俺の“彼女”だと言う女の泣き顔は、眼の淵に涙をためて鼻の穴からは鼻水が垂れている、そんな泣き顔だった。それは今まで見てきた泣き顔の中で最も不細工で滑稽な泣き顔で、そうだからか、いつまでも頭にこびりついて離れなかった。
や、もう“元カノ”ってやつか。
風船ガムを膨らましながらポケットに手を突っ込んで廊下を闊歩する。
忘れてください、さようなら。要約すると俺はこう言われた。これはフラれたということになるのだろうか。初対面ではないらしいが、俺にとっては初対面の女にフラれるとは妙なものだ。記憶喪失と言われたってピンとこない。あの女に関する記憶意以外はすべてある。八百屋のババアの不倫相手の息子の顔だって覚えているんだ。彼女つったって俺のことだ。暇つぶしに決まってら。
ガムをぷくっと風船のように膨らました時、良い匂いが鼻をくすぐった。くんくんと鼻を鳴らして匂いを追跡すると、資料室にたどり着いた。なんで資料室から良い匂いが。襖に手をかけて開いてみた。
「もう…この際、食べて食べて食べて食べてやる…。ぬわーにがダイエットだ…」
怨念を瞳に宿し、ぶつぶつと言葉を垂らしているあの女が涙目でからあげを食べていた。並大抵のホラー映画よりも迫力があって、興味深くて吸い込まれるようにして見入っていると、女が顔を上げた。俺がいることに気が付いて目を見開かせて、「そ…っ」と声を上げてから、盛大に咽た。咽終わってから「ど、どうしてここに…!?」と俺に訊く。咽たせいか瞳は潤んでいて、目は困惑に満ちていた。
「良い匂いがしてな。お前、この部屋で働いてたんだな」
「わたしがここで働いてることは…、」
「近藤さんから聞いた。うちの経理やってんだって?大変だねィ、土方のヤローの無駄な器物破損とかどうしてんだ?」
「いや、八割がた沖田さんのですよ…」
「部下の罪は上司の罪でさァ」
肩を竦めてから、弁当箱のからあげに視線を走らせる。こんがりと揚がった鶏肉は腹を刺激させるには十分だった。ごくりと生唾を飲み込む。あ、間違ってガムまで飲みこんじまった。しゃがみこんで、卓袱台越しに目線を合わせる。
「なァ、ひとつくれ」
そう言うと、女は目を丸くした。そして、目を悲しそうに伏せた。顔を俯けたまま、なにもしゃべらない様子が苛々した。イエスかノーか半分か。どれなんだよ。いや半分とか言われても困るけどよ。なあ、と苛々しながら声をかけた時だった。
ガツンと、上から拳が落とされた。ジンジンと響く痛みを両手で抑えて声にならない悲鳴を上げた。
「なにサボってんだテメェ」
殺すぞ。
腕を組みながら俺を見下ろす土方を睨みながら、本気で殺意を抱いた。土方はガキのころのように俺の首根っこを掴んでずるずると引きずり出した。
「ちょ、離しやがれテメーコラ」
「副長に向かってどういう口のきき方してんだコラ、ああん?隊長さんよォ」
めったに出されない副長と隊長という権力の差を持ち出されて、土方がキレていることに俺はようやく気付いた。するりと俺の襟首から手が離された。舌打ちを鳴らしてから立ち上がって、鋭くした眼光で睨み飛ばして、せせら笑うようにして言う。
「なんですかィ?なにキレてるんですかねェ?ニコチン切れか?」
土方は俺の挑発には乗らず、はーっと息を吐いた。は?何ため息ついているんだよ。ぶっ殺すぞ。
「テメェ、いくらなんでも無神経すぎんぞ」
「…はァ?」
「記憶がねえからってな、なんでも許されるってわけじゃねえんだよ。アイツの顔、見えてなかったわけじゃねえだろ」
脳裏に浮かぶのは、悲しそうに目を伏せているアイツの姿。
何故だか、心臓が締め付けられたように痛んだ。
痛みに気付いてないふりをして、返事をする。
「それが、なんだってんでさァ」
「…女にあんな顔させてそれでも平気っていうほどテメーはクソッたれじゃねえと思ってたんだが、どうやらそれは俺の買い被りだったみてえだな」
「なあ、土方さん。あんた俺に斬り殺されてェの?」
「お前はな、アイツに弁当作ってもらってたんだよ」
土方は射抜くような目で、俺を見た。
「自分の分とお前の分。二人分も作るなんてクソめんどくせえことをよ。てめーがアイツのおかずをかっぱらっていくから、って理由で始めたようだったがよ。お前はそれを見ているこっちが恥ずかしくなるほど喜んでいたよ。鼻歌なんか歌いやがって」
なんだ、それ。
俺があの女に弁当作ってもらって、しかも、喜んでいた?
