お洒落なごはんやさんに、わたしはいた。こういうところに元々縁がないのに、人見知りが激しいわたしが知らない男の子を四人目の前にして、かちんこちんに固まるのは仕方のないことだった。とりあえず、にこっと笑う。
「吉井幸子っていいます。よろしくお願いします」
あれです。いわゆる合コンというやつに来ています。
事の始まりは、昨日、派手目なグループの子に懇願されたことからだった。急に一人足りなくなったから、来てほしいとわたしと美紀ちゃんと依里ちゃんのところにお願いがきたのだった。今日、暇なのはわたしだけで、頭を下げられてお願いされた。どうしても一人足りないの!と。
『合コンって別に彼氏が欲しい!ってだけで行くんじゃないから!交友関係を広めるみたいな!?まあ私は欲しいから行くんだけど!一人欠けてたらさ〜盛り上がりが微妙になんの!お願い〜!』
手を合わせながら頭を下げる友達。人からお願いされることに滅法弱いので、頷いてしまった。『え、本当に!?ありがとう!愛してる幸子!』とわたしに抱き着く友達の姿を見て、そんなに喜んでくれるんだ、と嬉しい気持ちになった。
言わないで合コンに行くのは悪いと思ったので、これこれこういう理由で合コンに行くことになった、と東堂に言うと。
ジャッジャッジャッジャーン、と、どこからかベートーベンの運命が流れたような気がした。え、と辺りをきょろきょろする。けど、それ以降は何の音もしない。今のなんだったんだろう…?と首を傾げていると、東堂にガシッと肩を掴まれた。
『…今から断れ…!』
必死の形相をしている東堂がいた。
『へ』
『合コンなんて行くな!他の男から言い寄られたらどうするんだ!』
『ないない〜』
『ある!』
『ないよ〜。心配性だなあ。あのね、合コンってね、絶対に彼女とか彼氏が欲しい!って名目で行くところじゃないみたいだよ。交友関係を広めるところなんだって』
『駄目だ駄目だ!』
『でも、智香ちゃん(ギャルの友達)に、もう行くって言っちゃったし…。智香ちゃんの友達で明日の予定つく子わたし以外いないみたいだし…』
『そうなの東堂!お願い!』
『って、わ、智香ちゃん』
『うわ、吃驚した!』
『マジで!お願い!幸子には男近づけさせないから!この通り!マジで!お願い!彼氏欲しいんです!彼氏が…彼氏が欲しいんです!!』
突然わたしと東堂の会話に入ってきた智香ちゃんが頭を下げて東堂に頼む。こんなに友達が必死になっているのに、何にも加勢しないのは悪いと思って、
『東堂、だめ?』
東堂のシャツの袖を引っ張って、顔を覗き込んだ。うっと呻き声を漏らしてから、顔を赤くする東堂。そして、ハァーッと盛大に息を吐いた。智香ちゃんの方をぎろっと見据えて厳しく言う。
『絶対に、近づけさせんなよ』
『きゃーっ!流石山神ーっ!よっ、イケメン!美形!』
『…そ、そんな褒められても騙されんからな俺は!』
と、言いつつも鼻が少し高くなっている東堂であった。
東堂にはしつこいくらい念を押された。連絡先を聞かれても無視しろ、どこか触られたりしたら逃げろ、嫌なことがあったらすぐに智香ちゃんに助けを求める事。彼氏がいるかどうかと訊かれたら最高にカッコいい彼氏がいるということ。えーっと、それからなんだっけ…。あ、笑いかけるな、とか言われていたんだった…。笑っちゃった…。でもずっと仏頂面っていうのも、悪いしなあ…。
ううん、と唸っている間に、合コンはどんどん進行していた。わあ、みんな仲良くなったみたい。良かった良かった。恋が芽生えていく瞬間を見る事って、楽しい。微笑ましく見ていると、横に誰かが座った。
「吉井さん、ずっと黙ってんね。こういうの初めて?」
