とおまわりの記録番外編 | ナノ



「きゃあああ!!東堂さーん!!」

「今日もかっこいいですー!!素敵ですー!!」

四方八方から女子の黄色い声を受けて、ふっと笑いながら前髪を人差し指に巻きつける。美しさとは時に罪だ。ちょっとばかり真波に用があって一年の廊下に寄ったら、これだ。時々自分が怖くなる。

「あ、あの、東堂さん!」

一人の女子がオレの元に小走りでやってきた。見覚えのある子だ。ん?と穏やかな笑みを浮かべて対応すると、その女子はもともと赤かった顔をさらに赤くした。目を泳がせたあと、決意するように言った。

「あ、あの、私のこと覚えていますか…!?」

「ああ、よく応援しにきてくれていたから、覚えているよ。確か…深雪ちゃん、だよな?」

「はっ、はい!深雪です…!!あの、前大会の時に渡したクッキー美味しかったですか…!?」

「ああ、美味しかったよ」

「…っ、あ、ありがとうございます!!」

そう言うと、深雪ちゃんは嬉しそうに足を弾ませながら、友人たちの元へ戻って行った。よかったねー!と声をかけられている。本当にオレって罪な男だな…。

「お待たせしました、東堂さん」

「おう、全然いいぞ」

「すごいですねー、東堂さん、大人気」

「まあな」

得意げに鼻を伸ばす。ライバルにも恐れを抱かせるとは…。流石オレだ。

「ファンの女の子の下の名前まで憶えているなんてすごいや。オレ、人の名前覚えるの苦手だから無理だろうなあ」

「応援しにきてくれている子の名前ぐらい覚えてやれ。…と言いたいところだが、お前には無理そうだな。せめて顔ぐらい覚えてやれ」

「はーい」

素直に返事をしたあと、真波は「そういえば」と不思議そうに言った。

「吉井先輩の下の名前は覚えてないんですか?」

「は?覚えてるに決まってるだろう」

「だって、東堂さんって吉井先輩のこと、ずーっと上の名前で呼んでるじゃないですか」

真波は、あっけらかんとした口調で言った。オレは、ぱちぱち、と目を瞬かせる。何か口にしようと言葉を開く。でも、何も言えなくて、また口を閉じた。

「なんでなんですか?もしかして、恥ずかしいんですか?」

「ば…っ、そ、んなわけないだろう!」

「ですよねー、あんなに女の子慣れしている東堂さんですもん」

真波は、あはは、と軽やかに無邪気な笑い声をたてる。オレは「そ、そうだ!」と力強く頷き、ワッハッハッ!と大きく笑った。



下の名前。そうか、付き合っている男女というものは、普通、下の名前で呼び合うんだ。ずっと、苗字で呼んでいたから、すっかりそれが定着してしまっていた。最初は、吉井さんと呼んでいた。それがいつのまにか呼び捨てになって。男の子の苗字を呼び捨てで呼ぶの初めてだなあ、と笑いかけられて、ものすごく嬉しくなったのを、今でも覚えている。

ベッドの上で、ごろんと寝返りを打った。アイツの名前。忘れたことはないが、口に出したことは一度もない。試しに口内で言ってみた。

…。

体温が上がっていく。心拍数がはやくなる。隼人を隼人と呼ぶ時とは訳が違う。なんだろう、この、胸にせり上がってくる甘酸っぱい想いは。呼吸が苦しくなる。

って、待てよ。オレがアイツを下の名前で呼んだら、アイツもオレのことを下の名前で呼ぶようになるということで。尽八って呼んでくれるようになるということで。頭の中で思い浮かべてみる。柔らかくて、癒されるあの声が、尽八と呼ぶ瞬間を。

「…やっべえ…」

あまりにもすごい破壊力で、手で口元を覆った。隼人にだって、尽八って呼ばれているのだが。全然違う。想像しただけで、この破壊力なんだ。実際に言われたら。

「…よし、明日…呼ぶぞ!!」

手を丸めて、ガッツポーズを作って大きく意気込む。箱根の山神、またの名をスリーピングビューティのこのオレにできないことなんてない。そう、アイツの名前を呼ぶだけ、呼ぶだ…け…。

