「幸子ちゃん?」
尽八を待ち合わせ場所で待っていると、名前を呼ばれた。振り向いた先には、見知らぬ人がいた。同じ名前の人違いかな?と思って、前を向こうとすると、「やっぱり」と、その男の人は笑った。その笑顔を見て、わたしも、思い出した。
「みっちゃんの、お兄ちゃん…?」
「そうそう。やっぱり幸子ちゃんか」
みっちゃん。幼稚園の時の友達。今でもそこそこ交流はある。みっちゃんのお兄ちゃんはわたしより十個年上で、そして、わたしの初恋の人だ。気分がぱあっと高揚して、思わず「わあ〜!」と歓声をあげてしまった。
「久しぶりだね。アイツと同い年ってことは…18?」
「うん!」
「ピッチピチだな〜。って、なんかこれオヤジくせえな」
「ううん、そんなことないよ。おにいちゃんはおにいちゃんだよ」
「幸子ちゃんは幼稚園の頃から変わらず優しいな。…あ、ちょっとごめん」
お兄ちゃんは小さく謝ってから、わたしの髪に手を伸ばした。角ばった指が髪の毛に触れて、そして、つまんだ葉っぱをわたしに見せてきた。
「落ち葉の季節だからな」
にこっと爽やかに笑う。ああ、そうだ。この笑顔と、こういう風に気が付くところに、小さなわたしは恋に落ちたんだった、としみじみと思っていると、後ろから、肩に手を回されて、引き寄せられた。
「ナンパなら、他を当たってくれないか」
真っ直ぐな声が苛立ちで色を帯びていた。か、勘違いしている。わたしは尽八の誤解を解こうと「ち、違うの。この人、わたしの友達のおにいちゃん」と説明をした。尽八がパチパチと瞬きをした。
「彼氏?」
お兄ちゃんに訊かれて、カァッと頬が熱くなる。緩みそうになる口元を必死にきりっとさせるけど、緩みがおさえられない。
「うん」
「おー、そっかそっか。もうそんな齢かー。あんなに小さかったのになあ」
「…その、すみませんでした」
尽八がバツが悪そうに謝ると、お兄ちゃんは「だーいじょうぶだって。こっちこそ勘違いさせて悪かった」と、あっけらかんと笑った。じゃあなー、と手を振って、身を翻す。朗らかで、優しくて、気遣い上手。ああ、変わっていない。あの時の彼女さんと結婚したお兄ちゃんは、きっと素敵な旦那さんなのだろう。そう思いながら、お兄ちゃんの背中をじいーっと見つめていると。
「幸子の初恋って、もしかして、今の人か?」
尽八がそう問いかけてきた。藪から棒に質問をされて、少し吃驚する。なんでわかったんだろう、と不思議に思いながら「うん」と答えた。すると、なんだか照れ臭くなって「あ、あはは」と笑ってしまった。
◆
多分、オレより齢は10歳ほど、年上だろう。大人の男というオーラが、溢れていた。初恋の人なのかどうかという質問をしたら、幸子は頷いた後、照れ臭そうに笑った。ああ、やっぱり。そうだろうな、と深く納得した。あの人物を見る幸子の瞳は憧れと恍惚を浮かばせていた。
「羨ましい」
「へ?」
「幼稚園児のお前に好かれていたなんて、羨ましすぎる」
「わ、わたしに、しかも幼稚園児のわたしに好かれていたって、いいことなんてひとつもないよ〜。もじもじしてばっかで、遊んでくれないかなあって物欲しげな目でちらちら見るなんて鬱陶しいことしちゃったし」
困ったようにあははと笑いながら、頬を人差し指でぽりぽり掻く幸子の手首をやんわりと掴んだ。細い手首は簡単に覆うことができた。手首から、掌に移動して、掌を合わせてから、指の間に指を入れ込む。合わせた掌が柔らかくて、気持ちいい。幸子の頬に朱がろうそくのように灯る。じいっと、幸子の顔を見つめてから、真っ直ぐに言った。
「オレは、羨ましくて仕方ないぞ」
へ、と漏らす幸子の瞳は動揺で揺らいでいた。頬は赤いまんまだった。ぎゅうっと手首を掴む力を強めて、淡々と言葉を継いだ。
「オレは、高校生のお前しか知らない。中学時代は卒アルで見せてもらったが、実際に喋ったわけじゃない。小学生のお前も、幼稚園児のお前も」
幸子を好きになって、どんどん欲が深くなっていっている。
今だけじゃ足りない。未来はもちろんのこと、過去すらも、欲しくて欲しくて仕方ない。何を見て、どんな風に喜び、怒り、悲しんで、笑ったのか。どんなふうにして、今の幸子ができたのか。ちょっとしたことでも、知りたくて仕方ない。
「…尽八は物好きだなあ」
「どこがだ」
「わたしのこと、そんなに知りたがる人なんて、尽八くらいだよ」
「そうか?」
「そうだよ。ほんと、物好き」
物好きではないと思うんだがな、と思っていると、幸子はオレのジャケットの裾をつまんだ。こっち、と引っ張られて、路地裏に連れ込まれた。少し不思議に思いながら、ついて行く。
「ちょっと屈んでくれる?」
「? ああ」
髪になんかついてるんだろうか、と思いながら屈む。すると、両方の耳を包み込むように、手で覆われた。いつも見下ろしている幸子の顔がすぐ近くにある。柔らかくてあったかいものが、唇に触れている。目を少し見開いて、されるがままになっていると、唇を離された。
幸子は顔を赤くして、へへっと恥ずかしそうにはにかんだ。両手を後ろにして手組んで、視線を下に向けた後、オレを見上げた。緩みきった口元から紡がれたのは、ふわりと宙に浮いているような覚束ない声。
「こんなことしたいなあって思えるくらい、すきになったのは尽八が初めてだよ」
そう言ったあと、ぷしゅうと何かが焼ける音がした。幸子の頭から湯気が沸いている。「な、なんちゃって」と照れ臭そうに言ったあと「も、もどろっか」と背中を見せた。幸子の腰に後ろから腕を巻きつかせて、抱きすくめる。
肩に顔を埋めると、幸子特有の甘い匂いがした。顔をさらに埋めると、ぴくりと幸子が小さく動いた。くすぐったい、と小さく漏らした声が恥ずかしそうだった。
過去はどうにもならない。けど、今なら。今の幸子と未来の幸子なら。
「幸子」
わざと耳元で囁くと、幸子の耳がわかりやすいほど赤くなった。それを見て気持ちよくなって、優しく顔をオレの方に向けさせてから、唇を重ねる。
幸子の今と未来。これはオレが独占してやる。大人の男からかけ離れた子供じみた独占欲と煩悩で脳が侵されていく。つい、長めのキスをしてしまい、幸子を酸欠状態に追い込んでしまった。悪い、と慌てて謝ると。
「ううん、嬉しい。ありがとう」
へらっと、心底嬉しそうにはにかまれて。こんな可愛い女子を知らないで生き続けてきた高校入るまでのオレに、深く同情を覚えた。
きみと歩ける喜びを
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