わたしの横に、男の子が座っていた。名前はえっと…確か…紺野くん。お顔立ちが整っている。モテるだろうなあ、と思いながらじいっと見ていると、ひらひらと顔の前で手を動かされてハッと我に返った。
「ご、ごめん、ぼーっとしてた」
「いいよいいよ。こういうの初めて?」
「うん」
「そっか」
紺野くんがお冷に口をつけた。お冷が半分ほどなくなったので、ポットを掴んでお水をいれる。
「ありがとう」
「いえいえ」
「吉井さん気がきくよね。お皿とかみんなの分いちいち纏めてるし。あと店員が料理運んでくるたびいちいちありがとうございますってお礼しているし」
「わたしファミレスでバイトしてるだけだよ〜」
「そうなんだ、どこで?」
「えっとねえ」
そこから、ちょっと話が盛り上がった。周りはもう既にペアになっているみたいだし、紺野くん、余っちゃって、わたしに話しかけるぐらいしか暇をつぶすことがないんだろうなあ…それか、わたしがひとりでぼけっとしているのが可哀想で話しかけてきたんだろうな…と、最初は思っていたけど、普通に楽しかった。話し上手な人だなあ、楽しい。
そう思っていると、御開きの時間になった。智香ちゃんは一人の男の子とすっかり仲良くなった様子。他のみんなもそんな感じだ。良かった良かった。ばいばい、とみんなに手を振って、ホームへの階段を降りていくと。
「あ、ちょっと待って。吉井さん。送ってく」
「ええ、いいよ」
「女の子が一人で帰るのは危険だよ。送ってく」
「ええ、でも」
申し訳なくて、眉を八の字に寄せると、手首を掴まれた。
「ほら、電車来たよ。いこ」
そう言われて、半ば強制的に一緒の電車に乗ることになった。紺野くんはちょっと強引だけど、女の子を一人で帰らせるなんて駄目だというポリシーを持った紳士的な男の子らしい。
話し上手だし、女の子に優しいし。ちょっと、東堂に近いものがある。
だから、楽しく話ができたのかなあ。
…東堂、今頃何しているのかなあ。
「吉井さん?」
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「すぐぼーっとするね」
ははっと笑われて。へへっと笑い返す。あ、笑っちゃった。…ごめん、東堂。
まあ、わたしが何かモーション?とやらを男の子にかけられるなんてないから、大丈夫大丈夫。心配性なんだから。
しかし、そのわたしの考えは十分後に裏切られた。
「あのさ、メアドとケー番教えてくんない?」
嘘。
わたしはパチパチと瞬きをしてから、紺野くんを見た。自意識過剰かもしれない、けど。ただの友達としてわたしの連絡先を知りたいだけかもしれない、けど。…さすがに連絡先を教えたら東堂に悪いので、わたしは丁重にお断りをすることにした。
「ごめん、それは無理」
「…え、なんで?」
「…あの、わたし、今日、ピンチヒッチャーできただけで、その、彼氏、いるの」
そう言うと、紺野くんはポカンと口を開いた。
「ご、ごめんね、ほんと」
申し訳なくて、謝罪を口にすると、紺野くんは「あー…」と暗い声を出した。
「いいよ、別に。ちょっと、聞こうかなって思っただけだし。そんなマジじゃねーし」
拗ねたような感じでそう言う。気分を害したようだ。紺野くんの雰囲気が優しいものから棘棘したものに変わった。
…でも、そりゃ、怒るよね。合コンに彼氏いる子がきて、その子に適当に声かけてみたらちょっと話が合ったから連絡先聞いてみたら、彼氏がいるから、と断られるなんて。しかも紺野くんはイケメンさんだから、こういう風に断られることに慣れてないのだろう。わたし、紺野くんのプライドを傷つけたのかもしれない。
もう一度、謝ろうと口を開いた時、鞄が震えた。携帯を取り出すと、『東堂尽八』と画面に文字が浮かび上がっていた。自然とぱあっと笑顔になる。
「東堂だ」
「…は?」