しゅう…と湯気が頭から湧き出る。枕に顔を埋めて、はあーっと息を吐く。

他の女子の下の名前なら、照れもせず、すらすらと呼べるのに。アイツの名前は、文字を浮かべるだけで、心も体も熱くなる。

名前を、呼びたい。名前を、呼ばれたい。

眠気がオレをゆるやかに襲う。ふわっと欠伸をひとつしてから、電気を消して、布団にもぐりこんだ。瞼を閉じると、アイツの笑顔が浮かんで。ふっと、笑みを零してしまった。



名前を呼ぼう、と決めた日になった。二人で話している時に、さらっと呼ぼう、と思っていたのだが。

「幸子ちゃんあったかい〜お願いわたしを離さないで〜」

「あはは、いいよいいよ」

「ありがとう〜」

今日は冷え込む。吉井は体温が高い。なので、吉井の友人の堀田さん(美紀ちゃん)が、吉井をホッカイロ代わりにして、離れなかった。オレが吉井の前に座っていても、お構いなしで、二人で一つの席に座って、ぴったりとくっついている。

「あ、東堂くん。わたしのことは気にしないで」

「は、はは…ありがとう…」

気にする!!と強いツッコミを入れたかったが、あまり会話したことのない女子にそんな砕けた態度をとることができず、営業用スマイルを貼り付けて、乾いた笑い声をあげる。普段なら、このボケている二人を纏めるツッコミ役の石川さん(依里ちゃん)がいるのだが、今日は風邪で休みだ。

「東堂、今日なんかちょっと、おかしくない?なにか気になることでもあるの?」

吉井が心配そうに眉を寄せ、首を傾げて問いかけてきた。きゅうっと胸が甘く疼く。ここで、『いや、なんでもないぞ』と言ったのち、名前を呼んでしまおうか、と思った時。

「寒いからじゃない?ねー、ほんっと今日寒いよねえ、東堂くん」

堀田さんが言葉を被せてきた。いつのまにかガムをくちゃくちゃと噛んでいる。腕を組みながら『うんうん』と深刻そうな表情で頷いている。

「そう、だな…」

はは、ははは…と乾いた笑い声を上げる。いや、もう、堀田さんがいるとか関係なく、言えばいいんじゃないだろうか。いやでもロマンチックな空気は欲しい。初めて名前で呼ぶんだぞ。本当なら綺麗な夜景が見える高級レストランでワインを揺らしながら『綺麗だろう…』と言ったのち、甘い声で名前を呼びたいところだ。

「幸子ちゃーん、寒いよーう、お腹すいたよーう。焼き芋たべたーい。あ、でも焼き芋食べたらオナラが出やすくなっちゃうんだよね〜」

現実は。隙間風が寒い教室で、吉井の友人が吉井にひっつきながら、おならの話をしている。

…さすがに、これは駄目だろ…!!

吉井は「あはは、そうだね〜」と呑気に笑っている。

…今日は、無理そうだな。気付かれないように、こっそりと小さくため息を吐く。

まあ、名前というものは、無理矢理呼ぶものではないのかもしれない。ある日、自然に、滑り落ちるようにぽろっと零れるのだろう。オレが吉井をさん付けしなくなったときのように。吉井をさん付けしなくなった日のことなんて、覚えていない。だから、きっと、下の名前だって、そうだ。

そう思いながら、頬杖をつく、白い頬っぺたにくぼみが刻まれていて、見ているだけで心が安らいだ。





友人たちと学食で食べた後、廊下を歩く。昨日の一年の女子と目が合った。そうだ、深雪ちゃんだ。恥ずかしそうにもじもじとしている。可愛らしい女子だな、とほほ笑むと顔を真っ赤にして、隣の友人に「今笑いかけられちゃった〜!」と感激しながら話しかけている。

「オレって、罪な男だな…」

「お前ほんと腹立つ」

「痔になっちまえ」

ふっと笑いながら、前髪を人差し指に巻きつけると、友人たちの容赦ない言葉が突き刺さってきた。痔はやめろ。リアリティがある!と抗議していると。

「あ、あのー、東堂さん…!!」

気付いたら、四人の女子がオレを見上げていた。どれも見覚えのある顔だ。頻繁にオレの応援にきてくれていた子達。おずおずと、真っ赤な顔で問い掛けてきた。

「わ、私の名前も…覚えてますか!?」

四人のうちの一人が目をぎゅうっと閉じて、切羽詰まりながら問いかけてくる。

「ああ、きちんと自己紹介してくれたから覚えてるよ。真由美ちゃん、だったよな」

ぱあっと顔を輝かせて、「あ、ありがとうございます…!!」と頭を下げてくる。他の女子にも聞かれた。そしてみんな口をそろえて「東堂さんに名前を覚えてもらえているなんて〜!!」と嬉しそうに言う。手を取り合って、わーい!と跳ねている姿は可愛らしいものだった。ありがとうございます〜!と去っていく女子達に手を振る。名前を覚えていただけで、あんなに喜んでくれるとは。いじらしいものだ。

「…一度でいいから東堂ぐらいモテたい」

「ワッハッハッ、天はオレに三物与えたからな。モテるのは仕方ない」

腕を組みながら高笑いをしていると、「すっごかったー!」と素っ頓狂な歓声がどこからか上がった。声の先に目を遣ると、吉井と堀田さんがいた。堀田さんは興奮しながら吉井に話しかけている。吉井はオレに背を向けているので、どんな表情をしているのかわからない。

「幸子ちゃん、すごいねー。東堂くんアイドルみたいだね。名前呼んだだけで、きゃー!だよ。きゃー!って」

「そうだねえ」

流石ボケボケのふたり。オレが見ていることに気付かないようだ。のんびりと会話をかわしている。

「…いいなあ」

…え?

