霧の団の頭領となったアリババが、『仕事』の帰り道ぽつりと呟いた言葉に、カシムは驚いた。

「今日は星が綺麗だな」

それは確かに自分の知っている言葉なのに、まるで初めて耳にしたような斬新さを持ってカシムの鼓膜に響いた。

星が、綺麗。

カシムには、疲れた身体を一刻も早く寝床に投げ出したいと、そればかりを考えて空を見る余裕がなかったし、なにより何かを綺麗だと評価する言葉を、そもそも「綺麗」という概念自体を、久しく忘れていたのだ。
それは他の団員にも言えることで、アリババの周りに居た幹部達は驚いてアリババを見たのだった。

「‥‥あの、俺なんか変なこと言った?」

不意に集まった視線と沈黙に戸惑い、アリババは恐る恐る部下(名目ではあったが)を見回した。彼らは押し黙ったまま、アリババへと向けていた視線を今度は空へと移した。最初に沈黙を破ったのはカシムだった。

「おまえ、」

何か言いかけて、けれどその先に続くはずだった言葉は、ぶは、という失笑に遮られた。それきりカシムは大笑いをするばかりだ。
突然吹き出したカシムに困惑するアリババをよそに、周りの団員もカシムにつられて笑い出した。

「ああ、そうだなアリババ。今夜は星が綺麗だ!」
「なんなんだよ‥‥」

馬鹿笑いをするハッサンの太い腕にばしばしと背中を叩かれ、アリババはわけもわからず恥ずかしくなった。自分はそんなに可笑しなことを言っただろうか。わからないことすら恥ずべきことのように思えてくる。
そんなアリババに、ひいひいと涙すら滲ませて腹を抱えていたカシムが、責めるでもなく、ただ楽しそうに言った。

「お前は盗賊に向いてねーな」

自分の水晶体は結露しているのだろうとカシムは思った。
いろいろな事を、それも辛いことや醜いことばかりを知りすぎて、そんな世界も汚れた自分も見たくなくて心を凍らせた結果、体外との温度差にレンズが曇ってしまったのだ。
団員たちも同じだった。霧の団が結成されて以来、カシムは幹部の誰かが「綺麗」という言葉を口にするのを聞いたことがなかった。煌びやかな宝石を盗んでも「高く売れそう」とにやけるだけで、その輝きには目もくれないし、美しい女を目にしても「色っぽい」と鼻の下を伸ばし、下心も露わな視線しか送らない。
誰もアリババのように、素直に感嘆できなくなっていた。「綺麗」だなんて感じる心を忘れてしまっていた。
けれど、誰しもその感情には覚えがあった。遠い昔、まだ心が温かく躍動していた頃。高い建造物の無いスラムから見える空はどこまでも広く、晴れた夜には、無数に輝く星々に魅了されたものだった。その時の感慨を、皆懐かしく思った。そして未だにそんな風に思えるアリババが、年の割に幼く思え、同時に少し羨ましかったのだ。
だから皆、どうしようもなくおかしかった。我らが純粋な頭領と、その純粋さに少しだけ共感した自分が。

見てみろ、アリババ。カシムは思った。その時間違いなくカシムは、久しく忘れていた筈の感動の念を覚えていた。そこには少しの羨望もあったが、けれど間違いなくアリババという人間に、感動していた。

たった一言で霧の団をみんな笑顔にしちまうなんて、お前は大した奴だよ。

その後もアリババは、目に映るいろいろに様々な感情を持ち、表情を変えて見せた。
盗品の剣の柄を見たときは、施された装飾の繊細さに感心し、まるで魅入られたようにじっと見つめ、指先でそっと模様をなぞっていた。(カシムはその様子を見て初めて、剣の柄に装飾がなされていることに気づいた。)
海辺に行けば、太陽光を反射して瞬くみなもを見て、その水面よりもきらきらした目でそれを眺め、波の音を聴いていた。(波の音って落ち着くよなと言われて、カシムは幼い頃義母に抱かれてさざ波を子守歌に眠っていたことを思い出した。)
買い出しの途中見かけた白髪頭の老夫婦の、皺の寄った手が繋がれているのに気づいて、年とってもああいう風に出来るのっていいよな、と少し照れくさそうに、優しく微笑んだ。(カシムはなんでお前が照れるんだよ、とからかい混じりに笑った。)

