目が覚めて、まっさきに覚えたことは体に纏わりついている汗に不快感だった。きもちわりィと小さく呟いてからむくりと起き上がる。頭はまだ膜がかかったようにぼやけてはっきりしなかったが、腹の虫が喚いたことによって自分が空腹だということを実感する。もう太陽が真上に昇っている時間とは。口うるさい上司がこの時間まで寝ていたことを知ったら目つきの悪い眼を三角に吊り上げて怒鳴り散らすことであろう。
…そういや、俺、土方さんに何か用があったような気が…。
腕を組んで頭を捻らせるが、脳はまだ活性化してないし俺は頭を使うことにはてんでからっきし駄目なのと、土方のことを考える時間を割くというのもバカバカしく思えたので、まあいいかとさっさと用を思い出すことを諦めて立ち上がった。
あいつがいるであろう部屋に向かって歩いていく。今日の弁当どんなんだろうな。すっかり恒例化した。日常の一コマとなっている。名前に避けられて怖がられていたころの俺が今の状況を知ったらどう思うだろうか。ふ、と口の端が少しだけ上がった時だった。
え。
俺は“何か”に足をとられ、視界が反転していく。あれ、なんで俺天井見てんの。なんで、俺、だんだん、倒れていって、
んだ。
ドッシーン!!と馬鹿でかい音が鳴り響いた。後頭部に激痛が走る。痛みに耐えかねてか、俺はそのまま、気を失った。
多分、今のわたしの顔色はとんでもなく青いだろう。血の気が引いているのが自分でもわかる。唇の震えがとまらない。山崎さんが眉を下げて「大丈夫?」と気遣ってくれた。
「わたしは、大丈夫、です…。それよりも、総悟くんが…」
ベッドの上で目を閉じて眠っているように気絶している総悟くんに視線を走らせる。頬に落ちている睫の影が、総悟くんの睫が長いことを証明している。頭に巻かれた包帯に血が滲んでいる。お医者さんが難しい顔のまま、口を開いた。
「心音も安定してますし、出血もそこまでひどくないですし、もうそろそろ目を覚ますころ、なんですがねえ…」
お医者さんが「うーん…」と唸ったあと、近藤さんが「総悟…っ」と何もできないこの状況を歯がゆく思うように、悔しそうに総悟くんの名前を呼んだ。
今にもわたしの目からは涙が零れ落ちそうだ。ついでに鼻水もたれそうだ。ずずっと鼻を啜って、総悟くんを見る。
総悟くん、起きて。ねえ。
こんなの…っ、こんなの…っ。
「土方さんをバナナの皮で滑らして後頭部に鉄アレイが当たるように仕向けた罠に自分で引っかかって死ぬとか、嫌だよォ、総悟くん…!」
「本当にな。情けなさすぎるわ。っつーかなんで鉄アレイが当たってもそこまで出血しないの?お前の頭はなにでできてんの?ダイヤモンド?バナナの皮で足を滑らせて殺すようなことを考える馬鹿の脳みそを覆ってるのはダイヤモンドなの?」
悲しみに暮れているわたし達の中でひとりだけ土方さんが能面のような顔で突っ立っていた。いつもなら命を狙われている土方さんを不憫に思うわたしだが総悟くんが意識を失っている今、土方さんを気遣う余裕がわたしにはなくて、そのツッコミを聞き流してしまった。
「総悟…!死ぬなァァァァ!!」
「いや死にそうじゃねーから。心音安定してる状態でどうやって死ねるんだよ」
「隊長…いい人だったな。俺が悩んでたらマヨネーズ丼奢ってくれたりして…」
「それ俺ェェェェェ!!俺がしてやったァァァァ!!お前総悟のこといいやつだって言ったこと一度もねーだろ!!あれか!?思い出補正か!?死んだやつはいいやつに見えるっつー現象か!?っつーか死んでねーから!!」
「まずかったなあ…」
「山崎テメェェェェ!!」
土方さんが山崎さんの首を絞めている時、ぴくりと総悟くんの瞼が動いた。どくんっと心臓が跳ねる。
ゆっくりと、開かれていって、綺麗な蘇芳色が姿を現した。
「お、起きたァァァ!!」
「隊長ォォォォ!!」
「だからそろそろ起きる頃だって言ったじゃないですか…」
「おーい、総悟くん。ちょっと話があるんだけどな?殺人未遂のことで」
総悟くんに抱き着く近藤さん、万歳三唱する山崎さん、二人のテンションに引いているお医者さんに、引き攣った笑顔を浮かべる土方さん。
たかが気絶、されど気絶。
だけど、総悟くんの寝顔はこのまま一生眠っているのではないのだろうかと錯覚させられるくらい、綺麗な寝顔で、もう二度と、わたしとお話ししてくれないのではないのだろうかという不安を抱えさせるものだったから、
ああ、目を覚ましてくれて、よかった。
涙もろいわたしは安心で、ぽろりと涙をこぼしてしまった。
総悟くんはなにがなんだかわからない、と言った顔でわたし達を見ている。
ばちっと、わたしと総悟くんの目が合った。
何泣いてんでィ、ブッサイクな顔が余計ブッサイクになんぞ。そう言われる前に慌てて涙を袖で拭っている時だった。
言われたのは、予想外の一言。
「あんた、誰でィ」
…え?
