***
「と……東、先輩」
一瞬、教室の空気が止まる。
3年生の教室中の視線が、戸口に立った俺に集まって、うっと声が詰まった。
教室の奥の奥、取り巻きに囲まれた虎に……東先輩は、椅子にどかりと背を預けていた体を起こして、ゆったりとした足どりで歩いて来た。
微かなどよめきが教室を走る。
「ケチャップの礼でもしてくれるのか」
「うっ。あれは、その、ホントにすみませんでした……」
「何の用だ。早く言え」
別に怒ってるわけじゃない。
ちょっと口が悪いだけで、あの頃と変わってない。
「あの……兄ちゃんが、久しぶりに会わないかって」
一瞬、東先輩が黙った。
まずいこと言っただろうか。慌てて続ける。
「母さん、仕事で帰りが遅いからいつも兄と2人なんです。夕飯食べに来てくれませんか?」
東先輩は、少し目を細め、視線を投げて言った。
「……やめとく」
「え?」
「教室帰れ。1年が、3年の廊下うろちょろしてんじゃねえよ」
「あ、虎に……先輩!」
東先輩が、足早に教室を出て行くのを取り巻きの数人が、慌てて後を追った。
……心に、隙間風が吹く。
「……俺だけだったのかな……」
再会できて、嬉しかったのは。
***
「街村。噂になってるぞ」
突然クラスメートに言われて、頭の中を疑問符が飛び交う。
「なにが?」
「鬼の東と知り合いなのかよ、おまえ」
ひどい言い様だ。
「鬼じゃない。東先輩はほんとは優しいんだよ」
クラスメートが、凍りつく。すごく心配そうな顔で言った。
「……脅されてるのか?相談しろよ?何もできねえけど」
「あほ!」
思いっきり睨んでやった。
みんな、先輩を誤解してる。
親がヤクザってだけで……いや、見てくれも怖そう、だけど、言いたい放題言ってる。
……でも、待てよ。
「俺だって、怖がってたな――」
自己嫌悪だ。
東先輩が、遠い目をする原因が少しわかったような気がして、胸がじりっとした。
虎兄ちゃん、ごめんなさい。
見かけで判断してた、俺も同じだ。
***
ポケットに手を突っ込み、びしっと仁王立ちする東先輩を、俺は小さくなって見上げていた。
いざ会おうと思うと、先輩は意外とつかまらない。
食堂前でやっと見つけて、慌てて声をかけたんだけど。
「……あ?なんだって?」
すごい、迫力。
「け、携帯とか、持ってない、かなあって――」
「なんで」
「メールアドレス、とか教えてくれません?」
「……どういうつもりだ」
「どういうつもりも何もないです、ただ連絡先知りたいだけで」
取り巻きの人達が、顔を見合わせている。
黙り続ける先輩の代わりに、凄んできた。
「俺の教えてやろうか?かわいこちゃん」
「どっか行けよガキ。マワすぞ」
「おい」
俺を取り囲んでからかうように笑っていた取り巻きの声を裂いて、ドスのきいた声が降ってくる。
「断りなく手ぇ出してんじゃねえ」
みんなが黙った。
あの、凄味のある目。
よくわからないけど、俺は、背中をぞくぞくっとしたものが走り上がるのを感じた。
「……街村弟」
東先輩が、俺を見ずに口を開く。
「もう俺に関わるな」
急に告げられたその言葉に、目を見開いてしまう。
「え……」
「うろちょろすんな。迷惑だ」
胸の真ん中を撃ち抜かれたような鈍い衝撃が走る。全身の血液の温度が下がった気がした。
「そ、そんな――」
「俺は昔と違う。人間変わるんだ。今後一切、てめえと関わる気はねえ」
「と……」
「今度、俺の前に現れてみろ、犯して河に捨ててやるからな」
強い視線に射抜かれて、俺は、声も出せずにあくあくと空気を食べた。
東先輩が、踵を返す。
一瞬、壮絶な凄味のある、いや、凄絶に色気のある目で俺をひと睨みして、取り巻きを従えて行ってしまう。
……体が、じんじん痺れたように痛かった。
俺は、足から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
強烈な拒絶の言葉と、あのにらみ。
前なら、体は緊張で竦み上がって、恐怖で倒れこんでいたはずなのに。