「こういうことに首突っ込むのは性にあわねえんだが、今のは突っ込ませてもらう。お前と苗字の遊園地での件は苗字から聞いた。お前はもう苗字に惚れてねえんだろ?だから、もう付き合ってねえんだろ?でも、アイツはまだお前に惚れてんだ。忘れようと必死なんだ。なのに、お前が前みたいな行動してたら、忘れるものは忘れられねえだろ。意思を明確に表さないアイツもどうかと思うがな。…あー、ったく、ほんっとこういうのめんどくっせえ」
土方は言うだけ言って、最後は吐き捨てるように言って、じゃあなと踵を返して去って行った。
突然、まくし立てられて、はっきり言って意味が分からない。
心にもやもやが貯まっていく。
アイツにもう惚れていないもなにも、なんか言う度すぐ泣き出しそうになるへたれた女なんて全く好みじゃない。つまり、もう惚れていないなら構うなって話だろ。“もう”も何も俺はあの女に関する思い出をひとつも持ってねえんだ。“もう惚れていないなら”なんて変な話だ。俺にとってあの女は一度も惚れたことがない女だ。あの女の弁当を食った記憶だってない。
そう思ったところで、弁当の存在を思い出す。こんがりと揚がった茶色いからあげは本当に美味そうだった。
記憶を失う前の俺は、あのからあげを食べたことがあるのだろうか。
思い出すだけで唾が込み上げてくる。
ああ、腹減った。
ぐーきゅるると空腹を訴えるように泣きわめく腹の虫が鬱陶しかった。
駆けつけた時にはもう全て終わっていた。
「またお前らか…」
パトカーから降りて開口一番に土方さんはそう言った。埃まみれでぼろぼろの万事屋たちを睨みつけながら。
「またお前らか…じゃねーんだよクソッたれ!てめーらいつも来るのおっせーんだよ!新訳紅桜篇でお前らがしたこと教えてやろうか?答えは…なにもしてませーん!!紅桜の存在を知っていながら落ちていく船をまぬけ面で傍観してただけでーす!」
「しょうがねえだろーが元々出番ない話に無理矢理登場させられたんだから!!」
良い大人がぎゃんぎゃんとガキのように口げんかをしているさまを冷めた目で見ていると、かたかた震えている女の存在に気付いた。
あの女…万事屋だったのか。
やけに旦那や眼鏡やチャイナと仲が良いなとは思っていたが、まさか万事屋で働いているとは。
女の顔は真っ青だった。震えがとまらないまま、へたりと座り込んだ。どうやら腰が抜けたようだ。
…まあ、当たり前だろうな。
テロリストと闘い合うなんて普通の神経の女なら、歯をガタガタ鳴らして漏らしちまうほど怖いことだ。しかもこの女、普通の女より泣き上戸ときたもんだ。あー、顔が涙と鼻水できったねえな、オイ。なんでこの女万事屋で働いてんだ?眼鏡やチャイナは根性あるから大丈夫だろうが、趣味と特技は料理です、みてえな面したこの女だ。せいぜい嫁に行くまでの腰掛けだろう。
「こ、こ、怖かったァ…!」
ずずーっと鼻水を啜って、泣き出しそうな声で小さく叫ぶ女を、チャイナと眼鏡が挟むようにしてしゃがんだ。
「名前さん、顔がきた…すごいことになってます。ハンカチどうぞ」
「あ゛り゛がどう゛じんばぢぐん゛」
「毎回毎回すごい顔になるアルなー、いつになったら慣れるネ、えいりあんと闘った時も凄かったよネ、えいりあん名前の鼻水に触れたくないから名前には攻撃しかけてなかったもんな」
え。
「神楽ちゃんんんんそれわたしの中で今もなお煌々と輝く黒歴史だから言わないでええええやめてええええ」
女がチャイナの肩を掴んで揺さぶっているのを、信じられない思いで凝視した。女と眼鏡とチャイナは三人でぎゃあぎゃあ喚いているため、俺の視線に全く気付かない。
えいりあんって。あれだろ。チャイナのオヤジがミミズみてえなえいりあんと闘った、あれ。え。こいつ、そんな前から万事屋にいんのか?
