あれから一週間経った。私と森山先輩は一つも言葉を交わしていない。鬱陶しいほどまとわりついてきていた森山先輩は、全く私の前に現れなくなった。部活は男女別だし、クラスどころか学年も違うので、どちらかが“会おう”と思わなければ会えないくらいに、私達には距離が空いているのだと知った。
まあ、別にいいけど。
「眉間に皺寄っているよ」
机に顔を埋めている形で寝ていると名前を呼ばれ、顔を上げるとそこにはひろの顔があった。ひろは机から顔を半分覗かせながら眉間を人差し指で指される。イラついたのでバシッと頭をなかなか強く叩いた。
「いだっ!」
「痛くしたんだから当たり前じゃん」
額を抑えながら声を上げるひろに、ぶっきらぼうな口調で返す。ひろはむうっと唇を尖らしながら、私をじっとりした目つきで睨む。睨まれたので睨み返す。睨み合っていると、ひろが少し真剣な面持ちに変わった。
「ねえ、よっちゃん。森山先輩と喧嘩したの?」
久しぶりにその名前を聞いて、心臓が少しだけ跳ねた。ほんの少しだけだ。ひろに動揺を悟られないように平静を装って「別に」とつれなく返す。
「全然会ってなくない?」
「学年違うから当たり前でしょ」
「でも前はしょっちゅう会いに来ていたじゃん」
「私のこと興味なくなったんじゃないの」
「えー、うっそだー。森山先輩私によっちゃんとうまくいくよう協力してくれってすっげーたくさんお菓子買ってくれたもん!森山先輩ってよっちゃんのことすっげー好きだよ!そんな簡単に興味なくなるとかあるわけないよ!」
「あるよ。あんなこと言われたら誰だって嫌いになる」
能天気なひろの物言いに苛々して、気付いたら口から秘密にしていた言葉がついてでてきた。慌てて口を抑えるが、もう遅い。ひろは丸い眼をさらに丸くして私を凝視していた。開いた口から「どういうこと?」と紡がれる。こうなったら、答えるまでひろは私を解放してくれない。しくった、とため息を吐いてから、気乗りしないまま私は話した。
「…生理的に無理だって、大嫌いだって陰口叩いた。そんでそれ聞かれていた。そんだけ。以上」
この話は終わり、とでも言うように私は口を閉じた。ひろと目を合わせないように、目線をずらして話した。
ひろはどこまでも真っ直ぐなので、陰口をたたくような人間が嫌いだ。言いたいことがあるなら本人に向かってはっきりと言えばいいと言う。そういうところが苦手だ。言いたいことをはっきり言えない人間だっているのだ。それどころか、思ってもないことを言って他人を傷つける馬鹿だって、この世にいるのだ。
「なんでそんなこと言ったの?よっちゃん、森山先輩のこと嫌いじゃないじゃん」
たとえばそう、私とか。
能天気な声で不思議そうにひろは言った。ひろの頭の上にはハテナマークが浮かんでいる。心底私の言動がわからないのだろう。
「なんでー?ていうかさ、嫌いじゃないどころか、よっちゃんって」
「うるさい!」
怒号でひろの声をかき消した。教室がシーンと水を打ったように静まり返る。ひろはきょとんとした表情で私を凝視していた。いつも私は静かに怒る性分なので、こんな風に声を荒げて怒る私が物珍しいだからだろう。
「わかんないよ、そんなの!私だって、好きであんなこと言ったんじゃない!!」
あんな顔させたくなかった。
あんな、無理に笑ったような顔をさせたくなかったのに。
傷つけたいわけじゃないのに。傷つけたくなんかなかったのに。
どうして私はいつも本当の事が言えなくて、平気な顔で嘘をついて、可愛くないことを言うのだろう。
どうしてあの人は、そんな私のことを好きだと言えたのだろう。
「どいつもこいつも、馬鹿ばっか…!」
額に当てて、目が影で隠れるように忌々しげに言葉を吐く。ひろも、あの人も、馬鹿だ。こんな私に構う馬鹿だ。大馬鹿者だ。
「よっちゃん」
名前を呼ばれて、返事を返す余裕もないほど私は苛々していた。
「格好悪いね」
そんな、また爆発してもおかしくない私にこんなことを言うなんて、目の前で能天気な顔をしてぬけぬけと言いぬける友人はなんという命知らずだろう。
「いつからそんなダサくなったんだよ、よっちゃん。好きで言ったんじゃない、とか知らないよ、そんなの。どいつもこいつもって言うけど。一番の馬鹿はよっちゃんだよ」