紺野くんが怪訝そうにわたしを見た。慌てて口を抑える。流石に紺野くんに彼氏から電話きたというのはデリカシーがなさすぎると思って、「ちょっとごめんね」と言ってから、紺野くんから少し離れたところに行って、通話ボタンを押した。
「どうしたの?」
『大丈夫か…!?』
なんて切羽詰まった声なんだろう。面白くてぷっと噴出した。
『こら!笑いごとじゃない!大丈夫か!?無理矢理外に連れ出されたりとか嫌なこと言われたりとかされたりとかしてないか!?』
「してないしてない」
『本当だな!?』
「もう、大丈夫だってば」
やっぱり、東堂と話しをするのは楽しいなあ。落ち着く。東堂の声は、わたしに安心感をもたらす。包み込まれているような、そんな気分になる。
『くそ、こういう時に限って明日レースという…!店に着いて行きたかった…!』
「だから、大丈夫だってば〜。明日に備えてきちんと寝るんだよ?わたし、明日はバイトしながら東堂のこと応援しているから、頑張ってね!」
『…おう!』
東堂の弾んだ声が聞こえてきた。嬉しそうな声を聞けて、わたしも嬉しくなる。おやすみ、と言い合ってから、電源ボタンを切った。
もしかしたら、紺野くんもう帰っちゃったかなあ、と思って振り向いたら、すぐ傍にいたから、吃驚して目を見開いた。
「わ、吃驚した」
「…吉井さんの彼氏ってさ、東堂?」
「え?」
「箱学の東堂?」
「あ、うん」
紺野くんは「へえ」と面白くなさそうに呟いた。空気が不穏な物に変わっていく。どうしたの?と訊こうとした時、紺野くんはハッと鼻で笑った。
「吉井さんって上っ面でしか男を見ない馬鹿女なんだね」
蔑むような目で見下ろされて、体が固まった。
「ああいうキャアキャア騒がれて得意げになってるだけの男のことが好きとか。あ、それとも、あれ?ステータス上げ狙い?それならまだわかるわ」
東堂への悪意を肌で感じる。
確かに、キャアキャア騒がれて嬉しそうだ。荒北くんも、騒がれている東堂を見て忌々しげにチッと舌打ちを鳴らしている。けど、紺野くんのとは、何かが違う。紺野くんの東堂へのこの物言いは、完璧に悪意で満ちている。
…嫌だな。
口論をするのは苦手だ。頭がいっぱいいっぱいになって、うまく言葉が口から出てこない。でも、東堂の悪口を紺野くんから聞きたくなくて、そういうこと言うのやめて、と口を開こうとした時だった。
「だいたい、インハイで優勝もできなかったくせに、それで山神って呼ばれてるとか意味わかんねー。マジで東堂ってただの口先男」
紺野くんがそうせせら笑った時、意識が一瞬飛んだ。
次の瞬間、ぱしんと小気味よい音が空気を切り裂いた。
「ってえ…」
はっと我に返る。わたしは紺野くんに平手打ちをしたようだった。頬を抑えてわたしを睨んでいる紺野くんがその証拠だ。暴力はいけない。暴力を振るったんだから、謝らなくてはいけない。と、理性ではわかっているのだけど。わたしは理性とは全く違うことを口にしていた。
「今の、訂正して」
「はァ?」
「訂正して」
人を睨みつけるのなんて初めてかもしれない。わたしは目を吊り上げて、紺野くんを睨みつけた。周りの人たちがわたし達を興味深そうに見ている。視線が注がれていて恥ずかしいと思う気持ちはなかった。憤り過ぎて、そんなの、どうでもよかった。
「訂正して」
もう一度、同じことを繰り返す。
東堂はなんてことのないように軽々とやってみせるけど、人の何倍も努力をしていた。天才だからな、と得意げに笑っていたけど、東堂の実力は“努力”によって作り上げられているもの。けど、自分がいかに努力をしているのか。それを周りに高々と言うことは決してない。
インハイで、箱学が優勝できなかった時だって、みんなの前では泣かなかったらしい。真波くんに教えてもらった。最後まで毅然と、凛々しく、堂々としていた。最高の先輩だって思ったと、誇らしげに語る真波くんは内緒ですよ、と恥ずかしそうにわたしに笑って、わたしも笑った。
