「尽八シャンプーうまいねえ…美容師さんになれそう」
「オレが美容師になったらカリスマ美容師として名を馳せるだろうな」
最後にワッハッハッといつもの笑い声を添える。幸子は「そうだね〜」とのほほんとしながら同意した。
「尽八なら女の子に人気出るカリスマ美容師になれると思うよ〜」
「間違いなくそうだな。しかしオレは美容師ではない」
「? そう、だねえ。うん」
幸子は不思議そうな声を漏らし、首を傾げながら小さく頷いた。
「だから、実際にオレに髪を洗ってもらえる女子はお前だけだ」
穏やかな声音でそう言うと、幸子が少し経ってから「…そうだねえ」と嬉しそうに笑う声が響いた。正面の鏡はすっかり曇っているので幸子がどんな表情をしているのかはわからないがいつものようにへらっと笑っているのだろう。
髪を洗ってやると申し出ると幸子は『えっ、い、いいよいいよ』と顔の前で手を泳がせた。しかし問答無用でオレの前に座らせシャワーをかけると観念したのか正座を少し崩した座り方をしながらされるがままになった。
コンディショナーを手に取ってまた頭皮に揉みこませていくと、幸子は「は〜」と気の抜けた声を漏らした。
「そんなに気持ちいいんだな」
「うん。すっごく気持ちいい〜。どれどれ。良い子の尽八くんに後からおばあちゃんがお小遣いをあげよう」
「ワッハッハッ、それはありがたい」
そんな風に軽口を叩き合う。幸子の小さく震える笑い声が心地よく耳に滑り込んでくる。
そろそろ全体にコンディショナーが行き渡っただろう。再びシャワーを手に取る。幸子は「はあ〜、気持ち良かった〜」と呑気な声を漏らしていた。「ほら目を閉じろ」と促すと「うん」と首を縦に振った。人肌に触れるに丁度良い温度であることを掌で確認してから幸子の頭にお湯の粒を降りかける。シャワーをかけながらオレは言った。
「疲れているのは幸子の方だろう。風呂洗いまでして。だからオレは決めた」
凛とした声が浴室に響いた。タオルでごしごしと髪の毛を拭いてやる。拭き終わると、幸子が不思議そうな表情を浮かべオレを仰ぎ見た。ふっと微笑む。幸子が体ごとオレに向けて問いかけてきた。
「なにを?」
ふっふっふっと笑う。幸子が「…尽八?」と怪訝そうに首を傾げる幸子にビシッと指を突き付けて、高らかに宣言した。
「三日間、このオレが尽くして尽くして尽くしてやろう!」
『このオレ』のところに強いアクセントを置いて宣言する。幸子は目を丸くした後、「…へ?」と『何を言っているんだろうこの人』と思っていることが明らかな声音で呟いた。
「幸子は気を回しすぎるところがあるからな。この三日間は全て先回りしてやる。お前が気を回す一分の隙間も与えてやらんからな!覚悟しとけ!!」
「か…かく…?」
「東堂庵嫡男東堂尽八による直々のもてなしだ。光栄に思え!!」
ワッハッハッハッと笑い声が浴室に轟いている中に、幸子の「は、はあ…」と気おくれした声が小さく消えていく。
ミーンミーンと蝉が喧しく鳴く中、幸子が「暑いねえー」と手で仰いでいた。澄み切った青空には雲一つなく、ぎらついた日光がオレ達の肌を突き刺す。こんな暑い中、インドア派の幸子が言ったのだ、『もてなしはしなくていいんだけど、その、一日どこかに出かけたい』と。こちらから提案するつもりだったので出鼻を挫かれたような気になりつつも、幸子から誘われたことが嬉しくて二つ返事で了承すると幸子は『やったあ』と小さな両手を丸めて喜びのポーズをとった。
…片手で数えるほどしかデートしたことなかったもんな。
初めて乗ったロードバイクで優勝するような才を与えられたオレでも鍛練を怠るわけにはいかなかった。たとえ引退したあとでも。練習が終わった後、会って飯を食ったり寮室に呼び寄せたり…などは度々したが、丸一日一緒にいたことは実はあまりない。よくて半日という程度だ。幸子には門限もあったし。
何着て行こうかなあと締まりなく笑っている幸子をじいっと見つめていると、幸子がオレの視線に気付き『…どうしたの?』と首を傾げた。抱きしめると『わー』と驚きの声が腕の中からあがった。抱きしめる力を少し強めながら、強く強く神に誓った。
絶対に、もうこれ以上はないというくらいに、幸子を楽しませてみせる、と。
「おーい、じーんぱち〜」
はっと我に返ると、少し背伸びをしながらオレの眼前でひらひらと手を振っている幸子がいた。
「だいじょうぶ?暑くてぼうっとしちゃった感じ?しんどい?」
眉を少し下げながら心配そうに問いかけてくる幸子に、フ、と笑いかけてから幸子の掌を握りしめた。指の間に指を入れていく。掌の部分が柔らかくて気持ち良い。
「大丈夫だ。すまない、少しぼうっとしていた」
「ほんとに?」
「ああ」
「そっかあ。めずらしいね、尽八がぼうっとするなんて。わたしみたい」
「ワハハ、お前の癖がうつってきたのかもな」
直射日光を避けるように、日陰に足を踏み入れていく。車道側をオレが歩くように仕向けると幸子が少し照れ臭そうに、でも嬉しそうに下に顔を向けてから「…ふへへ」と締まりなく笑う。そして、花が咲いたような笑顔をオレに向けた。