「へ、なにが?」

堀田さんはきょとんとして、吉井に問いかけた。吉井はややあとあいまってから、少しだけ寂しそうに言った。

「…なんにもない」

目が、大きく見開かれていく。重いハンマーで殴られたような衝撃を、心に受ける。

「おーい、東堂、お前さっきから無視すんなよ」

「駄目だ、コイツ、吉井さんが半径5メートル内にいると耳ダンボにして盗み聞きするからさあ」

「え、吉井さんって…あ、あそこ!?あの話盗み聞きしてんの!?コイツどんだけ地獄耳!?」

友人たちがやいのやいの喚いているが、それは耳から耳を通り抜けていく。オレは一歩、大きく足を踏み出した。吉井に近づいて、後ろから、手を取る。

「…へ、とうど、」

目を丸くして、振り向く吉井。オレに手を握られていることに気付いて、ぶわっと頬を赤く染めた。オレはぽかーんとしている堀田さんに言った。

「悪い、堀田さん。吉井を、借りていく」

「え、さむい―――、」

堀田さんの話を、わざと無視した。聞こえないふりをした。できるだけ、女子には優しくしたい。好きだからだ。

でも、その中で、誰とも比べられないくらい、好きな女子ができた。好きすぎて、女子というカテゴリーじゃおさまらない。それくらい、好きな女子ができた。

好きなものを蔑ろにしても、大切にしたい存在ができた。

「わ」

小さくて柔らかい手をぎゅうっと握りしめて、引っ張っていく。すると、戸惑いながら、握りかえされた。ああもう、これだから。

誰もいない美術室に入る。絵の具の匂いが鼻につく。くるりと、体を反転させて、吉井に体を向ける。

「な、なに?」

へへっとはにかみながら緩んでいる赤い頬にそっと片手を添えると、ぴくっと肩が動いた。顔を持ち上げると「ま、まって」とか細い声で制止の言葉が紡がれた。

「わたし、お昼、ギョウザ定食食べて、まだ、フリスクを食べてな―――わ、ぁ」

言葉ごと、唇を塞いで。にんにくの味がする。良い匂いとは言えない。少しの間、押し付けてから、離すと、真っ赤な顔をしていた。吉井の頬を両手で包み込んで、こつん、と額をつけて、真っ直ぐに見つめて、問いかける。

「なあ」

「へ、え、なに?」

照れ隠しのためか、笑っている。吉井の瞳に、真剣な顔をしているオレが映っていた。オレは、真っ直ぐに問いかける。

「他の女子の下の名前、呼んでほしくないか」

「え、えっと」

「もし、そうなら、言ってほしい」

「あ、あの、とりあえず、わたし、今ニンニク臭いから、離れた方が、」

「お前が嫌なら、どんなに頼まれても言わない」

ぴたりと、吉井の動きがとまった。真ん丸にした瞳で、オレを凝視している。あの時の声には、羨望と嫉妬が混じっていた。吉井は、嫌なことがあっても、それを隠すのに長けている。だから、きちんと目を凝らさないと、耳を澄まさないと、いけない。

本当に好きな女子に嫌な思いをさせてまで、他の女子を喜ばせる意味なんて、ないだろう。

これは優しさでもなんでもなくて、ただのオレのエゴ。
吉井が嫌だと、オレも嫌だから。ただ、それだけだ。

吉井は目線を下に落とした。きゅうっと、軽く下唇を噛んでから、口を少しだけ開けて、か細い声で言う。

「…嫌っていうか…、これが嫌ってことなのかもしれないけど、わたしは、名前で呼ばれたことないのに、羨ましいっていうか…ずるいって、思った」

そう言ったあと、唇をきゅっと閉じて、火が消えたように押し黙る。オレはそっと、吉井の背中に手を回して、ぎゅうっと押しつぶしてしまわないように抱きしめた。

「…ごめんな」

「え、あ、謝ってほしい、とか、そういうのじゃなくて、」

「いや、オレが悪い。無神経だった」

「ちが、待って」

「…ごめん、幸子」

「だから、ち…へ」

ぎゅうっと、もう少し力を入れて、抱きしめてから、ゆっくりと離す。幸子を見ると、茹蛸のように顔を真っ赤にして、ぽかんと口を開けていた。体が小刻みに震えている。

そんなに恥ずかしがらないでほしい。
元々、恥ずかしいのに。さらに恥ずかしくなっちまうだろう。

「…幸子」

そっと、頬に手を添える。さらに顔が赤くなる。顔が火照っているのが、触れた掌に伝わって、熱い痺れがオレの体を支配していく。

ちゅっと、触れるだけのキスを額に落とすと、幸子はぎゅうっと目を閉じた。その隙を逃さず、瞼にもキスをする。んぅ、とくぐもった声が耳に入り込んで、ぞくっと熱が背中を走る。