そんな人を、口先だけの人だということは。絶対に、許さない。絶対。
「よく、そんなことが言えるね。優勝するってことが、どれだけ大変なことか、わかってるの…?」
何故だか泣き出しそうになる。唇をぎゅっと噛んで、堪えてから、心の声が漏れた。
「さいってい…っ」
憎々しげに呟くと、紺野くんの目が見開いた。怒りで顔がゆがんだかと思うと、わたしの手首をぐいっと掴んだ。
「へ、ちょっ、どこ行くのっ」
無言でどこかへどんどん連れて行く。力が強くて振りほどけない。そのまま引きずられるようにして、駅を出て、わたしは路地裏に連れ込まれた。がんっと壁に肩を押し付けられた。
「いたっ」
「っせーんだよ、さっきから!黙ってたら調子乗りやがって!」
怒声が降り注いできて、びくっと体が震えた。男の子の怒っている声って怖い。けど、さっきのを訂正してもらうまで、わたしに怯えている時間なんてない。
「訂正して」
「無理」
紺野くんはチッと舌打ちを鳴らした。
「女ってみんな東堂東堂言うな。どいつもこいつも。バッカじゃねーの」
忌々しげに呟いてから、わたしを見て、「あ」と何かを思いついたように漏らした。そして、にやっと口角を上げる。
ぞわっと背筋に悪寒が走った。
なんか、まずい気がする。
頭の隅っこで警報が鳴っているけど、足がすくんで動くことができなかった。
「俺さ、元カノが東堂に惚れたつって、フラれたんだよね。まー俺もあんな奴どうでもよかったけど。どうでもいいところに振ってきてくれてラッキーって感じなんだけどさ」
顔の横に手を置かれた。警報が鳴り続ける。
「けど、盗られっぱなしって悔しいじゃん?」
顎に手をかけられた。逃げなきゃ、と思うよりも先に。
一気に距離を縮められて、唇を塞がれた。
「っ、んっ、ん〜っ」
どんどんと胸を押すけど、鬱陶しそうに手首を掴まれて、壁に押し付けられた。全力を振り絞って振りほどこうとしても全く動かない。足の間に足を滑り込むように入れられて、足を踏むこともできない。ぬるっとしたものが無理矢理口をこじ開けてきた。
「っや、め、っふ、う」
舌を絡み取られて喋ることができない。呼吸する間もくれなくて、酸欠で眩暈がしてくる。
きもちわるい。きもちわるい。きもちわるい。きもちわるい。
同じ言葉がぐるぐると頭の中をまわる。
「や、め、んんっ」
嫌だって、何回も言っているのに。全然聞いてくれない。
東堂だったら、嫌だって言ったら、聞いてくれるのに。
…いや、東堂だったら、嫌って、わたしは言わない。
優しいから、いつもわたしのこと心配してくれるから、大丈夫かって訊きながら、触ってくれるから。だから、わたしは嫌って言わない。嫌なら嫌って言えよ、って言ってくれるけど、嫌な訳ないじゃない。
あんなにやさしく触られて、嫌って思う訳ないじゃない。
「…っ、や、だっ」
知らない舌触り、手の感触に、不快しか覚えない。
右手首を掴む手が解放されたかと思うと、服の上から胸を揉まれる無遠慮な掌が、ただひたすら気持ち悪くて、仕方ない。
東堂は、びっくりするぐらい真面目に、訊いてくれたのに。
胸を触ってもいいだろうか、と、ものすごく真面目に訊いてくるから、わたしも真面目に敬語で返した。くすぐったくて、むず痒くて、嬉しかった。大切に想う男の子に、大切にされていることが、嬉しかった。
気付いたら、涙が溢れ出てきた。
「…え、ちょ、何、泣いてんの」
唇がやっと離れて、わたしは、嗚咽を上げながら、泣いた。
「…ひっく、ぐすっ、ひ…っ」
顔を掌で覆って、紺野くんを見ないようにする。
「やだ、やだ、やだ…っ」
