とおまわりの記録番外編 | ナノ



耳の奥で、さらさらと零れ落ちていく砂の音が聞こえた。

冴え冴えしい冬の冷たさの名残がまだ少しだけある中、澄みきった青空がほのかに春を匂わせていた。

誰も残っていない教室で、自分の席に座る。明日から、この教室からわたしの痕跡は消される。わたしが使っていた靴箱もロッカーも他の誰かのものとして塗り替えられる。わたしだって同じことをしたのにそれを寂しく思ってしまうなんて傲慢だなあと小さく苦笑を漏らした時、名前を呼ばれて、体が少し震えた。

ゆっくりと声の先に視線を向けると、声の主がそこに立っていた。東堂尽八。

わたしが大切に思う男の子。

「…やっほ〜」

笑いながらひらひらと手を振っている間に尽八がわたしの方へ足を進めた。床を鳴らすスリッパの音を聞けるのも今日が最後だと思うと、そんななんてことないことすら特別のように思えてくる。椅子から立ち上がって、尽八と向かい合った。

真っ直ぐすぎる瞳をわたしに向けたあと、尽八は口を開いた。

「待たせて悪かった」

人を待たせたら開口一番に謝罪を口にする。見た目に反して生真面目な尽八らしくて、そういうところがただ、すきで。自然と口元が緩む。「ううん、気にしないで〜」と、へらへら笑った。

「尽八すごかったねえ。ディズニーランドのミッキーみたいだった」

「確かにな。まあそれも仕方がない。登れる上にトークも切れる、さらにこの美形…天に三物を与えられたこのオレがミッキーのような人気を誇らないわけがない!」

「そうだねえ。わたし自転車乗りながら喋るの苦手だからすごいなあって思ってるよ。真波くんも初めて尽八見たときこの人の口ずっと動いてる…すごいや…って思ったんだって」

「ワッハッハ!そうだろうそうだろう!」

得意げに大きく笑っていた声が小さくなっていく。それに呼応するかのように澄んだ切れ長の瞳があたたかく緩やかに細められた。

「…幸子に渡したいものがあってな」

穏やかな微笑みを浮かべながらそう言って、ブレザーのポケットに手を入れた。しかし、微笑みが次第に不自然に強張っていった。「ちょっ、ちょっと待っとけ」と無理矢理口角を上げながらわたしに言いつけて、ポケットを裏返しにする。けど、ポケットに何も入ってないのを確認すると、尽八は額に手を当てながら後ろによろめいた

「わ、どうしたの?だいじょうぶ?」

貧血かと心配になって慌てて距離を詰めて、尽八のブレザーを引っ張って顔を覗き込む。綺麗な整った顔立ちがすっかり青ざめていた。尽八の虚ろな目と視線が合うと、溜息を吐きながら肩に手を置かれ、頭を下げられて、一言紡がれた。

「…悪い」

「…なにが?」

謝罪の意味がわからず、首を傾げる。尽八はきまり悪そうにわたしから一瞬目を逸らしたあと、もう一度目を合わせ、重々しく口を開いた。

「第二ボタン、幸子の分として取っておいたんだが…、どうやら盗られたようだ…」

「へ」

「…っ、悪い!ほんっとーに!!マジで悪い!!あらかじめ取っておいてポケットに入れておいたんだが多分あの時どさくさに紛れて盗られたんだ…!!すまん!!」

尽八はパン!と、両手を合わせて平謝りしてくる。わたしは顔の前で両手をひらひら泳がせて笑いながら言った。

「いいよいいよ。ていうか、わたしに渡そうとしてくれただけで嬉しい。そっか、卒業式って言えば第二ボタンだね。…わ!すごい、ボタンが全部ないね…!わー!!」

尽八のブレザーをまじまじと凝視すると、見事に一つもボタンが残っていなかった。あれ、ネクタイもない。す、すごい。綺麗に全て残っている自分が少し恥ずかしくなってくる。

「わー、すごい…」

ボタンが消えたブレザーを見ながら感嘆の声を漏らすと、不意に背中に腕を回された。突然の行為に驚いて目を見開いた後、瞳が自然と緩んだ。嬉しくて仕方ない。胸の中にしまい込むように抱かれて、尽八の良い匂いが鼻孔を満たしていく。お洒落な匂いだ。しつこさのない、苦味と甘味どちらも兼ねた匂い。野暮ったいわたしと違ってお洒落さんだ。良い匂い。いつまでも包み込まれていたい。