「じゃあ、わたしも尽八のくせうつってるかもね」
「お、それは良かったな。光栄に思えよ」
「天はわたしに三物与えた〜って言うようになるのかなあ…」
そうしてこうして、とりとめのない会話をしながらアスファルトの上を一歩一歩と、踏んでいった。繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら。
「わー、美味しそ〜!」
幸子は料理の前でにこにこと嬉しそうに笑いながら歓声を上げた。周りは年配の方々なので若者はオレ達二人だけだ。母の知り合いの人が営んでいる昼は比較的リーズナブルな和食屋にいた。最初、オレは今までのよう女子がすきそうなカタカナ料理を扱っている店の名をいくつか上げてみた。すると、幸子は今までのように笑顔で頷かず、少し言い辛そうに『あのね』と言葉を置いてから、ゆっくりと言った。
『和的なものが食べたいかなあ』
『和食ということか?』
『うん。あ、その、無理にってわけじゃないよ?行くのめんどくさかったら、全然いいし。わたしは尽八といっしょにごはん食べれるのならどこでも楽しいし』
幸子は顔の前でひらひらと手を振ってから、『あ…あははー』と照れ臭そうに笑った。絶対和食食わせてやると心の底から思った。
幸子は歓声をあげてからハッと我に返ったような表情をし、慌てて口を両手で抑えた。「う、うるさくなかったかな」と周囲をきょろきょろと確認する。
「あれでうるさかったらたいていの人間の話し声がうるさいことになるぞ。そんな堅苦しい店ではないのだし」
「そ、そうだよね。へへへ…、ちょっと神経が過敏に…」
神経が過敏に…?
幸子の最後の台詞に引っ掛かりを覚え、眉がぴくりと動いた。幸子は「じゃあ、いただきまあーす」と手を合わせた。あとで訊いてみようと思い、オレも手を合わせる。汁物から手を付け口へ運んでいくオレを幸子はじいっと凝視していた。
「…どうした?」
「わ、あ、ご、ごめんね」
「いや、別にいいが。確かにオレは見とれるほどの美形だからな。ワッハッハ!」
快活に笑ってみせると幸子は「そうだねえ」とのほほんと頷いた。そのあと、きりっと表情を引き締め、髪の毛を耳にかけてから緊張した面持ちで汁物に手をつけた。
…変だな。
明らかに幸子は緊張していた。オレと一緒にいて緊張するなんて高一の前半でもう終わったはずだ。あの頃の幸子の笑顔はいつも固かったな。いつも話しかけるのはオレからで自分から話しかけるのは恐れ多いと思っているのがありありと伝わってきて寂しかった。だから初めて『東堂くん、おはよう』と声をかけられた時は喜びと達成感があったな…と懐かしみながら幸子の動向に目を配らせていると、あることに気付いた。
別段前が汚かったわけではない。綺麗な方に分類されていただろう。だが、今は。
「どうしたの?」
幸子が首を傾げて問いかけてきた。だから、素直に思ったことを言った。
「幸子、食い方綺麗になったな」
そう言うと、幸子の目が大きく見開かれ、「〜っ」と声にならない歓声をあげた。紅潮した頬で「ほんとに…!?」と弾んだ声で問い掛けてくる。思った以上の反応が返ってきてオレは驚きながら「あ、ああ」と頷いた。
一般的な家庭で躾けられた綺麗な食べ方から大分レベルアップしていた。家が家なものでオレは幼少の頃から礼儀作法を厳しく躾けられた。そんなオレの目から見ても、礼儀作法に則った綺麗な食べ方だった。
「そっかあ、やったあ」
幸子は嬉しそうに目を細めて笑い、「頑張って良かった」と言葉を継いだ。
「頑張る?」
「うん。尽八って綺麗な食べ方するでしょ?わたしも見習わなきゃなあって思って。尽八の家族のみなさんに見られても恥ずかしくない食べ方できるようにしとこって思って」
へへへーと笑いながら、幸子は鮎の塩焼きに手をつけた。丁寧に身をほぐしていく様は滑らかだった。口に運んで咀嚼してから、箸を箸置きに置いてから、真っ直ぐにオレを見つめながら言った。
「わたしも、きちんとした人になりたいの」
そう真剣な面持ちで言ったあと、またいつものようにへらっと表情筋を緩めて「あはは」と照れ臭そうに笑った。
「尽八くん久しぶりね〜、ま〜イケメンに拍車がかかっちゃって〜」
この店の店主である女性が冷やかしにきた。幼いころから知っている人なので砕けた様子でオレに接してくる。この人の中ではオレは永遠に子供なのだろう。幸子が「こ、こんにちは」とおずおずと挨拶すると「こんにちは」と挨拶を返した後、オレににやりと笑いかけた。
「女の子連れてくるなんて〜このこの〜。彼女?ねえ彼女?」
幸子の頬に熱が灯り、下唇をきゅっと噛みながら俯いた。恥ずかしそうに縮こまっている幸子を一瞥してから、微笑みながら言った。
「はい。オレの自慢の彼女です」
幸子の頬がさらに赤く染まったのを視界の端で捉えると自然と口角が上がる。幸子と目と目が合う。幸子は得意げに笑っているオレから目を逸らしてから、恥ずかしげになにやら小さく呟いていた。
(つづく)
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