わたしは袖で瞼を擦るのをやめた。近藤さんと山崎さんも喜びの声をあげるのをやめる。土方さんの目が見開かれた。
わたしを見る総悟くんの瞳は、“はじめてみるもの”を見る瞳をしていた。
つまり単純に言うと率直に言うと総悟くんは。
わたしのことを、綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。
他のとはすべて覚えている。天人の存在、発売されないセガサターン、鞘花ちゃんとの激しいお付き合い、近藤さん土方さん山崎さん銀ちゃん新八くん神楽ちゃん定春妙ちゃん近所のおじいちゃん八百屋のおばちゃんの不倫相手の息子。八百屋のおばちゃんの不倫相手の息子まで覚えているのに、わたしのことは、覚えていないらしい。わたしに関する記憶だけ喪失してしまったらしい、部分的に記憶喪失になってしまったらしい。
「あ、あのー…名前くん…?」
先ほどから瞬きするだけの機械になっているわたしを山崎さんが口の端を引きつらせながら声をかけてくれる。心配してくれていることは嬉しいのだが、お礼を言いたいのだが、瞬きしかできなくて、わたしは瞬きをする。
『そ、総悟、名前くんだぞ!?』
『はァ。名前』
『お、覚えてないのか!?』
必死になって問いただす近藤さんの顔から、わたしに視線をずらして、まじまじと見据えてから、総悟くんは言った。
『こんな地味な面した女、三秒で忘れらァ』
「どういうことアルかゴルァァァァァ!!」
神楽ちゃんはソファーの前にある机をひっくり返して怒りの咆哮をあげた。
「私の名前に手ェ出しておいて手ェだした挙句忘れるとはどういう了見ネ!?」
帰ってきてからずっともぬけの殻のわたしを心配した万事屋のみんなに、こうなった経緯を話したら、神楽ちゃんは火山が噴火したかのように激しく怒った。
「マジかよ沖田くん。俺も最近忘れっぽくってさー。新八俺イチゴ牛乳どこやったっけ?」
「今あんた手に持ってますよ」
「え。マジでか」
ちゅーっとストローでイギゴ牛乳を飲み始めた銀ちゃんを尻目に新八くんは深いため息を吐いてから、わたしを見据えた。
「でも、それは困りますね…。時間が経てば思い出すようになるとかではないんですか?」
「…思い出すかもしれないし、思い出さないままかもしれないんだって」
「適当アルか!藪医者ネ!」
「いやお医者さんは悪くないよ神楽ちゃん…」
とうとうお医者さんにまで怒りが及ぶ神楽ちゃんを新八くんが宥める。ハハハと乾いた笑いが漏れる。でもこうやって心配してくれたり怒ってくれたりするのは有難い。なんだか気が楽になる。ああ、やっぱり万事屋はわたしのもうひとつの家族だなあ。
「殴って無理やりにでも思い出させてやるアル」
「いやいやテレビじゃないんだから。思い出の場所、とかないんですか?ふたりで行った場所に連れて行くとか!」
「ふたりで…」
お付き合いをさせていただく前に行ったところだけれど、遊園地が頭の中に思い浮かんだ。上下に揺れないメリーゴーランド、回され過ぎて気持ち悪くなったコーヒーカップ、お化け屋敷で置き去りにされたこと。総悟くんの悪口を言われたら腹が立った。あの時、少し前なら総悟くんの悪口を言われてもこんなに怒らなかっただろう、とわたしは思った。この気持ちの行く先は、どうなるのか。なにになるのか、と不思議に思った。
「遊園地に行ったことがある…」
「遊園地…では、二人で遊園地に行くというのはどうでしょうか?近藤さんに記憶を取り戻すためと言ったら一日くらいお休みにしてくれるでしょう。あの人僕と名前さんに甘いですし」
ね、とわたしを安心させようと笑顔を向けてくれる新八くんに、わたしも笑顔で応えたいのだが、不安が離れなくてぎこちない笑顔を返してしまった。
わたしに関する記憶がないということは、もう、総悟くんはわたしのことを好きではないということで。わたし達の関係も白紙に戻ったという事で。
いったい、これからどうなるのだろう。
不安を押しつぶすかのように、私は半襟の重ね合った部分をぎゅうっと握った。
―――翌日。
とうとう、総悟くんと遊園地に来る日がやってきた。妙ちゃんが「ちょっとくらい休ませろや。どうせたいした働きもしてねえんだからよォ」と近藤さんの胸倉を掴みながら脅したことによって、事を早く実行できた。脅さなくても近藤さんは聞き入れてくれただろうに…。
ちらっと見上げて総悟くんを見る。総悟くんはぷくーっと風船ガムを膨らましていた。私の視線に気付き「なんでィ」と言う。
「え、えっと。なんでも」
「そうかィ」
会話、終了。
すっかり忘れていたけど、わたしと総悟くんは共通点がほぼなかった。仲良くなるまで、会話の糸口を探すのに必死で気が付くといつも気まずい沈黙が漂っていた。そう、今、まさに気まずい沈黙が流れているのだ。
…。
き、気まずい…!なにこれ、なにか、なにか会話、会話を…!い、いつも何話していたっけ…?