壁に背中を押し付けるようにして、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
「んだよ、ちょっとした冗談じゃん」
チッと舌打ちを鳴らしてから、身を翻す音が聞こえた。足音がどんどん遠ざかっていく。
触られたところが気持ち悪くて、唇に残っている感触が気持ち悪くて。
やだ、と口の中で呟くと、また涙が頬を転がり落ちた。
昨日、電話をかけた時、嘘はついてない声だった。だから、本当に大丈夫だったのだろう。無事、何事もなく終わったに違いない。けど。
「やっぱりもう二度と行かさないことにしよう…」
考える人のポーズをとりながら、真剣にそう呟く俺に向かって、黒田が呆れたように言った。
「そんなに心配なら行かせなかったら良かったじゃないですか」
「だってお前!あんな目で見られてみろ!友人を想って俺に上目遣いで頼む吉井を見てみれば誰だってああなる!」
「は、はあ…」
「…!? お前もそうなるのか…!?も、もしかしたらお前…!」
「違いますよ…。大丈夫ですから…。東堂さんって吉井さんのことになると…マジ…」
黒田は面倒くさそうにため息を吐いた。黒田が言いかけて呑みこんだ続きの言葉は知っている。“吉井のことになると面倒くさい”だろう。いろんな人間に散々言われてきた。隼人には『いつもの三倍めんどくさいな。ただでさえめんどくさいのに』と真顔で言われた。あいつの言うことはいつも俺の心臓を深くえぐってくる。
今日は黒田とレースに参加した。まあ、優勝はもちろん俺だけどな。ワッハッハッ。
「帰り、なんか食いに行くか」
「えっ、マジっすか!?」
「そんなかしこまることないだろう」
「え、あ、はい!」
ぴしっと背筋を正して、キラキラした目で俺を見る黒田。可愛いものだ。
「腹減ったなあ」
んーっと腕を伸ばして柔軟しながら歩いていると、誰かが“とうどう”と口にしているのが耳に入ってきた。十中八九俺のことだろう。なんだなんだ。俺の走りを絶賛しているのか。それとも。
「あー、また東堂かよ」
「出るとこ出るとこで優勝しやがって」
妬みの方だったか。
俺達が近くにいる事を気付かないで、自販機の前でイラついたようにぼやく二人組がいた。
「アイツ、ぜってー調子乗ってるよな」
黒田の顔が強張ったものになる。何か言おうとしたのを目で制すると、ぐっと言葉を飲み込んだ。もうこういった類のものは言われ慣れている。口先だけ。大して努力をしていない。軽薄。耳にタコができるほど聞き飽きた。いつものように受け流して、通り過ぎようとした時だった。
「お前の女に手を出したって言うタイミング、逃したの痛かった。しくった」
…は?
足が自然ととまった。
「お前も運悪いよな〜。いっつも東堂に女とられてんじゃん」
「とられてねーよ。昨日のとか、最強にどうでもいい。むしろ東堂の彼女で良かったってぐらいだっつーの」
むきになって言い返している男の方に目を向ける。二人組の男は会話に夢中になっているので、俺の視線に気付かない。
「どんな子だったんだっけ」
「ふわっふわしている感じに頭かるっそうな女。間延びした喋り方がうぜえ」
「お前の好きなタイプじゃん。女子〜って感じのだろ。なんでも言うこと聞いてくれそうな」
「うっせーな。どうでもいいよ、あんなん。あ、でも」
にやっと口角を上げてから、言った。
「まあ、胸はでかくて、良かった」
「え、マジで?どんくらい?」
「Eはあるわ、アレ」
「うっわ、羨ましい。俺もそんくらいの揉んでみたい」
下卑た笑い声が耳に嫌らしくまとわりついた。
「喋るな」
二人組の男に体を向けて、真っ直ぐに言った。え、と驚いて俺を見ている。
もうこれ以上、汚い口から吉井のことが話されるのは、流石に堪えられなかった。
「もうそれ以上、吉井のことを喋るな。それから、二度と吉井に近づくな」
