これは、わたしが総悟くんのことを沖田さんと呼んでいて、総悟くんがわたしのことを名前と呼ばず、苗字と呼んでいたころのお話。
総悟くんのことを、友達だと、こっそり心の中で言い聞かせていたころのお話。
陽が傾いて、空がオレンジ色に塗りつぶされていた時。わたしはせっせと領収書の整理をしていた。お酒からのお酒からのお酒からのマヨネーズ。マヨネーズって必要経費なの。違うよね。どう考えても違うよね。うんうんうなりながら頭を悩ませているとがらりと襖が開かれた。
「あれ、沖田さん。どうしたんですか?」
顔を上げると沖田さんが顔を俯かせていた。沖田さんは無言で背中に手を回して襖を閉める。よろよろとわたしの近くに寄ってきて、そして寝ころがった。
「あ゛ー…」
からの、疲れ切った一言。
「な、なにがあったんですか?」
「チャイナと闘りあってきた」
なるほど。
沖田さんと神楽ちゃんの喧嘩…いや戦争はそれはそれはすごいもので。なんど巻き添えを食らいそうになったことやら。二人の戦争を見て怖すぎて何十回気絶したことやら。
「ったく…ざけんなよあのクソガキャア…いつか決着を…決着を…」
腕で目元を覆いぶつぶつと不穏なことを口にしている沖田さんが怖くて、わたしは身を縮こまらせた。でも、わたしの神楽ちゃんに害をなすようなことを言っているのを見過ごすこともできず、わたしは意を決して口を開いた。
「あ、あの…、何があったか知らないわたしが口を挟むのもアレですが、か、神楽ちゃんも悪気があったわけじゃないと」
「そういやテメェ、チャイナと一緒に住んでいるんだろィ。もっとちゃんと教育いや調教しなせェ。てめーらが甘やかすからあの餓鬼つけあがるんでィ」
「すみませんすみません帰ったらすぐに言い聞かせときますすみません許してくださいすみません」
あああああ本当にわたしってやつはあああああ。なんって脆弱過ぎる意思なの…!?
沖田さんはチッと舌打ちを鳴らして、ごろんと寝返りを打った。沖田さんの背中には疲れが貯まっていた。このところ沖田さんはお忙しそうだった。というか、自ら忙しくしているような感じだった。それはやっぱり。
ミツバさんが、亡くなったからだと思う。
寂しさを紛らわすように、沖田さんはお仕事に精を出すようになった。
ばかばかしいって自分でも思うけど、わたしは沖田さんのお仕事が羨ましい。寂しさを、一時でも忘れさせることが、お仕事はできるのだ。わたしの何倍も、沖田さんの役に立っている。
わたしには、そんなことできない。ミツバさんが亡くなった時だって、わたしはただ沖田さんの隣で泣いただけ。優しい言葉をかけてあげることも、背中を押す言葉もかけずに、ただ、隣で泣いただけ。
そんな自分が情けなくて、悔しくて。
沖田さんの背中を見つめながら、思った。
ミツバさんは、沖田さんが悲しそうな時、どうするんだろう。
その時、頭の中でミツバさんの声が蘇った。病室でした雑談のひとつに、こんな話があった。ミツバさんはくすくすと笑いながら、愛おしそうに目を細めて話してくれた。
「お、沖田さん」
「なんでィ」
背中を向けたまま無愛想な声を返してきた沖田さんに、恐々と小さな声で言った。
「あの、よかったら、わたしの膝を枕替わりに、どうぞ」
沖田さんは首をこちらに向け、炬燵から足を出して、太ももをぽんぽんとゆっくり叩いているわたしを、少し丸くなった目で見た。
わたしは気恥ずかしくて、俯いた。
え、えっと最近沖田さんあまり眠れてないと聞いたので。なんでも土方さんの死体を数えながらじゃないと眠れないそうじゃないですか。それで山崎さんがちょっとうるさくて眠りづらいかなーと愚痴をこぼしていましたので、あっいやこれはしまった内緒にしといてって言われていたんだ…!!違うんです今のはその嘘で、としどろもどろに話すわたしを遮るように、沖田さんはわたしの太ももに頭を乗せた。
それから三十分。わたしと沖田さんは言葉を交わしていない。とてもとても気まずい。時計の秒針がやけに部屋に響く。
ど、どうしよう…。な、なにか会話を…!!会話を…!!