「そ、総悟くん、何乗る?何か好きなの、あ、コーヒーカップとかお化け屋敷とか好きだよね?どっちから、」
「なあ、アンタ」
総悟くんが口を開いた。
「馴れ馴れしい」
そう言った総悟くんの顔は、無表情だったけど、少しだけ“不快”が混じっていた。
言われた意味がわからなくて、少しの間、ほうける。
ポーカーフェイスの総悟くんの表情を読み取ることが、最近少しだけ、できるようになってきた。これから、もっともっとわかっていくのだと思うと嬉しくなった。
けど、こんな恥ずかしくて悲しい思いをするのなら、わからないままで良かった。
「ご、ごめんなさ、」
馴れ馴れしいと不快に思われることに、どうして気付かなかったのだろう。総悟くんにとってわたしは初対面と同じなのだ。初めて会った女の子と一緒に遊園地に行かせられて、下の名前で呼ばれて、好きなアトラクションを把握されているなんて、気持ち悪く思って当然だ。
今の目の前の総悟くんは、わたしが酔って吐いたことも、置き去りにされて泣きわめいたことも、全部全部、知らない。
ああ、そうか。わたし、こうなってしまうんじゃないかって、怖がっていたんだ。
これが、不安の正体なんだ。
鼻の先がつんと赤くなって、目尻に涙が浮かぶ。駄目だ、泣くな。泣くな。必死に自分に言い聞かせるが、涙はあふれ出てくる。
「…あり。え。あんた、泣いてんのかィ?」
マジでか、と驚きの声を上げる総悟くん。総悟くんの周りには、わたしを除くと凛々しい女性しかいないので、こんなことで泣く人間がいるとは予想もできなかったのだろう。神楽ちゃん、妙ちゃん、九ちゃん、さっちゃんさん、月詠さん、みんな、こんなことで泣いたりしない人達だ。
「えー…、ったく。なんでィ。めんどくせェ女」
総悟くんが頭を掻きながら、面倒くさそうに重いため息を吐いた時だった。
タタタと後ろからこちらに向かって、走る音が聞こえてくる。振り返った時、神楽ちゃんの怒りに満ちた顔がすぐ後ろにあった。
「神楽ちゃ、」
「死ねオルァァァァァァ!」
神楽ちゃんの飛び膝蹴りが総悟くんに向かって放たれた。
が、総悟くんは間一髪のところで、回避した。
「あっぶねーなオイ」
「危なくしたんアル当たり前だろーが!おいこのクソサド野郎!今すぐ死ね!死ぬアル!!」
猫が毛並を逆立てて怒るように神楽ちゃんは怒っていた。フーッ、フーッと荒い息を吐いている。後ろから「神楽ちゃん何やってんのォォォ」と新八くんが走ってきていて、その後ろを銀ちゃんが鼻をほじりながらだるそうに歩いてきている。
な、な、何やってんのォォォォ!?