いけしゃあしゃあと、ひろは私に突き刺してくる。
「好きな人を傷つけておいて、そのまんまとか、さいっあくにダサいよ」
まぎれもない正論を。
ギッと睨みつけるが、ひろは涼しげな顔をしている。
「別に、好きなんかじゃない」
「あーもうめんどくさいなー。マジでめんどくっせー」
「好きじゃないもんは好きじゃないんだから、しょうがないでしょ」
「森山先輩に彼女ができたらどうする?」
「…別に」
「あーもう!今、今の顔がもう言っていたから!好きだって言っていたから!」
「してない、そんな顔していない」
ひろから目を逸らし、顔を俯けながらひたすら否定を繰り返していると、ひろがダーッと雄叫びをあげた。何事かと顔を上げると、その瞬間、額にものすごく巨大な衝撃が走った。声にならない悲鳴が漏れる。額が痛い。焼けるように痛い。額を両手で抑えて悶絶している。
「いって〜!!いって、ちょっ、いって〜!!」
前方からぎゃんぎゃんと犬のように喚き立てる騒がしい声が聞こえる。涙目になった目で見ると、ひろが私と同じく額を抑えながら悶絶していた。ぴょんぴょんと辺りを跳ねている。自分から頭突きしておいて何やっているんだか。ひろは額を左手で抑えたまま、右手の人差し指を私に突き付けて声高々に言う。
「よっちゃんいい加減意地張るのやめよ!!めんどくせえ!!いいじゃん!なんで!?何をそんなに意地張る必要があるのさ!!私にあれだけ偉そうに説教かましといてだっさい!すっげーだっさい!!」
うっと言葉に詰まる。私はひろに昔説教をかました。黄瀬くんともだもだやらかしているひろが鬱陶しくて仕方なくて、いわゆるキューピットという役を引き受けてまで、二人をくっつける手助けをした。なのに今では私がもだもだやらかしている。
「ってゆーか、黄瀬くんにも説教したんだよね!?なのに今なんてざまなのさよっちゃん!だっさいだっさい!うわ〜だっせえ〜!」
ダサい、ダサい。
ひろは何度も大声で連呼した。
私は気が短い。すぐに切れるという現代の若者を象徴している。だから、だんだんと、怒りのボルテージが貯まっていって。
言われなくたってわかっている。
私がどれだけダサいことをやらかしているのか。
見栄っ張りの意地っ張りで、傷つけたくない人を傷つけて。
ああ、そうですよ。
いつも私に纏わりついてきて鬱陶しい口説き文句を並べてきて、でも時々見せる真面目な顔にいつからか、そう思うようになっていたとか。
言えばいいってだけのこと。
ぶちっと堪忍袋の尾が切れた。
私は席から立ち上がって、ひろの胸倉を掴んで、怒鳴った。
「うるさいうるさいうるさい!わかったよ言えばいいんでしょ言えば!!」
とんでもないことを口走ってしまった、と我に返った時。キーンコーンカーンコーンというチャイムの音が虚しく響いた。
言質をとられた私は、告白というやつをすることになってしまった。
すっかり暗くなった教室で、行儀が悪いのを承知の上で机の上に腰を掛けて、スマートフォンと睨めっこをする。
クラスメートからは頑張れだとか応援しているだとか、冷やかしに近い声援を受けた。恥ずかしくて顔から火が出そうな私に対して、ひろは言った。
『よっちゃん、森山先輩を傷つけたアレだよ、えーっと、なんだっけ、い、い、い…』
「因果応報ってやつ、か…」
もくもくと浮かんでくる、記憶の中の間抜け面のひろの顔をしっしと払いのけて、はあっとため息を吐く。
直接会って告白だけは勘弁してほしいと言うと、ひろは「えー」と不満げに声をあげた。焼きそばパン奢るからと言ったらあっさりと了承した。なんて安い女なんだ。
普段あれだけぼろくそに人のことを言うくせに、自分が傷つくかもしれないという立場になったら、途端に臆病になる。最低だと我ながら思う。
あれだけひどいことを言ったのだから、断られる可能性だってある。というか、高い。
アドレス帳を【森山由孝】のところまでスクロールする。名前を見ただけで、毛穴から汗が噴き出して、鼓動が早くなる。ふうっと息を吐く。
チク、タク、チク、タク。時計の秒針の音と、心臓の音しか聞こえない。
…ああ、もう、どうにでもなれ!