それ以上、言うことはなかった。前を向き直して、再び歩きはじめる。黒田に行くぞ、と言うと、二人組の男を睨みつけてから黒田は頷いた。
不思議なものだ。冷静に物事を受け止められている。吉井はあの男に無理矢理触られたのだろう。最後までするほどの卑劣漢には見えないから、体を無理矢理触ったというところだろう。それをされたのはいつだ。昨日、電話した時の声は明るかった。まさか、演技だったというのか。いや、演技だったのかそうでないのか。この際そこは置いといて。吉井は、昨日、ひとりで。
「おい、待てよ!」
ぐいっと肩に手をかけられた。汚い掌を置かれて、眉が自然と眉間に寄った。
「なんだよ」
冷たい眼で見据えると、目の前の男が一瞬口ごもった。悔しそうに顔を歪めて「そういうところが気に食わねーんだよ!」と食って掛かってきた。
「悔しがれよ!自分の彼女、他の男に触られて、それかよ!涼しい顔でなんでも簡単にやりやがって!」
でかい声で一気にまくし立てたから、肩で息をしている。
「言いたいことは、それだけか」
俺はそう言って、肩に置かれた掌を振り払った。こんな手に触れられたのか。泣いたんだろうな。お父さんは単身赴任で、お母さん、旅行するから、三日間ひとりなんだあ、と言っていたから、本当に一人で泣いたんだろうな。その時、俺は何をしていたんだろう。テレビを観ていたのか。勉強でもしていたのか。寝ていたのか。
自分が嫌になる。
「っ、だから、そういうところがムカつくつってんだよ!」
胸倉を掴まれた。じっと、男の顔をつまらなそうに見ると、男の手が振り上がって、そして、殴られた時、カシャッとシャッター音が鳴った。
「…間一髪」
黒田が息を切らせて、にやっと笑いながら、ケータイの画面を向けてきた。隼人がここにいたら口笛を鳴らしているだろう。男の顔は真っ青になった。
「これ、学校に流されたくなかったら、二度と東堂さんと吉井さんに近づくんじゃねーぞ」
男は悔しそうに黒田を見けてから、チッと舌打ちを鳴らして、俺の胸倉から手を離した。怒り肩で帰って行く背中は観る価値もないので、さっさと視線を黒田に向ける。
「…助けに行くより、こっちの方がいいかって、とっさに思って」
「それでいい。お前は機転がきくな。サンキュ」
「東堂さん、それ、腫れるんじゃないですか。冷やした方が」
「いや、いい」
じんじんと痺れる頬の痛みも、口内の血の味も、どうでもよかった。
「悪い、黒田。俺、寄るところがあるから、飯はまた今度な」
ひとりで、泣いたであろう吉井のことしか、頭の中にいなかった。
ピンポーン、とインターフォンを鳴らす。しかし何も応答はない。あ、そういえば、バイトか。何時までなんだろう。そう思った時、コンクリートを踏む音が聞こえて、続いて、息を呑む音が聞こえた。
「東堂…?」
聞きなれた声の先に目を向けると、目をまん丸くして俺を見ている吉井がいた。スーパーの袋を片手に持っている。てててと小走りで駆け寄ってきて、更に目を見開かせた。
「ど、どうしたの、その怪我…!?」
「ちょっとな」
「何にも手当してないの…!?駄目だよ、ちょっと、うちんち来て!」
吉井は小さな掌で俺の手首を掴んで、家に引き込んだ。
「東堂、これ、どうぞ」
吉井は俺をソファーの上に座わせてから、そっと横に腰を下ろした。氷をビニールに入れてタオルで包んだものを俺に渡す。
「東堂?」
なかなか受け取らない俺を不思議に思って、首を傾げる吉井。それでも俺は受け取らないので、吉井は「もう、どうしたの」と小さく笑ってから、俺の頬に氷を当てた。ひんやりとしていて、気持ちいい。
俺に氷を当ててくれている吉井の掌に、自分の掌を重ねた。
「嫌なこと、あったんだろ」