今は、体が千切れそうで、胸が焼けるようで、居所がないみたいに切ない。
……怖くてもいい。
あの目でもっと見てほしい。
けど、あのまなざしは、掴んだと思ったら、あっという間に俺を切り刻んで離れて行ってしまう。
「……虎、兄ちゃん」
理由はわからないけど。
寂しくて、たまらなかった。
***
下校中。
夕暮れに傾いた空の色は、哀愁があって切なくなる。
なんとなく虎兄ちゃんの色だな、と思う。
「……どうしたんだろ、俺」
あれから、虎――東先輩のことばっかりだ。
迷惑だって言われた。
一呼吸一呼吸が、重い。
地面にめりこんでいってしまうんじゃないかというくらいに、足取りも重い。
思いっきり全身で浴びたあの拒絶の態度に、ぐずぐず体が腐っていってしまいそうだ。
もっと話したかった――けど、もうそれも無理だ。
くよくよしながら歩いていたら、ふと気配を感じた。
振り向くと、学生服姿の高校生たちが歩いている。
4人だ。
靴をひきずるように歩く姿を見ると、ガラは良さそうじゃない。
嫌な、感じだ。
俺のことを見て、こそこそ話している。
思わず早足になる。早く人通りの多い通りに出て安心したい。
ついてくる足音が急に早くなって寒気がした。
明らかにつけられてる。
背中が冷たくなった。
カツアゲか? インネンか?
他校生徒に絡まれて怪我をする生徒は毎年少なからずいるし、自分はどちらかというと絡まれる側に入ると思う。
ついてくる足音が怖い。
思わず走り出すと、あっという間に追いつかれて、腕を掴まれる。ねじり上げられて思わずうめいた。
「いっ……!」
「逃げんなよ」
クチャクチャとガムを噛んで、いかにもな奴が俺の手を掴んだまま言った。
誰だって逃げるよ!
心の中で叫ぶ。
「東の知り合いだってな?」
「!」
「こんなのが、虎雄のお知り合いか……?」
「お稚児さんの間違いじゃねえ?」
笑い声が上がる。
「な、なんなんだよ、あんたらっ」
精一杯の力を込めて、にらむ。
「お?結構生意気そうじゃん」
「そうじゃないと燃えねーなあ」
胸倉をつかまれて、コンクリの壁に押さえつけられる。
「俺たち、東に礼がしたいんだよ……」
「協力してよ、ちびっこくん」
ぎりっ、と胸倉をさらに強く掴まれて、喉の奥から声が漏れる。
「……呼び出せ。知り合いなんだろ」
「しら、ない……っ」
「あー?」
「連絡先、知らない……っ、俺、ウザがられ、てる、し……っ」
言ってしまってから、じわっと涙が滲む。
なんだこれ。なに、この涙。
一瞬、奴らが呆気にとられて、笑いが上がった。
「あららあ?嫌われてるの?かわいそうでちゅねえ?」
「か〜わいいねえ〜。ほんとにお稚児さんなんじゃねーの?」
胸がむかむかすることを言われたけど、今は何より、自分の言葉にショックを受けていた。
「ほんとに嫌われてる……っ、今後一切、関わるなって、言われ、て」
ぎりぎり痛む腕に息を詰めながら、やっと話す。
奴らが、顔を見合わせた。
「嘘こいてんじゃねーよ……!」
「っ」
知り合い、にすら、なれない。
だって、あんなにはっきりと拒絶されたんだから。
ふるふると、首を振る。
そんな俺の様子を見て、一人が、ちっと舌打ちをする。
「誰だガセ入れた奴はよお。こんなの役に立たねえじゃねーか」
「はい、無駄ー」
捻りあげられていた手が、解放される。
俺の肩を突き飛ばして、学生たちは歩いて行ってしまった。
電柱に寄りかかって、心臓を落ち着かせながら見送る。
「……なんだよ……」
ぽつりと呟いたら、涙が頬を転がった。
嫌われてる――そんな言葉が、じくじく胸を締め付けている。
虎兄ちゃんに、嫌われたくない。
昔とは違うんだって、そう言ってたけど。
俺には、保健室に運んでくれた虎兄ちゃんは、当時と変わらないと思った。
涙を拭って、立ち上がる。
もう一度、話したい。
会って、俺のこと、本当にウザいのか、怖いけど聞いてみたい。
話せるチャンスがほしい。
そう願いながら、家路を辿った。