でも、もうひとつの匂いもすき。汗臭くて良い匂いとは言えなかった。はっきり言って臭かった。でも、汗臭くて、汗で湿っていた皮膚に抱きしめられて思ったことも『嬉しい』だった。

「どうしたの?」

満たされた気持ちからか、自然と発された暖かい声で問い掛ける。返事はなかった。「もー」とわざと呆れたように笑ってみせたあとも、返ってきた反応はわたしを抱きしめる力が少し強まったぐらいだった。

遠くから、話し声が聞こえる。
風が窓を叩く音、秒針が動く音、楽しそうな笑い声、尽八の鼓動。どくんどくんと波打っていた。

目を伏せ、耳を澄ましながら聞いていると、肩に手を置かれて、熱が離れていった。

再び視界に映った尽八の表情は、とても優しくて穏やかなものだった。

「…よし、これをやろう!」

これって?と訊く暇もなく、尽八は思い切りの良い動作でカチューシャを外した。はらりと長い前髪が垂れてきて、それを手慣れた仕草で耳の後ろに流した。

「山神直々のカチューシャだ、ありがたく受け取れ!」

「あ、え、…あ、ありがとう」

「なんだ。嬉しくないのか」

不服そうな尽八を見て「ち、違う違う!」と慌てて否定を入れる。

「まさかカチューシャ渡されるとは思ってなくて…吃驚しちゃった」

第二ボタンとかネクタイならわかるけど、カチューシャ。第二ボタンを貰うことすら予想できなかった頭の回転が鈍いわたしがカチューシャを貰うことを予想できないのは仕方ないことだろう。

…いや、そうでもないか。と、わたしは少し経ってから思い直した。

「…カチューシャの方が、尽八らしいね。トレードマークだもんね」

あははと笑いながら、思い出す。一年生の頃、途中入部してきた荒北くんにカチューシャを馬鹿にされて、尽八がとても怒っていた日のことを。

『オレのこの素晴らしい美的センスがわからんとは…!!美的センスというものがあの荒北という輩には備わっていない…!!そう思わないか!?』

鬼気迫る表情で訴えかけられて、わたしはたじたじと圧倒されながら『う〜ん。荒北くんの美的センス?があるかないかはよくわかんないけど…わたしそういうの疎いし』と言葉を濁らせてから、言った。

『わたしはすきだよ。東堂くんのカチューシャ』

自転車漕ぐのに邪魔だから前髪を上げているという話を聞いた時から、素敵だなあって思ってた。

そう笑顔で付け加えると、まだ幼い尽八が少し目を見開かせてから『…ワッハッハッ!やっぱりわかる人間にはわかるんだな!』と快活に笑った。

見てくれをあんなに気にしているのに、自転車のことになると見てくれを一切気にしなくなるところが、昔からすきだった。

だいすきだった。

「ふは、はは、懐かしいなあ」

笑いがこみあげてきて、へらへらと笑っていると、耳に髪の毛をかけられた。角ばった指が耳朶に触れた時、びくっと体が震えてしまった。恥ずかしくて視線を下に向ける。髪の毛を撫でられた後、カチューシャが差し込まれていく感覚が耳の裏を通った。

「できたぞ」

尽八の声を合図に、視線を上げると、声音と同様に満足そうに笑っている尽八がいた。頭部に手をやると、プラスチックの感触を手が覚えた。

「…似合う?」

首を傾げて、冗談めいて訊いてみる。

「ああ、似合ってるぞ。まあ、オレほどではないがな!」

「あはは、正直だなあ」

踏ん反り返りながら鼻高々になって言う尽八を、笑いながら見つめる。そんな時間が、すきだった。他の人から見たらどうでもいいことで笑い合う時間が、たまらなく、すきだった。

たまらなくすきな時間が、もうすぐ終わりを告げる。

「…わたし、美紀ちゃんと依里ちゃんとごはん食べに行くから、もう行くね」

カチューシャありがとう
これから、頑張ってね。
待ってるから。

笑顔を浮かべながら明るい声を出した。けど、その声音は無理に弾んだ声を振り絞ったせいで言葉は宙に浮いたように頼りなげなものだった。でも、きちんと言い切ることができた。最後まで、笑顔を浮かべて。「じゃあね」とひらひらと手を振ってから尽八に背中を向ける。