真っ直ぐに見据えて、そう言うと、吉井の眼が見開いた。強張った表情を、無理矢理笑顔にしてから、吉井は言った。
「なんにもないよ?」
「知ってるから、隠すな」
「へ」
「昨日、電話した時、わざと元気な振りをしたのか」
吉井は俺から目を逸らした。俯いて、俺の方を見ようとしない。体が小さく震えている。吉井は小さく首を振った。
「合コンにいる間、ずっと嫌なことされてたのか」
この質問にも、小さく首を振った。
「昨日、ひとりで、泣いたのか」
この質問には、吉井は何も返さなかった。
多分、肯定ということだ。
さっき返された質問も、吉井が本当のことを言っているかどうかわからない。吉井は俺の為なら、嘘を吐く。心配をかけたくないから、とか、そんな理由で。“多分”、電話をした時点ではまだなにもされていなくて、“多分”、合コンの間は嫌なことをされていないということだ。
「なあ、吉井は、俺がひとりで泣いていたら嫌だと、言ってくれたな」
おずおずと、伺うように、優しく暖かい声で言ってくれた夏の日のことを、一生忘れない。世界で一番大切にしたい女の子が、俺を大切に想ってくれていることが嬉しくて愛おしくて抱きしめた。抱きしめたら、小さくて柔らかくて、そして、ああ好きだなと思った。
「俺だって、そうなんだ」
吉井の掌に自分の掌をさらに強く合わせる。
「俺だって、お前がひとりで泣いてるの、嫌なんだ」
吉井が他の男に笑いかけるのと、吉井がひとりで泣いているの。どちらが嫌かと訊かれたら、後者を選ぶ。
本当は俺以外の男に笑ってほしくない。
俺以外の男に触ってほしくない、触られてほしくない。
けど、ひとりで泣かれるよりは、まだそっちの方がマシだ。
俺も顔を俯けた。情けない。何が山神だ。神なら吉井が泣いている時に、すぐ察知して、助けに行ってやれるだろう。でも、現実は、俺はただの高校生で。吉井がひとりで泣いている間、多分寝ていた。情けなくて、反吐が出る。守るとか口には簡単に出す癖に、実際は、何もできていない。
いつも、俺ばっか、助けられて、守られて。
「…それ、もしかして、紺野くんに殴られたの?」
声に釣られて、顔を上げる。俺と目が合って、優しく笑う吉井がいた。
「…名前は知らんが、多分、そうだ」
「っていうことは、わたしのために怒ってくれたんだね」
吉井は、もう一度、俺に微笑んだ。
「ありがとう」
目が見開いたのがわかった。礼を言われるようなことなんて、何もしていない。アイツに関わる時間がもったいなくて、ろくに罵りもしなかった。
「東堂は…殴ってないよね?」
「っ、殴ってほしいなら殴って」
「あっ、いいのいいの!だいじょうぶ、殴らないでいいんだよ。内申とかに響いちゃうし。…わたしは殴っちゃったけど」
吉井はへへっと笑った。
「…吉井が、殴った…?」
信じられなくて、茫然として訊く。
「あの人、東堂の悪口言うから、殴っちゃった。そしたら、それがきっかけ?になっちゃって、なんか、その、された」
俺の悪口を言われたから、殴った。それがきっかけ、って。
「馬鹿かよ…!」
吉井の掌をぎゅうっと握りしめた。小さな掌は氷を当てているせいか、すっかり冷え切っていた。
「ほっとけよ、そんなの…!そんなんで、吉井が傷ついたら、」
「いや」
吉井からきっぱりと断られることなんて、珍しくて、言葉に詰まった。
「やだ。あれだけは許せない」
何を言われたかわからない。吉井が手をあげるほどのことだ。相当な中傷に違いない。けど、中傷の内容なんてどうでもよかった。吉井が、俺の為にそんなに怒ってくれたことが。
吉井の掌から手を離して、代わりに、背中に手を回して抱き寄せた。わ、という声が吉井から漏れた。
「怖かっただろ」
そう言うと、吉井の体が強張った。
「もう大丈夫だから。もう、絶対に大丈夫だから。アイツに近づけさせねえから。絶対に、だから、もう、一人で泣かなくて、いいんだ」