わたしは口をパクパクさせて神楽ちゃんと新八くんと銀ちゃんを見ていく。
「あーもう!尾行ばれちゃったじゃないか!」
「尾行もへったくれもないアル!もうこうなったらコイツをぶっ殺すことが最重要ミッションインポッシブルアル!」
「不可能になっているから!!僕なら無理だけど神楽ちゃんならポッシブルだよ!?」
「ぱっつあん、ツッコミのつもりがツッコミになってねーぞ」
「んぎゃ!?ちょ、ちょっと銀ちゃん鼻くそ飛ばさないで!」
ぎゃんぎゃんと口喧しく騒ぎ立てるわたし達を総悟くんはつまらなさそうに見てから「なァ、俺帰っていいか」と口を挟んだ。
神楽ちゃんが「ハァ〜?」と厭味ったらしく声を上げた。
「てめー全然反省の色ないアルな!」
「ちっと女泣かせただけだろィ。あんなことで泣かれちゃ、おちおちそこの女と話しもできねーよ。一日一緒にいるとか苦行だわ」
夏祭りで、わたしが泣いた時、面倒くさいと言いつつも、しょうがねえと言ってくれた総悟くんの面影は、残っていなかった。
そういえば、総悟くんはわたしのどこを好きになってくれたのだろうか。
初めて会った時のことは曖昧だ。銀ちゃんと土方さんにバズーカを撃ち込んでいる姿を見た時、“江戸ッ子こええええええ”と恐怖におののいた。
それからしばらくは特に何の接点もなかったのだけど、総悟くんがある日わたしに話しかけてきて、今までの様々な総悟くんの恐ろしい行動が走馬灯のように浮かんで…恐ろしさのあまり気絶して…。
一目ぼれではないだろう。わたしはそんな一目ぼれされるような容姿の持ち主ではない。
わたしのどこかを見て、この人は好いてくれるようになった。
でも、この目の前の総悟くんはそのことを知らない。
だから、こんなにも、そっけない態度なんだ。
興味のない人に対する態度を、好きな人からとられるって、ものすごく苦しいことなんだ。
みんなに会えて、少しほっとした気持ちが瞬く間にしぼんでいく。
目を伏せた時、神楽ちゃんが私に視線を寄越したことに気付かなかった。神楽ちゃんはぎゅっと唇を噛んで総悟くんを睨みつけて、息を吸い込んだ。
「名前は…名前は、お前の彼女だろーが!!」
それは、とてもとても大きな声で。
神楽ちゃんはハアハアと肩で息をしていて、ハラハラと見守っていた新八くんは顔を覆っていて、銀ちゃんは「あーあ…」と息を吐いた。
目をまん丸くした総悟くんと、目が合う。
『でも、わたしが総悟くんとお付き合いをしているってことは総悟くんには言わないでくれるかな?』
『えー。なんでアルか。まどろっこしい』
『神楽ちゃん、知らない人に俺が君の彼氏だぜ!って言われたら吃驚するでしょう?』
『吃驚するっていうか…キモいアルな!』
『ハハハ率直なご意見ありがとう』
『神楽ちゃんんんんオブラートって言葉知ってるううううう!?』
総悟くんの瞳には、あの時の神楽ちゃんと同じものが宿っていた。
万事屋のみんなには先に帰ってもらうように言った。
総悟くんには、もう少しだけ残ってほしいと頼んだ。
橙色の空の下、わたしと総悟くんは肩を並べて帰っていた。前と同じ距離なのに、遠い。
総悟くんはいつものようにポーカーフェイスだが、時折気まずそうにわたしに視線を寄越す。初対面の女の子が実は自分の彼女だったのだ。意味がわからないだろう。それに総悟くんは剣一筋で生きてきた。恋愛方面にはてんで疎かったらしい。わたしが初めて好きになった人と知った時は嬉しかった。総悟くんみたいに信念を貫いている格好いい人はたくさんの人と経験があるのだと思っていたから、嬉しかった。嬉しくて、たまらなかった。
総悟くん、と呼ぶのはもうやめよう。
沖田さんにとってわたしは、初対面の女の子なのだから。
「沖田さん」
久しぶりに呼ぶ苗字は懐かしい響きを持っていた。
沖田さんが、わたしに顔を向けた。
「さっきの神楽ちゃんの言葉、気にしないでください。馴れ馴れしくして、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げて謝る。沖田さんは何も言わない。
頭を上げて、にこりと微笑みを作った。頑張って堪えるけど、少しだけ視界がぼやけてしまう。
道が二つに分かれた。
真選組はこのまま真っ直ぐで、万事屋はここを曲がる。
わたしは頭を軽く下げた。
「さようなら、沖田さん」
顔をあげるがいなや、わたしは背中を向けた。
沖田さんは、多分今、何か言いたげな表情を浮かべているだろう。泣きそうな顔をしているわたしの顔を見て、何も思わないはずがない。わたしのことが好きじゃなくても、泣かせてしまった子がまた泣き出しそうになっているのを見て、何も思わない人ではない。
自惚れじゃない。
だって、わたし、沖田さんとお付き合いしていたんだもの。
それくらい、わかるよ。
ぽろりと溢れだした涙が頬を伝って地面に落ちた。それから堰を切ったように、涙がとまらなくなって、嗚咽も止まらなくなって、わたしは周囲の目も憚らず子供のように、泣き声をあげながら家に帰った。
To be continued…