「幸子」

「な、に?」

ぎゅっと閉じられていた目がゆっくりと開く。瞳が熱に浮かされていて、少し濡れていた。

「尽八って、呼んでほしい」

「…へ」

「オレだけって、不公平だろう」

名前を呼べてうれしくてたまらないくせに、そんなことを口にする。とんだ卑怯者だ、と我ながら思う。幸子は「え、ええっと…」と視線を泳がせた。別に、変な性癖なんて持っていないのに、幸子の困った顔は、可愛くて、好きで、仕方ないと思う。

「…呼んで」

少し、甘えるようなトーンで懇願すると、幸子の頭から湯気が沸いた。もう、と小さく呟いてから、小さくか細い声で、そっと、呼ばれた。

胸のうちに、熱くて優しくて、むず痒い感情が広がっていく。

「…もう一回」

「じ、じんぱ、んっ」

最後の最後で塞いでやって、言えなくしてやる。そして、もう一度、名前を呼んでほしい、と懇願する。

「尽八…ふっ、んぅ」

唇を離して、幸子の顔を包み込む。

「最後、聞こえなかった。もう一回」

「だって、そんなの、東堂が、」

真っ赤な顔で、抗議する口を塞いでやる。ちょうど口が開いていたので、舌をねじこんで、絡ませる。幸子の足腰が震えて、崩れ落ちてしまいそうだったから、背中に手を回して、机の上に、幸子の背中をおろす。机の上で上半身だけ寝そべっている幸子に覆いかぶさる。

「東堂、じゃないだろ」

じとっとした目で睨みつけてやると、幸子は潤んだ瞳を見開かせてから、ぷっと噴出して、あははっと軽やかな笑い声をあげた。

「うん、そうだね。…じんぱち」

恥ずかしそうに、片眉を下げて笑う。

名前を呼んだだけ、呼ばれただけなのに。名前のあとから、感情がこみあげ、自分ではどうしようもない量が溢れ出して、堰を切ったように、キスをする。遠くから、生徒たちのざわめきが聞こえてくる。でも、近くの、幸子の吐息とか、小さな声とかで、耳が満たされていて、それどころではない。

何回目かのキスのあと、ちらっと時計を見ると、昼休みが残りわずかになっていた。唇から離れて、身を起こす。だが、幸子はなかなか体を起こさない。

「幸子?」

「ご、ごめん、その…脚に力が…」

真っ赤な顔で申し訳なさそうに言う幸子。なんだか面白くてぷっと噴出してから、手を握って、起こさせた。ありがとう、と礼を言ってから、呼吸と髪型を整える幸子に、からかうようにして問いかける。

「脚に力が入らなくなるほど、気持ちよかったか?」

ぼんっと顔が真っ赤になった。恨めし気にオレを睨んでくる。全く怖くない。それどころか、面白い。むうっと頬を膨らませながら、幸子は、オレの腕をぐいっと引っ張って、耳元で囁いた。

「じんぱちの、えっち」

…え。

幸子はそう言うと、ぱっと、勢いよく離れて、くるりと背を向けて、バタバタと駆けていく。耳が真っ赤だった。がらっとドアを開けて、廊下を走っていく音が聞こえる。

「あ、幸子ちゃ〜ん!!さむい、って、わっ!!おおう、熱い抱擁…!!いや、ほんとに熱いね!!郷ひろみのあの歌ぐらい熱い…!!」

堀田さんの能天気な声をBGMに、その場で、腰を抜かし、へたりと座り込む。

『じんぱちの、えっち』

「…反則だろ…!!」

真っ赤になった顔半分を、掌で覆う。

初めて苗字を呼び捨てで呼んだ日のことは、残念ながら、記憶のどこかに追いやってしまったけど。初めて名前を呼んだ今日のことは一生忘れられないだろう。というか、忘れたくても忘れられない。忘れるつもりもないが。

じんぱちの、えっち。

「…何ちょっと韻踏んでんだよ…」

ちょっと寒い、とある秋の日、情けない声が美術室から聞こえた。






きみの名前を歌にする


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