ピッと通話ボタンを押して、耳に当てる。
心臓が今まで聞いたこともないくらい早鐘を打っている。コール音がもどかしい。けど、ずっと鳴っていてほしいとも思う。
『…好美ちゃん?』
久しぶりに聞いた声が電波に乗ってやってきた。
心臓がはちきれそうになるくらい、緊張に覆われる。唾を飲み込んだせいで、喉が動いた。
「おひさしぶり、です」
努めて冷静に言う。淡々とした声音は今から告白する人間のものとは思えない。
『どうしたの?』
森山先輩もいつものハイテンションとは違って、冷静な、穏やかな声で問い掛けてきた。
問い掛けられたのに、私はうまく返すことができない。
「えー、っと。…その」
言えばいいだけだ。
“す”と“き”の二文字で良い。ああ、でも“です”と敬語も遣うべきだ。
“す”“き”“で”“す”、そうその四文字で十分だ。そして、そのあとにこの前の無礼なことをしてすみませんでしたと謝って、あれ、前にしておいた方がいいんだっけ。えっと、あれ?何回も心の中で予行演習していたんだけど。あれ、えっと。
『…もしもーし?』
うんともすんとも言わない私を訝しがる声が聞こえる。
好きって言うのって、こんな大変なことなんだ。
森山先輩すごい。あんなに私に毎日恥ずかしげもなく好き好きよく言えたね。
なのに私はどうでもよさそうに受け流して。
もしかしたら、もう二度と言ってもらえないのかもしれないのに、その有難味にも気づかないで。
ついこないだまでの私が羨ましい。
「…あの…」
スマートフォンを持つ手が震える。手だけでなくて、膝小僧も震えていた。机に腰を掛けていなかったら、力が抜けて床にへたりと座り込んでいただろう。
『…マジでどうしたの?』
心配そうな声に切り替わる。
あれだけひどいことを言ったのに、私のことを案じてくれているのだ。
こんな馬鹿女のこと、女神だとか天使だとか口説いていた人だもんね。馬鹿だ、本当に、大馬鹿者だ。さっさと言えよ愚図ぐらいの罵倒はしてもいい権利をこの人は持っているのに。
気付いたらぐすっと鼻を啜る音を鳴らしていた。
『…え?』
「すみ、ませ…っ」
『い、いやいや、ちょっ、泣いて…!?なんで…!?何があったの!?』
「き、で、す」
『なんて!?ごめん、聞き取れなかった!』
「すき」
森山先輩からの声はなかった。でも、私は構わずに言う。
泣くのなんて、何年振りだろうか。涙を拭くこともしないで、途切れ途切れになった言葉を、必死に届けようとする。
「ちがうんで、す。嫌い、じゃなくて、私、馬鹿だから、あんな、こと、言っちゃっただけで、ほんとは、好きなんです」
返ってくる言葉はない。
「寂しいんです。先輩に構ってもらえなくて、寂しいんです」
今更何を言っているのだろう、と電話の向こうで呆れられているのかもしれない。
「ほんとは、先輩のこと、すきなんです」
いつもとキャラが違いすぎると、引かれているのかもしれない。
あれだけ偉そうにしているくせに、本当に情けない。
でも、駄目なんだ。怖いんだ。怖くて怖くて仕方ないんだ。
森山先輩に、フラれるかもしれない、ということが。
『…なあ、笠松。俺のこと、殴ってくんない?』
やっと返ってきた言葉は、私に向けられたものではなく、笠松先輩に向けてだった。
…はい?
『は?何言ってんのお前』
『いやいいから、マジで、お願い一発でいいから。頼むって』
『きもちわりーんだよ近寄んなボケェ!!』
『いって!…え、夢じゃない?これ夢落ちじゃない?…え?え!?』
『…森山お前どーした…?』
『田中さんと電話していたんスよね?どーしたんスか?』
よく耳を澄まして聞いてみると、がやがやという人の声に混じって、海常男バスのスタメンの声が紛れている。部活の後にスタメンでファミレスに食べに来たのではないかと推測がたてられる。つまり、私は、ある意味、男バスの前で告白したようなものであって。
カーッと熱があがっていく。
なにこれ。私、馬鹿じゃん。泣いていたの聞こえていないよね?黄瀬くんに聞かれていたら黄瀬くん殺すしかないんだけど。え、あーもう、やだ。
森山先輩を好きになってから、私がどんどん私でなくなっていく。
森山先輩は夢じゃないのか…とぶつぶつつぶやいたあと、ぽつりと言った。
『やべ、どーしよ…嬉しくて死にそう』
そう言った声は、少しの羞恥と多くの喜びに満ちていた。
『好美ちゃん、今どこいる!?』
「学校、です」
『は!?まだいたの!?待ってて、すぐ行くから!』
通話を無理矢理終わらされて、耳に残るのはツーツーツーという電話の音。でも虚しさはない。代わりに胸にあるのは、今まで生きてきて、初めて感じる期待に満ちた何か。
私はこの感情の名前を知っている。
スマートフォンの明かりが消えて、真っ暗な画面に映った私の顔は、なんとも情けない顔をしていた。
紫陽花が笑うころ
fin.