間に合った、と安堵の息を吐いた時、ぐいっと肩を掴まれた。何かを思う暇もなく、尽八の方向を向かされて、気付いたら、切れ長の怜悧な瞳がとてもすぐ近くにあって。

「ん、」

右の耳に固定するように手をかけられて、唇を重ねられた時にくぐもった声が漏れた。触れたのは一瞬だけだった。けど、またすぐに押し付けられて、深く、深く、合わされていく。耳から後頭部に手が移動して、もう片方の手を腰に回されて、捕らえられる。

目尻に浮かんだ涙は、生理的なものだ。上手に息ができないから。それ以上の感情なんてなにもない。

寂しいから、悲しいから、泣いてるんじゃない。
息がしにくくて、苦しいから。それだけだ

がくがくと震える脚を、必死に地に着けて、尽八の肩口に震えながら手を置く。そうでもしないと崩れ落ちてしまいそうだった。唇を離して、わたしが息を吸い込んだあと、まだ冬の寒さが残っている春の空気なんて邪魔だと言うようにあっという間に呑みこまれて、距離を詰められて、キスをされて。

…本当に呑み込まれてしまえばいいのに。

何回目かのキスの時に、わたしは沸いて出てきた欲望を抑えるために、尽八の唇を手で抑えた。柔らかい感触が掌に当たる。少し尽八の前髪がくずれていたから、耳にかけて直してあげた。キスしすぎと冗談っぽく言おうと笑いながら口を開く。

言葉が喉に詰まって、でてこない。

いつものようにへらへら笑いたいのに、表情筋がうまく動かない。お腹の底から、何かの塊がこみあげてくる。すぐ傍にいる尽八が、真摯な表情でわたしを見据えていた。けど、徐々に徐々に、滲んで見えづらくなっていく。

べつに、別れようと切り出されたわけじゃない。

ちょっと、すぐ会えるところにいなくなるだけ。

尽八はマメな性格をしているから、たくさん連絡をしてくれるだろう。

理性が必死にそう説いてくる。
けど、けど、けど。

なんでキスしてきたの、せっかく、堪えてたのに。堪えきれそうだったのに。

涙が視界を埋めていく。完璧に埋め尽くされそうになった時、わたしは手を振りあげ、自分の頬を思い切り殴った。ぱっしーん、と小気味よい音が空を切り裂いた。

「…え?」

尽八の間の抜けた声が教室にぽとりと落とされた。

「いっ、いったあ…!!」

あまりの痛さにわたしは頬を抑えながらうずくまると、尽八が「え、ちょ…っ、大丈夫か!?」と視線を合わせるようにしゃがみこんできた。

「い、痛い。すっごく痛い」

「当たり前だ!!めちゃくちゃ良い音がなったぞ!?ちょっ、見せてみろ…!!は、腫れ上がってるぞ!?幸子お前マジでやったんだな…!!」

「あ、あははは…。わたし結構馬鹿力なんだね…」

「笑ってる場合か!!保健室に、」

「尽八、」

慌てふためいてる尽八を宥めるように、柔らかい声で呼んだ。殴ったおかげで、涙も、弱い気持ちも、どこかへ飛んで行った。すっきりと視界にいるのは、目を瞬かせているわたしの大好きな男の子。

「お願い」

それだけで全て悟ってくれた。目を見開かせた後、苦しそうに目を伏せて「わかった」と、小さいけれどしっかりした声で呟いた。

「…待ってくれなんて言わない。ほったらかしにするんだ。他に男を作られたって文句言えない」

尽八はぽつりぽつりと言葉を落としていく。わたしは目を見開いてしまった。そんなことないのに、と反論しようとしたら手を掴まれた。指の間に骨ばった指が入ってきて、鼓動がはやまる。