吉井が俺のシャツをぎゅうっと掴んだ。
「…泣いたら、わたし、めんどくさくなるよ」
「いい」
「この体勢で泣いたら、涙と鼻水ついちゃうよ」
「いい」
「…ほんとにいいの?」
「いい。泣いていい。だから、頼むから、ひとりで泣くな。泣きたい時は、電話しろ。深夜でも明日レースでも構わないから、お前がひとりで泣いている方が、心臓に悪い」
ぎゅうっと抱きしめる力を強めると、吉井が小さく震えはじめてから、嗚咽をあげて、泣き始めた。
ひとしきり、吉井は泣き終わったみたいだ。目と鼻の先が赤くて、ぼうっとしている。睫の先に涙が残っていたから、指で拭うと、吉井が俺にぼうっと視線を合わせてきた。
「…ありがと」
そう笑う姿が可愛くて、いつものように頬に手を添えた。顔を近づける。すると。
「わ、待って待って」
唇に掌の感触。両手で口を押さえられた。
きょ、拒否された…。ガーンとショックを受けていると、吉井は慌てて「ち、違うの!」と声を張り上げた。
「嫌とか、そんなんじゃなくて、その、わたし、えっと…キス、されちゃったから、あの…、それじゃ、東堂が紺野くんと間接キスになっちゃう、っていうか」
吉井はその時のことを思い出したのか、悲しそうに目線を下に向けて、下唇を噛んだ。でも、すぐ俺に目をまた合わせて、一生懸命になって言う。
「も、もうちょっと、待ってくれる?あと一週間歯磨きを一日に十回ぐらいしたらさすがに消え、んっ」
吉井の手を無理矢理両脇にどけた。口が開いていたのをいいことに、舌を入れる。吉井が顔を赤くして、俺を凝視している。
「ま、っ、ふっ、うっ、まっ、て」
一旦、キスをするのをやめて、吉井を見る。
「い、嫌じゃないの?紺野くんと間接キスとか」
眉を寄せて問いかけてくる吉井。俺は息を吐いた。
「俺が今キスしているのは、吉井だ。それから、」
鼻と鼻の先をくっつけて、じとっとした眼で吉井を睨んだ。
「キスしている時に、他の男の名前言うな。特にそいつの。嫉妬でおかしくなる」
吉井は口をぽかんと開けてから、ぷっと噴出して、「はあい」と返してきた。少し余裕のある吉井が面白くなくて、もう一度キスをする。長く唇を押し付けていると吉井が苦しそうだったから、唇を離して、吉井が息を吸い込んでから、またする。
ぷはっと息を吐いて息切れをしている吉井が、俺の頬に右手を添えた。
「わたし、東堂のキスの仕方、やさしくて、すき」
そう言って、小さく笑うから。
「わ」
抱きしめて、そのままソファーに沈んだ。どうしたのー?と問いかけてくる吉井の声が、俺の下から聞こえてくる。
「…もしかして、したい?」
「えっ」
「そ、その、股間が…」
「っ、え!?ご、ごめ」
「わたしは、いいよ?」
きつく抱きしめるのをやめて、吉井の顔を見る。赤く染められた頬がりんごみたいで可愛い。唇を頬に寄せて、ちう、と吸うようにしてキスをした。ひゃっとくすぐったそうに身をよじる姿が、可愛い。
「いや、いい」
髪の毛を梳くようにして撫でると、えっと言う顔をされた。
「大丈夫なの?」
「ああ。…というか、その、」
かっこつけたかったけど、言わないのはフェアじゃない気がして、目を泳がせてから、吉井に目を合わせた。きょとんとした顔をしている。
「ゴム、持ってない」
「あ」
吉井はそう呟くと、また噴出した。ふふっとおかしそうに笑っている。ゴムなしでもヤれる方法、あるけど。なんだか、今日は。
「はは、そっかあ、あはは」
おかしそうに身をよじる吉井の頬を指の腹で撫でて、ぎゅうっと抱きしめた。
こうしたい、って思ったんだ。
しあわせのとなり
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