「お前ってさ」
「うひゃい!?」
「なんでィ、変な声出すな。うぜェ」
「す、すみません…」
突然話しかけられ、驚きのあまり奇声をあげてしまったわたしに沖田さんは悪態をつく。
「兄弟とか、いんのかよ」
「いえ、一人っ子です」
「へェ。所帯じみってから、弟とか妹がいるのかと思っていた」
「しょ、所帯じみている…」
「遠回しにババくせェって言ってんでさァ」
「わ、わかっていますよ…!多分そんな意味だろうなとは思っていました…!!」
涙声になって軽く反論すると、沖田さんはククッと意地悪い掠れた笑い声を漏らした。もう…、とふくれっ面になりながらも、久しぶりに聞いた沖田さんの笑い声に、頬緩ませる。
「なにキレたり笑ったりしてんでィ。きもい。うぜェ」
「いだだだだっ!!」
沖田さんの手が伸びてきて、わたしの頬を捕え、思い切り下に引っ張る。かと思ったら急に放され、頬の肉をものすごい勢いで跳ね返ってきて、それもまた痛くて涙目になる。そんなわたしを見て、沖田さんはぶくくと笑う。人が痛がっているのを見て笑うとか、本当にどんな性癖なのこの人。
「姉上も、よくこんなんしてくれていたんでさァ」
ぽつり、と独り言のようにつぶやく沖田さん。久しぶりに、沖田さんの口から“姉上”という言葉を聞いた。久しぶりに聞いたその言葉は、どこか、切なくわたしの耳に響いた。
「お前の贅肉がついた太ももとか、姉上と全然ちげーけど、でも、なんか、懐かしく感じるわ」
『そーちゃんね、あなたの前ではあんなかっこつけているけど、でもあの子、昔はとても甘えたさんだったのよ?姉上、今日僕寺子屋の先生に褒められたのでご褒美に膝枕してください!って。それがあまりにも可愛かったから、ついやっちゃってね…。甘やかしすぎちゃって我が儘な子になっちゃったけど』
ふふっと嬉しそうに語るミツバさんの笑顔が今でも鮮明に頭に残っている。本当に我が儘な子なってしまいましたよ。わたしいつも沖田さんのイジメの被害者になっているんですよと言いたくもなったけど、それ以上に。わたしは、膝枕をしてほしいとせがむ小さな沖田さんを想像すると、心の底から初めて感じるあたたかいものに押されて、『そうなんですか』とほほ笑むことしかできなかった。
ミツバさんは沖田さんが褒められた時、そして悲しそうな時に、膝枕をしていたらしい。
無意識のうちに思っていた願いは、ミツバさんが亡くなった時、はっきりとわかった。わたしは、沖田さんの“鎧の紐をとく場所”になりたいんだということに。
「沖田さん」
「なんでィ」
「ミツバさんの太ももは、どんな感じでしたか?」
「それを聞いてどうするんでィ」
「見習おうかと思いまして。えっと、その。ミツバさんみたいになれるなんて思っていませんが、少しでも近づいて、沖田さんが、わたしの膝で、少しでも、安心、できるようになったらいいなー…な、なんちゃってー…あ、あはは」
間違えた。
しどろもどろになって話していくうちに、じいっと蘇芳色の瞳に射抜かれるように見られて、自分の考えがどれだけ奢ったものなのか気付き、誤魔化すようにして笑う。
「バッカじゃねえの」
ほら、やっぱり。
大好きなお姉さんのようになろうとする馬鹿な女に、沖田さんは吐き捨てるように言う。
「…ごめんなさい」
「馬鹿だ。てめーは本当に馬鹿でさァ。俺、ちょっくら寝るから、一時間経ったら起こしなせェ」
「…はい」
「姉上より肉がついていて、無駄に気持ちいいから眠くなった」
「…は…。へ?」
“気持ちいい”
へ?と疑問の声を上げたものの、沖田さんはアイマスクで目元を覆っていて口は一文字を結んでいて、もうどんな表情をしているのかわからなかった。
そして、すうすうと寝息が聞こえてきた。
寝つき、良すぎでしょ…。
でも、気持ちよくないと、少しは心を許している人の膝じゃないと、眠たくなんてならない、よね?
自分に都合の良い解釈かもしれない。けど、沖田さんがわたしの膝で眠っているというこの状況が、鎧の紐を少しだけほどいてくれたように感じて、わたしは嬉しくて。
「…おやすみなさい」
頬を緩ませながら、そっと、栗色の髪の毛を撫でた。
『そーちゃんね、膝枕をされながら髪の毛を撫でられると嬉しそうに目を細ませるの。それがとても可愛いのよ』
沖田さんのアイマスクが過ごし動いたような、そんな気がした。
微睡のなかで