アリババの心が動くたび、カシムは世界の美しさを教えられているようだった。
それはアリババのレンズごしに世界を見るようで、新鮮で楽しかったが、どこか苦しくもあった。いつもアリババばかりが見つけ、カシムには気づけないことが、歯がゆかった。
所詮曇り硝子だ。カシムは自嘲した。アリババが拭いてくれないと何も見えないし、何も見なくていい。

その日も、アリババは水平線に落ちかけた夕日を見て、ああ、1日が終わるなとどこか物憂げに、青から赤へと色を変えていく空を、飽きもせず眺め続けていた。
窓枠についた肘に乗せられた横顔を、カシムは葉巻をくゆらせながら見ていた。そして、気づいた。
カシムは凍りついていた筈の心が、確かに熱を帯びるのを感じた。こんな感慨自分には必要無いのに、と戸惑いつつも、それに気づけたことを嬉しくも思った。 
カシムはアリババの髪に触れた。触れずにはいられなかった。アリババが驚いて振り向く。

「カシム?」

ぱちくり。黄金の瞳が瞬く。丸い頭が動くのと一緒に、手の中の金糸もさらさらと揺れた。夕刻の陽を受けたそれは、水面より美しく反射し、飾り柄よりも繊細で、繋いだ手よりも暖かな色合いだった。
触れたはいいものの、カシムはなんと言って良いのかわからなかった。感じたことが多すぎて、それを表現するだけの語彙を持ち合わせていなかったし、何より照れくさかった。こいつはいつもすごいな、とカシムは再び感心した。
そして一言だけ言った。その言葉以外思いつかなかった。

「綺麗だな」

アリババは呆然とカシムを見た。たった一言だけなのに、言葉の意味を飲み込むのに大層な時間がかかった。一方で、自分を注視したまま固まるアリババに、カシムは後悔をし始めていた。慣れないことをしたから、何か可笑しな表現をしたのだろうかと羞恥すら感じていた。それはいつかの夜空の下での出来事と酷似しているが、立場はまったく逆転していた。
やがてカシムに何を言われたか理解したアリババがじわじわと赤面し始めて、カシムはますます困惑した。

「え?あ、空が?」 
「違うっての。お前の髪」

半笑いで空を指差され、カシムがむっとして訂正すると、アリババはいよいよ耳まで真っ赤になってしまった。茹で蛸みたいだな、と呑気に思いながら、カシムは首を傾げる。

「なんでそんな真っ赤になってんだよ」
「な、なってねーよ!」
「なってるじゃねぇか。夕焼けより赤いぞ」

カシムが冷静に言うと、これ以上は無いだろうと思っていた顔の赤みは、しかし予想に反し更に度を増した。

「カシムがそんなこと言うからだろ!」
「俺かよ。俺そんなに変なこと言ったか?」
「いや、変っていうか‥‥!」

アリババは口ごもってしまったが、可笑しな内容だったか否かについては取りあえず否定されたので、カシムは安心した。そして溶けた心はアリババの赤い顔をなんとなく好ましく思って、微笑んだ。
アリババはもう混乱するばかりだ。カシムがそんな言葉を口にするのが意外だったし、それを自分に向けられるなんて思いもよらなかった。とどめに今まで見たことも無いような優しい笑みを向けられては、まともに顔を見ることさえ出来なくなって、俯くしかなかった。カシムの言葉が猛烈に恥ずかしく、けれどとても嬉しいと感じている自分はなんなんだろう。

「変な奴だな。お前もいつも言ってることだろうが。いろんなもの、綺麗だって」
「そ、そうだけど、」

うろうろと目を泳がせてどもるアリババを、カシムは不思議がるばかりだ。

まさか自分がカシムの心を溶かしたなんて夢にも思わないアリババは、その後もこっ恥ずかしい台詞で無意識に口説きまくるカシムに度々赤面させられることになるなんて、これまた予想もしていないのであった。



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