真剣な熱い瞳を向けられる。その瞳の奥へ、吸い込まれてしまいそうだ。

「けど、オレは好きな女を自分以外の奴に託して幸せに思えるような良い奴じゃなくてな」

狡猾げに細められた瞳に、体中のあちこちを絡み取られている気がした。

「…絶対、奪い返す」

誓うように紡がれた言葉。わたしを捉えて離さない瞳。指の間に滑り込むように入ってきた指の感触が更に強まる。

「…っ、ふっ、はは、あはは!」

しいんと張りつめられた空気は、わたしの呑気な笑い声によってあっという間に崩壊した。尽八がぎょっと目を見開く。

「な、なんで笑っ…!?」

「ふふ、あはは、か、かっこいいね、あはは、なんか、すごい、どっかのドラマの台詞を真似したみたい、あははっ、ははっ」

「な…っ!?」

「あはは、あは、あはは、かっこい、い、あはは」

「絶対思ってないだろ!!」

わたしの笑い声に、尽八の羞恥を伴った怒りの声が覆いかぶさってくる。わたしはふるふると首を振りながら「ほんとだって」と息も絶え絶えになりながら否定した。

「ほんとにかっこいいって思ってるよ。わたし、尽八以上にかっこいい男の子、見たことないもん」

目尻の涙を拭いながら、首を傾げて微笑みかける。

この世には数えきれないくらい、たくさんカッコいい男の子がいる。でも、どんな男の子も尽八には負けてしまう。なんでだろうね。みんな優しくて良い人なのにね。

答えは簡単だ。

「だいすき」

どうしようもないくらいに、すきだからだ。

尽八はわたしの言葉を聞いて、目を伏せながら下唇を浅く噛んだ後、わたしの頬に手を触れようとして、やめた。紐をほどくようにするりと手が離れていく。

「…立てるか」

「うん。ひとりで立てる。わたしもうちょっとここでぼーっとしていくから、先に出てって」

へらへらと笑いながら言うと「そうか」と尽八は小さく言った。すくっと立ち上がって、穏やかな笑みを湛えながらわたしを見下ろす。

「じゃあな」

「うん、ばいばい」

―――いってらっしゃい。

そう言って、ひらひらと手を振ると、尽八も手を挙げた。そして、わたしの横を通り過ぎていく。あっけないほど、わたしの傍から離れていった。

…行っちゃった。

汚いとわかりつつも、わたしはごろんと寝転がった。白い天井の染みがよく見える。ずっと使っていた教室なのに、あんなところに染みがあるなんてたった今初めて知った。白い天井の染みをぼんやりと見ながらぼうっと物思いに耽る。

こっそりと寮に忍び込んで迎えた次の日の朝がすき。

尽八のいつもはきりっとつり上がっているよく整えられた眉毛がなだらかな曲線を描いていて、いつもよりあどけなくなった寝顔を知っている数少ない人間のうちの一人になれたことが嬉しくて。

不意を突いてみせると、顔を真っ赤にして照れる姿が可愛くて笑うと、何倍にも返されて、返されることが嬉しくて、子供みたいにけらけら声をあげて笑って。

優しく抱き込むようにして組み敷かれているとき、はらりと落ちてきた前髪が顔にかかってくることが嬉しくて。

本当は知っていることをわざと知らない振りをして、得意げに話してくる尽八の顔を見る事がすきで。

恥ずかしくて大袈裟な愛情表現も、すきで。

繊細なものに触れるようにしてわたしの髪の毛を撫でる手も、しあわせそうにわたしを見る目も、嬉しそうにわたしを呼ぶ声も。

「…すき」

白い天井に向かってぽつりと呟いた後、何言ってんだか、と、あははと空虚な響きを持った笑い声が漏れた。それがきっかけなのかどうなのかはわからない。けど、次の瞬間、わたしは。

「っ、ひくっ、うっ、うっ、ぐすっ、うう〜…っ」

熱い涙がぼろぼろと眼から溢れだしてとまらない。腕を目元に持ってきて覆い隠す。嗚咽がとまらない。熱い涙は頬に筋を作って、唇に流れ込んでいく。

別れようと言われたわけではない。

ただ、近くにいないだけ。それだけ。簡単に触れなくなるだけ。たったそれだけ。

それだけのことがこんなにも寂しくて悲しくて苦しくて仕方ないのは、すきだから。たったそれだけの理由。恋愛感情。なんて厄介な感情なのだろう。尽八に出会うまで、こんな面倒くさい女の子じゃなかった。

でも尽八に会えて、素敵な女の子になりたいと思えるようになった。人に寄りかかって流されるだけのままじゃ嫌だと思えるようになった。そのことをわたしはただひたすら誇りに思う。

ぐすっと鼻をすすって、両手で頬をぱしんと叩いて渇を入れる。すくっと立ち上がって、ほこりをぱんぱんと払い落としてから、そして、尽八のようにしゃんと背筋を伸ばし、わたしは慣れ親しんだ教室から、一歩踏み出した。

さらさらと零れ落ちる砂の音が、やんだ。




じゃあねと泣いて笑うよ


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