馴れ馴れしいって言ったくらいで泣くような女で、からあげくれつったくらいで顔を俯けるような女で、よく泣いてうじうじした湿っぽい女なのに、万事屋みたいな荒っぽい仕事を続けているのか?
「神楽ー、それ以上名前の黒歴史を突っつきまわすな。なおこちらが名前の鼻水垂れすぎて顔面にモザイクをかけられた写真でございます」
「銀ちゃんんんんんんんんん!?なんで、なっなんっ、なんでっ、そんな写真を…!?」
「おいコラ鼻水飛ばすな!!きったねーだろーが!!」
「いつも鼻くそ飛ばしてる銀さんにだけは言ってほしくないですね」
ギャアギャア、やかましく喚く万事屋たち。
女は慌てて、怒って、泣いて、そして、楽しそうに、声を上げて笑った。
かろやかな声をあげて、笑っていた。
目が離せない。吸い込まれるようだ。埃だらけで、泥だらけで、髪の毛はボサボサで。顔立ちだって整っていない。平凡そのもの。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているせいか、いつもよりひどいことになっている。
声をかけたらどうなるのだろうか。
あの笑顔を、俺にも向けてくれるのだろうか。
「おいコラ話は終わってねーぞ、万事屋。っつーかてめーらちょっと屯所までこい。事情聴取だ」
「うわ〜リンチされるゥ〜こわ〜い」
「チンピラ警察怖いアル〜」
「お・ま・え・らァ…!」
「ひーっ!土方さん落ち着いて…!!」
土方さんと旦那チャイナと一悶着起こしているのを仲裁している眼鏡に倣って、女も仲裁しようとしたが、怖くてやめたらしい。伸ばしかけた手を引っ込めて眼鏡の後ろに隠れた。女の肩に触れて、こちらを向けさせる。
向けさせる直前、恐れが生まれた。
『また、怖がられたら、どうする?』
…“また”?
またって、いつだ。いつ、俺は怖がられたんだ。そんで、俺はなんで、こんなにも。
怖がられることを、恐れているんだ?
一瞬のうちに様々な思惑が自分の中で交差して、女が振り向いた。鼻の先が赤くて、目も赤くて、涙と鼻水でかぴかぴに乾いた汚い面だった。
「…そ…じゃない、沖田さん…?」
何も言わない俺を女は怪訝に思って小首を傾げながら俺の名前を呼ぶ。はっと我に返った俺は振り向かせた口実を慌てて作った。
「きったねえ面してんぞ」
襟元のスカーフをぬいて、女の顔をゴシゴシ拭く。
「へ、うわ、」
「てめー十八の女だろィ、ちったあ身なりにも気をつけなせェ」
「わ、ぷ、ちょっ、…ふんごごご息が…っ」
「あー?きこえねえなあ」
拭くのをやめてスカーフを見る。うわ、涙と鼻水塗れきったねえ。顔をしかめていると、女の視線を感じた。なんでィ、とぶっきらぼうに問いかける。だが、女は俺の問いかけには答えなかった。
「…スカーフで拭くところは変わってないんだなあ…」
「おい。聞きなせェ人の話を」
「んぎゃ!す、すみません!え、えっと、あ、あの〜…顔拭いてくださって、ありがとうございます。それ、洗います。洗って返します」
「そうだな」
「わわっ」
放り投げるようにして渡すと、女は慌てて受け取った。さっき万事屋に見せたような笑顔はもうすっかり影をひそめていて、おどおどと俺を伺うような顔ばかりだ。癪に障る。でも、怯えてはいないみたいだ。声をかけても、怯えられなかったことが、何故だか嬉しい。失った記憶の中の一つに、アイツに怯えられた記憶でもあるのだろうか。
俺はそれを、悲しく思ったのだろうか。こんな、どこにでもいるような女に怖がられたことを、悲しく思ったということなのだろうか。
「沖田さん」
「…え。なんでィ」
ぼうっと意識を遠くに飛ばしていると、不意に女が声をかけてきた。
穏やかな人柄を表しているような柔らかい目元、大福のような頬を緩ませて、女は言った。
「お勤め、ご苦労様です」
旦那や、眼鏡や、チャイナに向ける笑顔とは、少し違った笑顔。
俺は何も返すことができなくて、土方さんに押し込まれるようにして、女が万事屋とともにパトカーに乗りこんでいこうとするのを、棒のように突っ立ったまま、ただ、見ていた。
その笑顔は俺がずっと望んできたもので、ずっと傍にあったような気がした。
To be continued…